自分バトン
「あなた、今日は早く帰ると良い事があるわよ」
私が新宿駅西口にある馴染みのバーでウォッカを呷っていたとき、自称元占い師だとかいうバーテンが言った。時間はまだ二十時をまわったばかり、新宿では日中に等しい時間と言えるだろう。
「何があるって」
「さあ、そこまでは判らないわ、あなたが何を良い事って思うかなんてね」
野太い声で喋るバーテンの容貌は一見すれば女性にしか見えないだろう。私は以前ある事件の経緯から結果的に彼を助けたことがあって、このバーでは普通の客の半額で呑めることになっている。無理強いしたわけではない、彼が自発的にそうしたのだ。私にとって断る理由もなかった。それに他人の好意を素直に受け取らなければ、翻って悪意になってしまう場合がある。
バーテンの言葉を信じたわけではないが、私はそれから三十分後には店を出た。自分にとっての良い事と言えば、財布を膨らませて金の使い道に困っている頭の緩い依頼人が、事務所の扉を開けることだ。もし本当にそういったことがあるのならば、女装したバーテンの相手をして折角の機会をふいにすることは無かった。
西新宿の大通りから離れた雑居ビルの三階に、私の事務所はある。その事務所の扉の前に彼女は立っていた。鉄製の扉は上半分が硝子になっている。硝子の部分には「山田探偵事務所」と剥げかけたペンキで書かれていた。山田というのは、私が三代目の所長であることから名付けた。所長と言っても私以外に所員がいるわけではないのだが。見た目と違い、とにかく歴史だけは古い探偵事務所だった。
「もう少し待ったら帰ろうと思っていました」
彼女は階段を上がってきた私に気付いた。
「鍵をかけずに電気も点けたままで出かけるなんて、無用心だと思いますけど」
「どうせ取られて困るものは無い、それに電気を点けておけば依頼人が寄ってくる可能性がある」
まるで蛾ね、と彼女は笑いながら言った。年齢はまだ二十台の前半だろう。暗い色のスーツとタイトスカート、スカートからは程よく肉感的な足がのびている。私を品定めしているような眼差しの顔は、それぞれのパーツが整い過ぎることもなく、涼しげなバランスで配置されていた。私好みのバランス、換言すれば私にとって魅力的な女性ということだ。身に着けている高級品が金の匂いをさせていることも含めて。
「中に入って待っていればよかっただろう」
「そんな失礼なこと出来ないでしょう」
「待っている事は失礼じゃない」
私は廊下に落ちていた小さい紙切れを拾った。扉に紙切れを挟んでおく原始的な方法だが、未だに有効なのである。
「失礼なのは一度中に入ったことを隠そうとすることだ」
「嘘はついてません、あなたが挟んでいたのはこっちじゃなくて?」
彼女の右手には、わたしが出掛けに挟んでいった広告の切れ端があった。私は自分が拾ったばかりの、恐らくは彼女が仕掛けたのであろう偽の紙切れを廊下に放り棄てると、事務所の扉を開けた。彼女には興味をそそられたが、いちいち疲れる相手のようだった。依頼人を試すことは好きだが、試されるのは好きではない。もっとも懐具合によっては好き嫌いを言えないときがある、いまは正にそのときだった。
「ようこそ、山田探偵事務所へ」
「……この男のことを調べろ、と」
私と彼女は、この事務所で唯一平面が確保されているテーブルを挟んで向かい合っていた。ソファは所々破れている。彼女は座る前に一度ハンカチでソファを拭いた。実に賢明な処置だった。私は一応の礼儀として窓を少し開けてから煙草を吸い始めた。案の定彼女は厭な顔をしたが、何も言ってこなかった。
彼女の依頼は、ある男の素行調査だった。しかも調査すべき内容があらかじめ六つ指定されている。男の顔写真は無いが、名前と住所まで判明している。依頼内容だけ見れば非常に楽な仕事だった。しかし問題なのは調査対象の男だった。
「ええ、その男性とお見合いをすることになったのです」
それは初耳だ。
「父が昔お世話になった知り合いらしいのですが、お世話になったという事だけしか判らずに会うのは不安ですから」
「普通、こういった依頼を当事者が持ってくるケースは少ないのだがね」
「でしょうね」
彼女は背筋を伸ばし、私を正面から見据えている。煙草の煙越しに見える彼女の表情からは何も読み取れない。彼女はいったいどこまで本気なのだろうか、否、どこまでこの男の事を知っているのだろうか。私は俄かには判断をしかねた。
