紹介状は燃えるゴミではありません
ハローワークだなんて片仮名にしてみたって、所詮は公共職業安定所だったころとやってることは変わらないじゃないか、という偏屈な気持ちが水野晴樹にはある。そういった場所に自分が足を踏み入れなければならない現時点の状況は、彼にとってさらに唾棄すべきものであった。水野は、家から原付で十分ほどの場所にある、市内の中心部に三階建てのビルを構える総合庁舎の一階に入居しているハローワークの駐輪場へ、嫌々ながら入っていった。
本来なら、高校を卒業して浪人することもなく、一流とは言えないまでもそこそこのステータスを保っている私立大学へ入学し、可も不可もなくという成績でさしたる問題もないままに卒業した彼が、卒業後に半年も経たずにハローワークへ足を向ける必要など、ないようにもみえるだろう。しかし水野は、大学三年の後半から、皆がそろそろ就職活動を始めようという時期にさしかかったころ、音楽のバンド活動に熱を入れすぎた。さらに、ちょっとした音楽関係者から声をかけられ、淡い夢を見せられ、それが夢は夢であると気づかされたころには卒業も間近に迫っており、いまさら就職活動を始めようにもどうにもならない状況に陥ってしまった。卒業以降、水野は実家で寝起きし、何事もくだらないくだらないと口にしながらコンビニエンスストアで深夜のアルバイトをしていた。それも半年を過ぎると、堕落しきった息子に堪忍袋の尾を切らした両親から、半ば命令のようにしてハローワークへ行け、と進言されてしまったのである。
「俺は、こんなところで、何をしてるんですか、ね?」
原付のキーを回してエンジンを止める。水野は思わず口にしてしまった言葉に自己嫌悪を覚えながら、しばらくシートの上で自分の頭上を見上げていた。そこには敷地内に植林されている桜と、ビルの無機質な外壁と、ブラインド越しに漏れてくる室内の蛍光灯の明かりと、それらの向こうには手を伸ばしても届きやしない曇天が広がっている。ひといき、吐く。初冬の冷たい空気に吐く息が少しだけ白くなった。霧散しようとする自分の吐息に見入り、ようやく季節と卒業してから今までの無為な時間、というものの長さを実感したかといえば、そうではなく、ただメランコリックな気分でしかない水野にはこのまま自分も吐息のように消えてなくなってしまいたいという願望というにはあまりに淡いベクトルのようなものが沸き起こっただけである。
それでも、ありったけの、最後に残った両親に対する意地のような何かを振り絞って原付のシートから水野は降りた。どうしても前に進めないときには、後ろ向きに歩けばいい、だなんて言ったのは誰だっただろうか。水野は自分の記憶を掘り起こす。過去の偉人? テレビに出演しているタレント? それとも学生時代の友達だったか。本気で後ろ向きに歩こうとした水野は、すぐさま駐輪場の自転車へ突っかかりそうになり、苦笑を洩らして後ろ向きに歩くことを止めた。
自動ドアから中に入る。ハローワークはこちら、といった余計なお節介に思えるほど大きな矢印に従って進む。大学の中規模な講堂くらいある広さの室内には、水野が予想していたよりも多くの人たちが集まっていた。エル字型に配置されたテーブルの向こう側には、間違いなく職にはあぶれていないし将来も約束されているような公務員たちが求職者を見下すような素振りは極力見せないようにして、求職者たちの対応をしていた。室内をエル字型に区切り、空いているスペースの中心には求職情報を集めたファイルが棚に陳列されている。それらを閲覧するシートが並べられても要る。壁際には簡易的な検索用の端末が設置されていた。端末の操作を教えてもらうのも癪であるし、今日はまず来ることが第一目標、と勝手に今日の到達点を変更してしまった水野は中央付近に置かれているシートに腰を降ろした。少しだけ冷静になってあたりを見回してみると、やはり水野と同年代の人間というのは少ないように思えた。どちらかといえば、水野からすると両親くらいの年齢が多いようだと彼は観察していた。
