蘭とセネカと姫ユリ
桜の花が咲きそうで咲かなくて、春の三月だった。わたしは大学の二年生で、明日になれば二十歳になる。
「お疲れさん、なあ、少し飯でも食べに行かない」
週に三日働いているアルバイトが終わった後、バイト仲間の敏晴が言った。他に誰も居ないから、わたしに声をかけたのだと思った。
「ごめん、今日は早く帰らなくちゃいけないんだ」
「この前も断られたからさ、今日はどうかと思って」
「そうだったっけ」
わたしはあまり過去の事を覚えていない、って友達に怒られた事がある。友達は大学の同級生で、大学に入ってから同じサークルで知り合った裕美ちゃんで、彼女が言うにはわたしが待ち合わせの時間に三十分も遅れたときがあったのだけれど、それをわたしは忘れてしまっていたらしい。いまだに思い出せないのだから、きっとそんな事実は無かったんじゃないかっていまでも疑ってる。
「ま、いいや。今度は付き合ってよ」
「……うん」
とだけ返事をして、わたしは黙ってしまった。これは食事に誘われているだけなのか、それとも別の意味があるのかなんて考えてしまっているわけだけど、そんなことも明日になったら忘れてしまうんじゃないかって考えている。それはそれで、寂しい。
敏晴はお店の自動ドアのセンサーを切って、店内の電灯の消し忘れが無いか確認をして、それから自動ドアを手で閉めてからドアの下にある鍵をかけた。店長から鍵を預かっているのは敏晴と、あと一人だけだから、敏晴は店長に信頼されているのだ。
鍵だけじゃなくて、わたしがアルバイトをしている、ラーメンとか餃子とか炒飯とか、そして甘味やカツ丼とか豚カツがメニューにある、まあ、つまり、なんともカテゴリが難しい飲食店。わたしはウェイトレス兼、甘味の調理をしていて、時給が千二百円。敏晴は厨房を仕切れるくらいに店長から万事任されていて、そしてアルバイト歴も長い。大学へ入学してから上京してきたわたしと違って、元々この辺りが地元だったらしくて、わたしよりも一歳年上なのに高校生の頃から店でアルバイトをしているって聞いた事がある。
黙ってしまったわたしと睨めっこするようにして敏晴も黙ってしまった。だから、わたしはどうも居心地が悪くなってしまって、すぐに目を逸らした。そうすると見えなくなった敏晴から軽くため息が漏れるような音と、苦笑いしている彼の声が聞こえた。
「別に嫌がらせしてるつもりは無いんだけどなあ。じゃあ俺、帰るわ」
と言って、敏晴はわたしの前から歩いて遠ざかっていく。わたしが顔を上げたときにはもう、敏晴の背中しか見えなかった。敏晴は少し離れたところに停めてあるオートバイで通っているのだ。そんな敏晴の背中が「お前なんか二度と声をかけねえよ」って言っているみたいで、わたしは堪らなく不安になる。
だから、わたしは、駆けていって、敏晴の洋服の後ろの裾を握った。
少ししか走ってない、そもそも走ったかどうかも忘れてしまったのだけど、それだけでもわたしの息は荒くなってしまった。どうして、そんな風になったのかなんて判りっこない。心臓の音が急に聴こえてきたみたいだし、頭の中で小さなお人形が見たこともない踊りをしているような気持ちだった。
「……びっくりしたあ、なになに、どうしたの」
背中を向けたままでわたしを顧みて言った彼の言葉に、わたしは何も返す言葉が沸いてこなかったから、右手で彼のコートの裾を握って、左手で拳骨をつくって、俯いたままで黙っていた。だって、そうしている他に、わたしには何も出来そうもなかった。だから、わたしは、次に彼が何かを言うのを、ただ待っているのだ。
だけど、敏晴はそれから何も喋らなくなってしまった。
わたしが見つめている地面で蟻の行列が二往復は出来そうな時間。
それから、ひと言も声を出さない敏晴を不審がって顔をあげてみた。
すると、わたしが裾を掴んでいたはずの敏晴は、わたしの前から消えていて、いつのまにか掴んでいた右手にはコートの裾の代わりにフルフェイスヘルメットのあご紐が握られてた。それはいつも敏晴が被っていたヘルメットで、ところどころ奇抜なシールが貼られているので憶えていたのだ。