何を隠そう彼女が調査を依頼した男の名前は、偶然でなければ私と同姓同名だった。極め付けに住所には私の住んでいるマンションの住所が書かれている。間違いなく調査対象は私だった。確かに彼女の名字は知っていた。彼女の父親はある有名建設会社の社長だ。私は彼からの依頼を受けて、ある問題を解決したことがあった。彼女の父親は私のことを気に入ったらしく、それ以来なんどか酒席を一緒にしたこともある。しかし、それを彼女は知っているのだろうか。
「調査はすぐに終わる、報告書の作成も含めて一日。明日もう一度来てくれ」
私は鎌をかけてみた、一日も経たずに調査が終わるなど普通の調査ならば絶対にありえない。
「判りました、では明日の十五時ごろにまた来ます」
彼女は早いとも早すぎるとも言わずに、淡々として言った。そしてソファから立ち上がりお辞儀をすると、部屋から出て行った。私は調査対象者の確認項目六つが書かれた用紙を片手にとって眺めながら、小学生の頃にこういったことを書いたことがあるなと思い出していた。
1.兄弟構成
私は友人でもある彼女の父親に連絡を取って、事の次第を聞くことも出来たはずだった。そもそも、私は見合いをするなどという話は全く聞いていない。だが結局、連絡は取らなかった。彼女が私のことを知っていて芝居をしているのならば付き合ってみようと思っていたし、私のことを知らなかったのならば私が名乗り出たときの反応を見てみたかった気持ちもあった。何れにせよ不純な動機だが、人生において純粋な動機など持ったことはないし、世の中に純粋な動機があるとも思わない。
FMラジオから流れる十五時の時報に合わせるようにして、彼女は事務所の中へ入ってきた。
「調査は終わっていますか?」
彼女は昨日と同じソファに昨日と同じ姿勢で座るとすぐに言った。服装だけは昨日と違ってカジュアルだった。
「終わっている、これを」
私はソファも姿勢も服装も昨日と同じだった。私が差し出した二枚の用紙を彼女は受け取った。そして「兄弟構成は……」と読み上げ始める、私自身のことだ。一種の拷問ではないだろうかと感じてしまう。
「ふうん、二歳上の姉、七歳年下の弟。三人兄弟ね」
「そのようだ」
そのようだも何も無いだろう。私は苦笑いをしそうになったが堪えた。
「姉は既に結婚していて、子供がひとり。夫は公務員、実家から少し離れた市内に家を買って住んでいる」
「らしいですね。それで弟は一昨年に大学を卒業していて、就職。まだ実家に住んでいる、と」
「そのようだ」
私は同じ台詞を繰り返した。
「それで、ご兄弟とは疎遠になっているのかしら」
それは報告書には書いていないことだった、項目が無いのだから当然だろう。私は「さあ、そこまでは判らないが」と前置きをして、
「一般的に言って、疎遠というほどでもないが仲が良いというわけでもない。といったところじゃないかな」
と言った。なるほどね、と軽く肯いて彼女は次の項目を読み始める。
2.何よりも大切なこと・もの
「これは、何? 少し判らない」彼女は二つ目の項目を見ながら言った。「自分であることを意識できる状態、って」
実際、この質問にはどのように答えればよいのか迷ったのは事実だ。物質的に大切なものがあるわけではない、私はそういったものをなるべく持たないようにしている。物質に束縛されたくない、身軽でいたいという気持ちが私には常にあった。
「自分自身というのとは違うみたいね」
「だろうな」
別に自分が大切なわけでは無い、私は自分が世の中で最も無価値なものだと思っているのだから。
「じゃあ、どういうことかしら」
「何よりも大切といったら、それは一つに限定される」私はひとつ咳払いをして続ける。「そうすると、そういった大切なことやものが出来たときに、それを大切なものだと自覚できる自分を意識できる状態ということではないかな」
へえ、と彼女は言いながら私が淹れた珈琲に口をつける。珈琲は我が探偵事務所が自信を持って薦められる唯一の商品だ。
「随分と恰好付け屋さんみたいね、彼」彼女は私を見ながら言った。「じゃあ、もしわたしとお見合いをして結婚をしたら、わたしがその大切なものになれるのかしら」
「……それは本人に聞いてみるといい」
私は動揺を隠そうと必死になっていたが、彼女は私の内面の動揺を見透かしたように微笑んでいた。