することもなく、かといってこのままでいれば誰か職員に声をかけられそうな雰囲気でもあったので、水野は棚から一冊だけ求人情報のファイルを持ち出してきて見るとも無しに捲っていた。どうやら、市内の営業職に関する求人情報であった。仕事内容が、月給が、社会保健が、その他諸々、水野にとってみれば初めて見ることだらけの項目が並んでいるそれは難解な楽譜を眺めているよりも頭が痛くなるものだった。
「なにか、わからないことはありますか?」
声をかけてきた職員に驚いて水野はファイルを音を立てて閉じた。その勢いで、ファイルの中の一枚が、ファイルから落ちそうになる。落ちそうになった一枚を引き出して水野は見た。実家から近いし、他の部分は見てもわかりようもない。水野が一枚の求人情報を手にしているのを見て職員は勘違いをしてしまったようだ。
「そちらの会社、いまから問い合わせて見ましょうか? 面接とか、ね」
職員に促されるまま、テーブルの椅子へ座らされ、対面している向こう側で職員が電話をかけている様子を、我ながら現実感のない光景だと水野は思う。どうして、自分はこんな惨めなことをしなくてはいけないのだろう。何をどこで間違ったのだろう。ここは、社会の底辺に住まう人生の敗者が集うようなところではなかったか。自分は何に負けたのだろうか。
「……さん、聞いてます?」
先ほどから上の空だった水野へ、電話をかけ終わった職員が言うには、先方の会社から面接の許可をとったことと、面接の日取りの指定があったことだった。別に日中はやることもなし、拘束されるような約束も水野にはなかった。やや押しの強い職員に押し切られるような形で水野は面接の日程を承諾してしまい、なにやらわけのわからない書類に記入させられ、狐につままれたような面持でハローワークから出たときには、既に空には黒い緞帳が降りかかっているころであった。今日はバイトがある。この調子では眠らずにいかなければいけないかもしれない、とぼんやりと思う。
それから、来たときとは違う道を通って、倍近い時間をかけて家へ帰った。夕食の支度をしていた母親に会社の面接に行くことになったことを告げると、母親は喜んでくれた。無邪気に喜ぶ母親に、どうせ勤める気なんてないんだ、とは言い出せず、雨の道を歩いて靴下が少しずつ濡れていくような罪悪感を感じながら夕食を食べる。自分の部屋で小一時間横になってからコンビニのバイトへ出向いた。いつもより早い時間に着いてしまった。ここのコンビニは市内を縦断する国道沿いにあり、珍しいところといえば、コンビニと大手本屋チェーン店が一緒になっているところだ。深夜の暇な時間などはいくらでも時間がつぶせるよな、とアルバイトの先輩は言っている。まあ、確かにそうだろうと水野は思うが、彼にしてみれば掃除をする面積が広いのが厭なだけの話だった。
水野はハローワークで貰ってきた会社の情報と面接日時が記入されている紹介状を、店頭に置かれているゴミ箱へまるめて捨てた。そして店内へ入り、前のシフトで働いているバイト仲間たちに挨拶をしながらバックヤードの扉を開ける。そこには店長がいつものような小難しい顔をしながら、たいして小難しくもない端末に映し出されたグラフを前にして唸っていた。
「おや、お疲れさん。今日はやけに早いね」
振り返った店長へ適当に挨拶を返してロッカールームへ向かう。そこにはちょうど掃除を終えたばかりらしい菊池由加里が、掃除道具を仕舞いこんでいるところだった。由加里はまだ大学三年生であり、大学の講義が終わってから家に帰るまでのあいだ、このコンビニでバイトをして自分が遊ぶお金を稼いでいる、ということらしかった。ショートカットで、どんぐりを一回り大きくしたような瞳で、口に拳骨が入ってしまうことをよく自慢している女の子だった。どうやら、ロッカーの上にバケツを置こうとして苦労している様子で、由加里はこちらを見ようともしていなかった。水野はロッカールームの入り口でしばらく由加里が四苦八苦している様を眺めていた。