ヘルメットから目線を泳がせると、敏晴がオートバイに跨って右足を下に蹴りつけるような動きをしていた。たぶん、エンジンをかけているのだろうなんて眺めていたら、家の近くの工事現場で耳にしたことがあるような機械の音が聴こえてきた。オートバイの後ろのタイヤの近くにある円い筒のようなところから白い煙があがってる。夜も更けてきて、人通りが少なくなっている場所で聞くには大きすぎる音だな、なんて考えたりもした。
敏晴はいつも被っていたヘルメットをわたしに渡してしまったから、野球帽みたいな形の白いヘルメットを被ってる。二、三回、エンジンの音を大きくさせて敏晴はわたしを振り返った。
「バイク、乗ったことあるかな」
わたしは頭を左右に振りながら、敏晴が乗っているオートバイに近づく。近くで見てみると、思っていたよりも大きくて、黒くて、前についているライトからは煌々としてる光が、照らしている地面を、そこだけ切り取って昼間にしてしまったみたいにしてる。
わたしは持っていたヘルメットを被った。中はスポンジみたいに柔らかくて、わたしの頭には少し大きいから締め付けられている感覚とはまた違うけれど、それでも頭を、ちょうど目の部分だけを避けて包帯を巻かれたような気分になった。
敏晴が、彼の乗っているシートの後ろの部分を手で叩きながら「ここ」と言った。エンジンの音で聴こえづらくなっているけれど、確かにそう言った。わたしは小学校の頃に体育の授業でやった跳び箱を飛ぶときの要領で敏晴の後ろのシートに両手を着いて、思いっきり飛び乗ろうとしたら勢いがありすぎて敏晴の背中に頭からぶつかってしまった。
「いってえっ、どうやって乗ったの」
「後ろから」
「……はじめてだよ、そんな風にして乗ったやつ。横から乗れ、横から、跨いで」
と言って、言葉にすると怒ったみたいだけど、実際の彼は笑いながらで、それから「そこにある帯掴んでるか、それとも俺の腰に手を回してて、危ないから」って言った。シートのわたしが座っているすぐ前に、敏晴が言っていた帯のようなものがあったけど、それはとても心細く、わたしが引っ張ればすぐにでも千切れてしまいそうな気がしたので、わたしは恥ずかしかったけど、彼の腰に両手を回した。両足は、膝を曲げてちょうど良いところにステップが出ていたから、その鉄で出来たステップに乗せてみた。とくに不自然な恰好だとは思わなかった。
後ろに座っているわたしの姿勢を確認すると、「じゃあ、行くけど、家、どこ」って敏晴は言った。
「いいの、動かしたら、教えるから、いいから」
わたしはエンジンの音に負けなくくらいに大きな声を出して言ってみた。たぶん、そんなに大きな声を出さなくたって十分だったのだけれど。わたしの言葉を聞いた敏晴は、無言でオートバイを動かしはじめた。初めゆっくりで、わたしが走っているのと同じくらいのスピードだったのに、一度信号で止まってから、右に曲がると、そこからはわたしが予想していたよりも早いスピードで走り続けた。夜の道路はオートバイの邪魔をする車も少なくて、信号もわたしと敏晴を乗せたオートバイを歓迎でもしているのかと勘違いしてしまうほど、青信号ばっかりだった。
気が付いたら、わたしの家とは逆の方向へ走っていって、どんどん信号の数が減っていって、そしてオートバイのスピードが増しているみたいで、怖くなってきたわたしは、だって風の音がヘルメットをかぶっているのに聴こえてきて、それは耳のすぐ傍で扇風機が回っているよりももっと強烈で、いつもは感じない空気の重さたいなものでわたしは後ろに流されそうになったから、わたしは自分の家を彼に教えている余裕なんて無くて、運転してる敏晴の背中へ、必死になって抱きついてしまったのだ。
恐々と辺りを見てみると、風景が凄い速さで後ろに流されていって、それは違うのかも、流されているのは風景じゃなくて、わたしたちが前に、それとも風景たちからしたら後ろに流されているだけのことであって、わたしたちから見れば太陽が動いているけど実際に動いているのは地球なのと一緒で、流されていくわたしたちの左右で看板の字とか、建物とか、それが何かわからないうちに風景が消えてしまうのだ。
そして、風景すらも、急に遠くなった。
