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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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煙、永久運動、イヤホン

 鴨の鳴き声をはじめて聞いた夜だった。郊外にある公園は少なくとも僕の実家にある庭よりは広くて、アフリカかどこかの砂漠よりは狭かった。だけど砂漠にはきっとないはずの池がある。池の周りに沿って散歩道がある。駅から近いけれど周囲を森に囲まれているせいで、街の灯りが梢の隙間からしか見えなかった。

「いま、一日に二十本吸っているわけでしょう」

「一箱とも言うね」

 僕は彼女にささやかな抵抗をする。でも、それは波打ち際に子供がつくった砂の城のようなもので、いつかは白い泡を伸ばしてくる波にさらわれてしまうのを知っている。砂の城をつくる子供だってそれくらいは知っていて、だけど城をつくらずに済ますことなんで出来ないんだ。

「ひと月に一本ずつ減らしていけば、いいのよ。だから来月は十九本、再来月は十八本。あなたが途中で諦めなければ、一年八ヵ月後には吸わなくなってるわ」

「別に、僕は禁煙したいわけじゃないよ」

「わたしが、厭なの」

「煙草を吸っているのが、それとも煙が」

 彼女は僕の右腕に絡ませていた腕を放した。それから公園の池に二本かかっている橋のひとつに向かって歩き出した。池の水面にいる鴨は半分くらい動いていない。きっと眠っているか、それとも目を閉じながら僕らの会話に耳をそばだてているかしているのだろう。

「わたしが厭なことをするあなたが、かしら」

 彼女は僕の少し前を歩きながら言った。僕のほうを振り向いてはいなかった。欄干に凭れてうす暗闇に覆われつつある池を眺めていた。欄干に近い水面には、橋と水平にして上下に、水面に触れないような配置で二本の棒が渡されていた。水面に近づくほど暗くなっていて、その棒が鉄で出来ているのか、木で出来ているのか、それすらも解らなかった。棒は橋と同じだけの長さで池の両端を結んでいるように見えた。

「棒に乗っている鴨の中の何羽かは、きっとダミィ」

 指差した彼女の先には、棒にとまった何羽もの鴨がいた。その鴨たちは全く動かずに、棒の上で身体を休めているように見えた。確かに、いま目の前で微動だにしない鴨が人形だと言われても不思議は無いくらいに、一羽も動かなかった。

「でも、わざわざこんなところにダミィを置いてどうするの」

「自分と同じ姿をした鳥がそこにいれば、きっと他の鴨も棒に乗って身体を休めるわ」

「水が冷たいから?」

「そうね、水が冷たいし、棒に乗ってみんなで休んだほうが愉しいんじゃないかな。うん、あれはダミィ、その隣にいるのは本物、その隣も本物よ」

 彼女はそれから、一羽一羽を指差して「あれはダミィ、あれは本物」と言いながら橋を渡っていった。僕は彼女の一メートルくらい後ろを歩いていった。橋の上で何人かの、会社帰りのサラリーマンや、男女のカップルたちとすれ違った。でも、誰も僕らへ視線を向けようとはしなかった。

 渡りきる前に頬で冷たい何かを感じた。それが二度、三度と続いた。雨が降ってきた。池の水面にも、雨滴が降った点を中心にして円がいくつも描かれていった。それでも鴨は驚いたふうもなく、休んでいる鴨は動かず、啼いている鴨は目覚める前の目覚まし時計のような声で啼いていた。

「天気予報、見た?」

「見てない」

「雨が降るなんて知らなかった。傘、持ってないや」

「誰だって知らないわよ」

 彼女は鞄から折り畳み傘を出しながら言った。「用意周到だね」と言って僕は彼女が開いた折り畳み傘を受け取って、僕と彼女の上に掲げた。傘のナイロンの表面に雨滴が落ちて立てる音がリズミカルだった。それほど時間が経たないうちにテンポが速くなり、雨らしい雨が降ってきた。傘は折り畳みだったから、それほど大きくなかった。僕は彼女が濡れないように、少しだけ彼女のほうに寄せて傘を持った。