「あのお、見てるんだったら手伝って貰えます?」
気づいてたのか、とは口にせず水野は黙って由加里に近寄ると、少しだけ背伸びをして手を伸ばし、バケツをロッカーの上に落ち着けるようにして置いた。それからようやく「お疲れさま」と口にする。一抹の気恥ずかしさを感じながら。
「なんか、そうやってクールぶってるっていうか、うーん、なんていうのかなあ、落ち着き払ってるような振りするの、止めてもらえます? あんなことしといて」
「なんだよ、それ」
いきなり突っかかってくるような調子の由加里を横目にして、水野はロッカーへ自分の鞄を放り込みハーフコートをハンガーにかけて、全国チェーン共通のコンビニの制服を羽織った。
由加里は怒ったように「別にぃ」と言って、ロッカールームから出ていった。ロッカールームとは名ばかりで、店長が座っているデスクからほとんど筒抜けの場所にあるわけであり、いまの会話も筒抜けであるはずだった。まあ、聞かれたとしても困るようなことはないだろう、と高を括った水野は適当な様子で壁に貼ってあるシフト表などを見遣るようにしていた。店長が店内へ行くのと入れ替わりに、また由加里がバックヤードへ入ってきた。気づかない振りをしていると、水野の後ろに立った由加里は彼の膝の裏に彼女の膝を当てた。俗に言う「ひざかっくん」というやつである。やや体勢を崩した水野へ由加里は言う。
「今日、わたし、たまたま、見ちゃったんだけど。本当にたまたま、わたしの家、あの辺りだし、うん、今日、水野くんハローワーク行ってたでしょう?」
驚いた表情をして振り返った水野に「ふふふーん、わたしはーなんでもお見通しー」と、冗談らしくごまかしながら由加里は再び店内へ向かおうとした。その彼女の右腕を水野は掴む。自分でも思っていたより力が入ってしまったようだ。しかし、由加里が真面目な表情で「痛いから離して」と口に出すまで、水野はそれに気が付かなかった。水野から開放された右腕を由加里は俯きながらやや過剰な仕草で擦っている。
「いや、ごめん、つい。でも、ハローワークに行ってたのは内緒にしてくれよな?」
「どうしてですか?」
「どうしてって……恥ずかしくてさ、だってさ、職安だぜ」
「わ、た、し、は」と、由加里は水野を一万年と二千年前からの恩を仇で返されたときのように睨みながら、言葉を続ける。「大学卒業して、なにするでもなしにぶらぶらーってしてて、食事からなにから親に面倒見てもらって、せいぜいコンビニの夜勤バイトくらいしかしてない、いい年した駄目男っていうほうが恥ずかしいと思いますけど? 別に職安でもハローワークでもハローキティでもなんでもいいけど、そこで仕事を探すことが恥ずかしいとは思いませんけど? 重ね重ねどう考えてもわたしが間違ってるとは思えないんですけど? それに……」
そこまで言って、由加里は水野に背を向けた。
「無職でお金も車も脳みそもイケメンでもなければ御曹司でもなくて甲斐性もない男の人が、大学三年生で若くて、自分で言うのもなんですけど合コンとか行けばそこそこモテちゃうような女の子にうつつをぬかしてる暇なんて、ないと思うんですけど?」
打ち合わせでも前もってしてたんじゃないかというくらい絶妙なタイミングで、同じ夜勤に入るバイトの先輩である柿沼が入ってきた。それを合図に由加里は「馬鹿」とだけ言い残して、また店内へ行ってしまった。水野を振り返ることはなかったし、水野が由加里の後姿へ声をかけることも出来なかった。と、水野は突然、不審げな顔つきで水野の脇に立っている柿沼に挨拶もせずにバックヤードから出て、店内を走りして店長に怒鳴られながらコンビニの外へ出た。そして先ほど捨てた、ハローワークで貰ってきた紹介状をゴミ箱から探し出す。まだ、そこには丸められたばかりの紹介状があった。引き伸ばして、折り畳んで、ズボンのポケットに入れた。「自分の好きな女の子に馬鹿にされたくないからっていう動機は不純ですかね、神様」と心の中で、存在するはずもない神に毒づきながら。