オートバイが走っているのは、大きな橋で、その橋はわたしたちの住んでいる市と隣の市の境界を流れている川に架かっている橋で、ずっと遠くまで見渡せそうな橋の向こうまで随分と距離がある橋だったから、オートバイは加速して、風景は遠くの方に霞むように暗くて夜と一緒くたになってしまったようであって、そうすると見えてくるのは目の前を一直線に伸びている橋を背景にした敏晴の背中だけだった。わたしは世界に取り残されて、存在しているのは彼の背中だけのような気がして、敏晴の腰に回している両手に、もっと力を込めた。
一段と重くなってわたしに圧し掛かってくる空気に逆らうようにして、頭も敏晴の背中へ隙間が無いくらいにぴったりとつけた。まるで、洋画で未曾有の天災に見舞われた人が電柱にしがみついて飛ばされないようにしているようだ、なんて事を想像していたら、わたしの周りに張り付いていた空気が急に緩くなって軽くなって、そして周りにあるのが電灯だとか木だとかガードレールだとか、そういったもので出来ている風景なんだってわかるようになってきたと思った。敏晴の背景はもう橋だけじゃなくなっていて、オートバイはウインカーを出して路肩に停まっているみたいだった。
わたしはいままでが嘘みたいに息苦しくなった。それまでずっと息を止めていたんじゃないかっていうくらい、空気が吸いたくなった。ヘルメットのベルトを外して、そして脱いで、それから敏晴を見た。彼は野球帽みたいなヘルメットはそのままに、わたしを見ながらにやにやと笑っている、ように見えた。ように、というのはわたしの目に涙が出てきていて、その所為で視界が滲んでしまっていたからだ。わたしは敏晴に気づかれないように袖で目をこすって拭った。
「どう、すごいっしょ、ここ。よく走りたくなるんだ。なんていうか、こう、ぜんぶ厭な事とか忘れたいときにさ、ここ走るの。たまに警察が待ち伏せてるから危ないんだけどさ」
「……酷いよ」
わたしは、ようやくそれだけを口にした。怖かったから、泣きたくなるくらいだったから、そんなのとは違う「酷いよ」だったのだと思う。ただ、その「酷いよ」で彼にどんな事を伝えたかったか、それすらもわたしにはわからない。わからないこと、だらけ、なんだ。
「ごめん、怖かったか。バイク乗んの初めてだったもんな、悪い悪い」
「……あのさ」
「なに」
「ここを走れば、忘れたい事は忘れられるのかな、ううん、忘れたい事だけを忘れて憶えていたいことはずっと憶えてたいから、わたしはね、ちょっとずつ忘れていいことは忘れていって、その分だけ大切でずっと離れたくない思い出とかは、忘れたくないから憶えていたいの」
わたしの言った意味が判らなかったのか、それとも話題を逸らしたかっただけなのか、敏晴は「ここを走ってるとさ」と言った。「ハンドルを放したくなるんだ。そうやって、ふっと浮かんでいけばそのまま飛んで行けるような気がするんだ。そしたらさ、いまとは違うもっと別な場所に飛んでいって、全部新しくなって気持ちいいんじゃねえの、って」
「飛行機の滑走路みたいな、もの」
「そうそう」敏晴は嬉しそうに微笑んでた。「だからここは一度渡ったら戻っちゃいけない橋なんだ」
さっきの、わたしの言葉が意味判んないのと同じくらい、敏晴が何を言いたいのか理解出来なかった。でも、判ったのは、わたしも敏晴も言葉に出来ない気持ちとか感情みたいなものがあって、それがいつか爆発しそうになると、わたしは昔のことを少しずつ忘れていって、利治はこの橋をわたしには考えられないくらい速いスピードで駆け抜けるんだと思う。そうやって少しずつ自分を削っていかなくちゃ、先に進めないって悟っちゃってるんだと思う。そして削れてしまって、そのうちにわたしとか敏晴とかいう人が無くなってしまわないように、敏晴はわたしを食事誘って、わたしは彼のコートの裾を握ったんだ。わたし達以外の人も、みんな少しずつ自分を削って、昔を忘れて、それを今で補って、それでも補えきれなくなると、誰かと触れ合っていなければ、きっと消えて無くなってしまうのだと思う。
腕時計を見たら、日付が変わってた。わたしは二十歳になっていた。