3.自分でも不思議なくらい興味がわくこと・もの
「ご趣味は、っていうお見合いでよく聞く台詞ですけれど。彼って読書家なのかしら」
「他に趣味がない、趣味に乏しいといったほうが良いだろうな」
私は三つ目の項目に、自分の部屋にある本の著者名を列挙していた。読書と言っても国内、国外を問わず推理小説が多い。豪遊するほどの金もなければ、傾倒する趣味も持たない私にとってみれば、読書くらいしか思いつかなかったのだ。
「ハメットにチャンドラー、ロスマク。彼はハードボイルドも好きなのかしら」
彼女は報告書に落としていた目を一瞬、私に向けた。蠱惑的な表情だった。確かに私は一時期、ハードボイルド小説に登場する探偵たちに憧れていた時期があった。先代の所長がかまえていた事務所の門を叩いたのも、彼らへの憧れからだった。しかし実際の探偵という仕事は彼らのようなものではなく、浮気調査や素行調査といった泥臭いものばかりだった。探偵に幻滅していたのは、もはや遠い過去の話である。
「チャンドラーは知ってるわ、ギムレットには早すぎるって台詞を覚えてる」
その台詞はチャンドラーの『長いお別れ』に出てくる有名な一節だ。私は実際の探偵をしていてもそんな気の利いた台詞を言う機会など無いことを彼女に説明しようとした。しかし探偵への幻想をこちらから壊すこともないと考えて、思いとどまった。
4.吐き気がするくらい許せないこと・もの
「無い、強いて言えば自分……」
確かにそう書いた。
「彼って、随分と自虐的だと思いますけど」
「そうかな」
「そうよ、世の中って許せないことが沢山あるじゃない」
「例えば?」
「それは、嘘をついて他国を貶めようとする国もあるでしょ、不正を働いてる政治家だって、情報操作しようと躍起になってるマスコミだって、身近なところで自分のことしか考えないで人に迷惑をかける人とか、ね、沢山あるでしょう?」
私は彼女の清廉さに苦笑を漏らした。私が苦笑する姿を見て彼女は少し頬を膨らませる。
「何が可笑しいの?」
「可笑しくは無い。そう、世の中には許せないことなんて幾らでもある、いちいち数えてたんじゃあきりがないと思ったのではないかな、彼は」
「でも何で自分なのかしら」
「吐き気がするくらい許せないことやもの、それが多くなればなるほど、そう感じる自分に疑問を感じない人間はいないだろうな」
「哲学的ね」
そうでもないさ、と私は言った。しかしその後で、「そうでもないと彼は思っているらしい」と言い直した。
5.とっても下らないもの
「厭だわ、これも自分って書いてある。プライドが無いのかしら」
「プライドと、自分を下らないと思う感情は別だろう」
彼女は納得しかねるという表情をしている。私は今までソファに浅く腰掛けていたことに気付いて、深く腰を埋めるように座りなおした。柄にも無く緊張をしていたのかもしれない。煙草を取り出し、深く吸い込んで気持ちを落ち着ける。
「例えば私にはプライドがある、君にもある」
「もちろんよ」
「そうさ、ひとりひとりにプライドがある。それと同じように誰にでも下らないと思うものがある、もちろん君にも」
「ええ」
「もし自分が人から下らないと思われたらどうだろうか。そう思われるのが厭であれば、人やものを下らないと思わないことだ。そうすることがプライドになる」
「なんだか、煙に撒かれてるみたい」
彼女がそう思うのも当然だ。こんなことは詭弁に過ぎない。私は単純に自分が下らないと思っているだけだ。或いは自分を下らないと思うことで、自分の現状に満足しているだけだとも言える。何れも、まだ若い彼女には無縁の感情だろう。私はそれ以上この項目については語ることが無いとでも言うように、自分と彼女のカップを持って珈琲を淹れに炊事場へ向かった。
6.人間関係で重要な事
炊事場から戻ってくると、彼女は報告書をテーブルの上に置いて腕を組んでいた。背後から見ても、小首をかしげている仕草が妙に可愛らしいと感じてしまう。
「どうした」
「人間関係で重要なことが、人間ですって」
私はテーブルの上に彼女と私の分の珈琲カップを置いた。そしてソファへ座ろうとする私に、彼女は報告書を指差しながら言った。
「莫迦にされてるみたいだわ」
「そうじゃないだろう、人間が居なければ関係だって築けない。これ以上重要なことは無い。私も同意見だ」
