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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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眠らずの病棟

「――どうですか、居心地は」

 私が問いかけると、ベッドに横たわった老婆は皺だらけの顔をこちらに向けて微笑んだ。

「わたしも、そんなに長いことないからねえ……こんな良い病室をあてがってもらわんでもいいんだけどねえ」

「いえ、お身体はぜひ大事にしてください」

 私は老婆に答え、彼女の細い首が半ば隠れる程度まで毛布を上げる。

 ――すまないねえ、という老婆の言葉を背に受けてから病室の電気を消すと、私は静かに病室を出て廊下を歩き出した。遅い時刻にも関わらずまだ数名の看護婦が廊下を行き交っている。その中の一人が私の脇を通り過ぎるときに、軽い会釈をした。私は見たこともない顔だったが、思わず会釈を返す。彼女が通り過ぎてからすぐに「ああ、そういえば」と声がしたが、それが私を呼びかけたものだと気付くのに数秒を要した。

「三〇二号室の渡辺さん、ぜひ見てやってくださいな」

「渡辺さん」

 復唱してみたものの、私はその病室も、そこに入院しているであろう渡辺という人物にも心当たりがない。

「そう、渡辺恵子さん、最近調子が上向いてきたみたいなんですよ」

「そうですか」

「一時はもう駄目だって言われてましたからね、ご自身も喜んでるみたい」

「良かったですね」

「ね、ですから、ぜひ」

 そう言って看護婦は足音もなく静かに廊下を進み、突き当たりで曲がった。三〇二号室と言われても皆目見当がつかないので、私は院内の案内員に聞くために一階へ降りようとした。しかし降りる必要もなく、階段の脇に案内板があり、それによると三〇二号室は私がいる二階ではなく三階にあるらしかった。私は電灯が薄暗く灯っている階段を上がっていく。

 三階には廊下に誰もおらず、病室の場所を聞くことが出来なかったので、部屋番号を一つ一つ確認しながら歩いた。三〇二号室は階段を上がった場所から五つ目の病室だった。私は音を立てないように気をつけながら扉を開ける、実際、扉を開ける音は全く聞こえなかった。

 ――渡辺さん、と問いかけながら病室に入る。

「来ないでください」

 入り口とベッドがあるスペースを区切っているカーテンの向こう側から、声が聞こえた。恐らく渡辺なる人物が話しているのだろうと思う。しかし、誰に、否、私以外に声をかける人物などいないのだから、私に来てはいけないと話しているに違いない。

「……なぜ?」

 私は当然の疑問を投げ返す。

「すぐに病院から出たほうが良いです」

 またもやカーテンの向こうから声がする、女性の、柔らかいが毅然とした声だった。

「……」

 私は少しの時間、考える。ここで理由を問い質す質問を投げかけたとしても、その答えは返ってこないのではないかと思われた。どうして返答がないと思ったのか、理由はない。しいて言えば予感に属するものが、私の脳裏を掠めたと思ってもらって構わない。

「それでは、そうしましょう」

 無言の返答。しかし私は静寂が支配した病室を後にして、さらに深い静けさが行き渡っている院内を足早に歩く。気付けば額に汗をかいていた、恐らく額だけでなく身体中にも。

 静かな廊下、私の足音が響くはずの廊下には、聞こえるはずの靴音が聞こえなかった。それでも可能な限り急いで廊下を歩き、階段を降りて、待合所を横目に見ながら玄関から外に出た。玄関から出る頃には、私は走っていたに違いない。息が苦しい、胸の動悸がおさまらない。果たしてそれは、私が走ったことだけが原因だろうか。

 玄関から十メートルほどで、車の往来がある道路に出る。そこまで歩くと私は後ろを振り返った。振り向いてはいけない、と私の中の誰かが警告を発したが、いま自分が出てきた場所を見たいという欲望には勝つことが出来なかった。そこには、全ての窓から、笑顔の患者たちが私へ手を振っている光景が見えた。

 十二年前に火災で全焼し、廃墟になった病院の窓から。

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