 彼女は、そんなことをしなくてもいいと言った。

 僕は寄せた半分だけ傘を戻した。彼女は何も言わなかった。

「どこかに入ろうか」

「うん、いいよ」

「お酒、飲めるところでいいかな」

「お酒でもジュースでも、雨水以外ならいいよ」

 段数が少ない階段を上って公園を出た。僕ら以外にも突然の雨に降られた人たちが、思い思いの恰好で小走りで駅へ向かっていった。途中にある街路樹の下で、ブリキの円い缶の外側を切り取って模様をつくり、中に蝋燭を入れて切り取った模様を引き伸ばしたような灯りが漏れるライトをいくつも売っている露天商が居た。蝋燭、というのは僕の勘違いで、雨が降っているのに灯りがついているということは、普通の電球かなにかを中に入れているのだろう。それにしてはコードが見当たらないな、と僕は思った。

「あれ、綺麗だね」

「そりゃ、そうよ。綺麗じゃなかったら誰が買うの」

 駅へ向かう小路の両側には幾つかの飲食店があった。僕らはその中で賑わっている店に入った。店内は広く、レトロな、屋台の座席を押し広げて二階までつくってしまったような風情だった。四人がけのテーブルに座る。まだ若い、大学生のアルバイトのような店員がテーブルの傍で注文票を持ったまま動かないので、とりあえずビールの大瓶を頼んだ。彼女は僕がアルコールと呼ぶのを差し控えたくなるような飲み物を頼んだ。僕らの後からも突然の雨から逃げるようにして店に入ってくる客が幾組かいるようだった。店内は九割がた席が埋まっていた。焼き鳥を焼く煙と、煙草の煙が充満していた。

「わたしね」彼女は両手の人差し指を耳の中に入れる素振りを見せて言った。「イヤホンをつけたままなのが、好きなの」

 僕はメニューからいっとき顔を上げて彼女を見た。それから店員が僕らの飲み物を持ってきたので、ついでに手作りシューマイと焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。そしてビールをコップに注いで、彼女のグラスに僕のコップあててから飲んだ。

「どうして好きなの? 音楽をずうっと聴いていたいとか」

「違うわ。音楽は聴かないの。イヤホンを耳に入れているだけ。そうするとね」彼女は三つあるシューマイをそれぞれ二つに分けている。「とくに、こういった煩いところとかだとね、わたしと周囲の間に薄い絹の幕のようなものがあるような感じで、薄っすらと透けて見えるんだけど全部は見えないみたいに。それで手を伸ばして幕を揺らすと、周りの風景もこう、揺らいで見えて、いずれにしてもわたしがね、遮断されている感覚が好きなの」

「ふうん」

「そういうのって素敵じゃない?」

 素敵の意味がよく解らなかったから僕は何も言わずにビールを飲んでいた。別に僕からの返答なんてこれっぽっちも期待していなかったふうに彼女もグラスに口をつけた。それからしばらくの間、二人で何も喋らないでいると、店内の喧騒が僕らのテーブルを覆ってしまって、この店の中で僕と彼女の間にある空間だけが異質なもののように感じられてきた。僕は彼女を一瞥して、脱いで椅子の上に置いてあったコートのポケットから煙草とライタを取り出した。

「吸っても、いい?」

「いいよ」

「来月からは、十九本になるからね。モラトリアム」

「モラトリアムの意味、わかってないでしょ」

 彼女が言葉を言い終わらないうちに、僕は煙草に火をつけた。それから煙草を灰皿において吸い口の手前まで灰になるのをじっと見ていた。それほど時間はかからなかったはずだった。その間、僕は灰になっていく煙草から目を逸らさずにいたから、そんな僕を彼女がどのような表情で眺めていたのかは知らない。もしかしたら僕なんか見ていなかったかもしれない。やがて煙が出なくなった吸い口だけの煙草の先端を灰皿の底にこすり付けて、歪んだ形になったそれを灰皿の上に放るように捨てた。外を見ると、さっきよりも雨脚が強くなっているようだった。

「馬鹿みたい」視界の隅にいた彼女は言った。僕は「たまには馬鹿みたいなことをしたくなる」と返した。彼女はもう一度「馬鹿みたい」と言った。

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