「それって、言葉遊びよ」
「そうとも言うな」
彼女は眉根を寄せて怒った表情になる。真剣に回答をされていないとして気分を害したのだろう。私は怒った表情も魅力的な彼女を眺めていた。
「じゃあ人が居るとして、その関係の中で重要なことは何かしら」
「私の見解で良いのかな」
「構いません」
私は少し窓の外を見た。春が来て間もない季節で、涼しさと暖かさが混濁したような風が細く開けた窓から入ってくる。新宿中央公園の桜はもうじき満開になるだろう。
「他人と付き合うときには、必ずその人に対する意見を持つことだ」
「その人を傷つける意見でも伝えるの?」
「いや、意見を持つことと伝えることは別だ。他人に対して無感情であれば関係など築けない。他人のことを思うということは、肯定するものであれ否定するものであれ意見を持つことだ、真剣に関係を持とうとすればそうなるだろう。意見を伝えるか伝えないかは、時と場合によるし、人間関係をどうしたいのかという展望にもよる。さらに言えば各個人のセンスの問題だ」
7.自分から見る自分
報告書には彼女から依頼のあった六つの項目が全て記入されている。彼女が気に入ろうが気に入るまいが、とにかく報告はこれで終わりだ。私は彼女がこれからどういったことを言い出すのか、興味をもって彼女を見ていた。
「……では、最後に」
彼女は報告書に目を落としていたが、その言葉とともに身を乗り出し、そして私へ視線を向けた。
「あなたは、自分から見て自分をどう思いますか?」
「彼、ではなくて私か」
「あなたです、あなたが自分をどう思っているかを聞きたい」
困ったことになった、これは彼女から依頼された仕事ではない。あくまで彼女の個人的な質問だった、私は質問に応えるべきか否か迷った。しかし彼女の視線には私の逡巡を許さない力があった。
「どうもこうも思っていない」
「なぜ? 言い逃れではなくて?」
「言い逃れなんかじゃない。私が自分をどう思おうが、誰にも何にも影響しない。私という存在に対する判断は、常に他人がするものだ。わざわざ自分でするほど私は物好きではないね」
私の話を聞いて、彼女は黙ってしまった。
「ご不満かな、お嬢さん」
「判りません」
「そうだろう。人が人を理解するなんてことは、つまるところ幻想だ」
たった六つの項目で私を推し量ろうとした彼女を言い負かしてやろうという、極めて幼稚な感情が私の中にあったのかもしれなかった。しかし彼女はしばらく黙っていた後に、私を見て微笑んだ。私が彼女に会ってから一番素晴らしい表情のように思えた。
「ほんと、判らない」
「実はね」と彼女は話しはじめた。「年は若いけど面白くて変人の友人がいるって、父から聞かされていたの。わたしも一度会いたかったけれど職業が探偵っていうでしょう? 普通に会っても面白くないと思って、ちょっとお芝居をしてみました。父には黙っていたから、わたしが帰ったあとで父に連絡されたらどうしようかと思って本当はどきどきしていたのよ」
彼女は冷めてしまった二杯目の珈琲を飲みながら話していた。人と会うためにいちいちお芝居を拵えるとは、どうやら私に劣らず一風変ったお嬢さんのようだった。
「もし依頼をした段階で、調査対象の男が私だと名乗り出たら、君はどうした?」
「そんなつまらないことは言わないと信じてました」
信じる、というのは便利な言葉だ。それにしても彼女に信じさせるだけの事前情報を、彼女の父親は与えたわけだ。いったい人のことをどのように話したのだろうか、今度問い詰めてやらなければなるまい。
「つまり、お見合いというのは作り話だったわけだ」
「どうかしら」
どうかしらとはどういう意味だろうか、私は彼女の胸のうちを忖度しかねて困った。
「今のがお見合い、いえ、お見合いの半分。結局あなたのことは未だ判らないし、わたしは何も質問されていないもの」
最後の最後まで芝居がかったことをするお嬢さんだ、私は思わず苦笑いと溜息を漏らしてしまった。ならば、もう少しお芝居に付き合うことにしてみようか。いや、これは芝居の続きなのか、それとも彼女の本心なのだろうか。私は壁にかかっている年代物の時計を見た、まだ十六時半だった。金を持った依頼人ではなかったのは残念だが、どうやらバーテンの占いもたまには当たるものだったらしい。
「ギムレットには早すぎる……か。お食事でもいかがでしょうか、お嬢様」




