リッチモンドヒルの坂
新井場敦子は、彼女以外は既に全員が帰宅してしまったオフィスにいた。都心にあるビル街、高層ビルの十六階にあるフロアを占めているオフィスには百人以上が優に座れるスペースがある。そこに深夜一人でいることに、敦子は少なからぬ寂寥と、それよりも大きく空間を占有している感覚を持っていた。自分がパソコンに向い、キーボードで軽快な音を叩きながら、いったい何をしているのかはわからなかった。もちろん仕事をしているはずなのだが、果たしてディスプレイには何も映し出されておらず、映っているのは自分が椅子に座っている後姿のみだった。
少しだけ目に疲労を感じた敦子はこめかみを押さえながら勢いをつけて椅子を回転させた。既に食卓へ夕食が並べられており、スープからは湯気が立ち上っている。トースタから食パンが弾き出される音と同時に敦子は食卓へついた。キッチンでは母がこちらを向いて何かを話しかけている。しかし母が何を喋っているのか敦子には聞き取れなかった。敦子は母親へ問い返したが、母は不思議そうな視線を敦子へ向けたあと、玄関へ歩いていった。新聞でも取りにいったのかしら、それとも父が帰ってきたのかしら、敦子は当て推量をしつつトースタからパンを取り出した。
パンは程よく表面が焦げている。敦子はパンの端を少し切り取ってジャムをつけると、橡の樹皮へ張り付いたようにしている蝉へパンを差し出した。敦子が差し出したパンの切れ端を蝉は前足でもって口元へ運び、いかにもお腹が減っていたと言わんばかりの調子で食べ始めた。一切れ食べ終わった編集長は「例の原稿は仕上がったの」と窓から射し込む夕日を背にして、鷹揚な姿で椅子に座りながら敦子を問い詰めた。彼の場合、鷹揚にならざるを得ないのは、過分に栄養を摂りすぎた体格のせいであろうと敦子は以前から考えている。
「すいません、今晩中には」と返事をして自分にあてがわれたデスクに戻った敦子へ、となりの席で暇をもてあますようにボールペンを回している野田が「そういえば、能美教授が呼んでたよ。まだ卒論終わってないの」と横目で語りかけてくる。「じゃあ、ゼミ室行って来るから」と敦子は返した。そして手に持っていたパンの切れ端を野田に預けて学食から外へ出た。
深夜なので交通量は少ない。しかしタクシーの黄色いランプはすぐに見つかった。敦子は片手を挙げてタクシーを呼んだ。速度を揺るめながら路肩に寄ったタクシーは、敦子の目の前で停まった。敦子を迎え入れるかのように自動で開いた後部座席のドアから敦子は車内へ入り、運転手と対角になる場所のシートに腰を落とした。それから自宅に近い駅の名前を告げて、タクシーが発進したのを確認してから目を瞑った。思ったよりも時間がかかってしまった。残業はなるべくしないことにしているが、それでも終わらせなければならない仕事をそのまま放置して帰ることは出来なかった。もう少し仕事の方法を変えたほうが良いのだろうか、明日は処理が軽くなるようなプログラムを改めて書いたほうが良いな、と敦子は思案する。
敦子は記憶のままに歩を進めた。確か右折を二回、そのあと直進をして信号を三回過ぎたあとに左折した場所にあるはず、と記憶していた。おぼろげな記憶にしたがって歩いていると、夏の日差しでうなじが焼けるようだ。敦子はなるべく日陰を選ぶようにして歩いた。その建物はコンクリートの外壁だった。灰色をした外壁の上部へ向かって梯子が渡されている。敦子は正面の入り口から建物の中へ入った。入ってすぐの左脇に警備員が常駐しているとは聞かされていた。敦子は来意を告げてから、エレベータホールへ向かう。彼から言われたように五階まで上がり、通路の突き当たりにある部屋の扉をノックした。部屋の中から「随分と遅かったですね」と返答があった。鍵はかかっていなかった。敦子がノブを回して部屋へ入るのと、彼が椅子から立ち上がったのが同時だったようだ。「それこそが貴方の見識です」と敦子が言った言葉に、彼は一ミリグラムくらいの微笑みを敦子へ向けた。それから椅子へ座りなおし、机の表面に肘をついて左右の手を重ね合わせた上に顎を乗せた。「では、始めましょう」彼は言った。




