曲道ジュリエット
わたしが小学生だったときとか将来にお婆ちゃんになって福祉サービスを受けるようになったことのときとかなんて知らないけど、いまのわたしはジュリエットで、いまのわたしに見える景色では、青と赤と白と黒と黄色と緑色とそれ以外の数えきれないくらいのスーパーボールが、坂の途中に建てられてる住宅地の間をニュージーランドの小動物が跳ねるようにして転がり落ちていくように、言葉を紡いでいくの。
だって、わたしの言葉なんて誰も信じてくれないし、誰も心にとどめてくれなんかしない。
そもそも、言葉って人の心にとどまるもんじゃないと思う。言葉なんて、所詮、自分がああしたいこうしたい、みたいな欲望を相手に伝えるだけの道具にすぎないんだもの。そこに、意思だとか、熱意だとか、意欲だとか、そんなものがあるって勘違いしてるのは、小説家志望の中年くらいなもので、彼ら彼女らは、一生勘違いして生きていくしかないんだよね。
あはは、本当に、腹の底から泣きたくなってそれからティッシュの箱を用意してから思う存分泣くくらいに、大きな馬鹿な人間たちだと思う。言葉に意思があるだなんて。
でも、ちょっとだけ、たまにジュリエットとしてのわたしは、自分の言葉に意思があるんじゃないかって、信じたくなることがある。
だから、坂道から転がってくる、いろんな色をしたスーパーボールを、一個ずつ、拾って、そこに書いてある、ひとつの単語とか、ひどいときには「あ」とか「し」とかしか書かれていないんだけど、そういった、細切れの「何か」を綴って、わたしは、あなたに伝えようと思うの。
わたしが拾え切れなかったスーパーボールは、小学生のころに近くにあった開明書房の軒先に置かれた二十円のガチャガチャの玩具みたいにして、意味もなく初めから意味もなかったくせにあるようにみせて、その実、手に取ってみれば本当に「千円札は一ドル札と等価ではありませんよ」みたいなことしか書かれてないスーパーボールでしかなくて、わたしが手にした、手に出来た、手にすることが望まれていたスーパーボールは、同じ色でもなくて、書かれていることもバラバラなのに、わたしが思い描いたように、並べてみると、そこから素敵な意味が見えてくることがある。
本当に、とびきりに、素敵なんだ。どうして、って思えるくらい自分でも信じられないくらい素敵なことって、あるんだよね。困ったことに、それは否定出来ないことで、認められなくもないことなんだ。




