シニタガリとドラマ
いままで夢を見たことが無いシニタガリは、その日に初めて眠りの中で夢を見た。この場合、夢という言葉の意味を定義するならば、いわゆる希望、願望、あるいは欲望といった将来的展望を備えた意味の夢ではなく、あくまで人が睡眠をとっている際に脳細胞が海馬が連結し分離し、そして過去に遡り蓄えられた電気信号が本人に幻視させるところの夢である。シニタガリは眠りから醒めて、ああ自分はいま夢を見ていたのではないだろうか、と疑念を抱いた。いままで体験したことが無いが故に、それが果たして世間一般で呼ばれているところの夢であったのかどうか、シニタガリには確証が無かったのである。夢の内容はこうであった。ある日、シニタガリが小学生の三年だか四年生だった年齢であったころ、同じ町内の友人達と公園遊びに興じていたが、果たしてシニタガリは友人たちから「お前はあっちに行ってて」と爪弾きにされてしまった。そしてシニタガリが彼らから離れ、公園を背にして道路を渡り、その先にあった柿の木に登り頂上まで昇りきった。
公園を見下ろしたシニタガリの目には、自分以外の友人が輪をつくりプレゼント交換をしている様子が視界に入った。友人たちは四人いた。奇数であったことに不具合でもあったのであろうか、まだ子供だったシニタガリの目には些か不思議な光景に見られなくもなかった。やがて友人たちはシニタガリを柿の木に残したまま公園を去っていった。そして各々が貯水場のフェンスを乗り越え、そこへ排水のために暗く円い口を開けている巨大な配管の中へひとりひとり入っていく。微動することもなく眺めていたシニタガリは、いま大雨が降って、彼らが入っていった配管へ水が流れ込めばいい、と念じる。すると雨とも言わず雪とも言わず、巨大な思念の塊のようなもの、シニタガリの意思としか捉える事の出来ない質量を持った巨大にゼリー状の「何か」が空から落下をしてきた。そして全てを圧壊してしまったところで、シニタガリの夢は終わった。
ベッドの中で汗に塗れているシニタガリは遮光カーテン越しに差し込んできた朝日を忌まわしいものに感じた。朝日ほど己に似つかわしくないものはないだろう、とも思った。朝日から逃れる為に便所へ行こうと立ち上がったシニタガリは、フローリングの床に足をついた途端、その足首をドラマに握られた。ドラマはいつもどおりベッドの下の高さがせいぜい二十センチか三十センチしかない場所で寝ていたようだった。
「どこへ行くの何をするの、何がしたいの。それとも、貴方がいまからする行為に対してあたしは不要、それとも必要。もし必要ならわたしは行かないし、不要ならわたしはついていかなければならない。だから答えるの。そうして全てから逃れられると錯誤しているのなら、軽蔑するわ」
「何をするわけじゃない。何がしたいわけじゃない。ただ便所へ行って用を足してくるだけだ。いまは起きたばかりだし、その必要がある。もし君が望むならその場でペニスを切り取ってしまっても構わない、そうしてのた打ち回るのさ。幸いユニットバスだから血が流れても洗い流せば済むだろう。少し血の臭いが残るかもしれないけど換気扇を回しておけば一日で臭いなんて消えるさ。君がいつも気にしていた電気代だって一日だけ換気扇を回しっぱなしにしているくらいなら、それほどでもないと思うよ。それと電気をつけっぱなしでも構わないと思う。だって血の色がどれだけ落ちたか確認をしなければならないだろう」
ドラマはベッドの下から這い出てきた。背中にはフローリングの床に積もっていた埃が纏わりついていた。あたかも白くて綿毛のような妖怪がドラマの背中に取り付いたようだった。
「その妖怪はなに」
「お腹が空いたな、何か食べさせて」
ドラマはそのままの姿勢でティッシュを三枚抜き取ると、鼻をかんだ。そして「お腹が空いたな、何か食べさせて」と繰り返した。
「何が食べたいの」
「どんなものだって構わない。賞味期限の切れた豆腐でも虫に食われて食べるところなんてない萎びたレタスでも、いまからガソリンスタンドへ行ってハイオクを二リットルくらい飲んだら空腹が収まるかもしれない。うん、それって名案じゃない、素敵よね、素敵だわ。近くにあるガソリンスタンドに勤めてるメタモルは友達なの。一回も会ったことないし話したことないし、そんな人がいるかどうかすらわたしは知らないけどメタモルは良い人よ。きっとお金だって貸してくれるわ。そうして、わたしたちを海外旅行へ案内してくれるの。ハワイとかありきたりのところじゃなくて、昨日に海底から浮かび上がってきた古代帝国があったでしょう。そこへ行くのよ。メタモルはそこの出身なの。一万年以上前にそこに住んでた王様だったのだけどクーデターがあって国を追われたのね。そうしてむかついたから国が海に沈んじゃうようにしてくれってわたしに頼んできたから、わたしは気象予報士の人に相談してそこだけ大雨を降らせるようにしちゃった。そうしたらね、たったの一時間で古代帝国は海の中よ。哂えたわあ」
面白いったらなかったわ、と笑いながら叫んだ後でドラマは、ねえシニタガリお腹が空いたな、何か食べさせて、とまた同じことを呟いた。シニタガリは忌まわしい朝日でドラマが溶けてしまえば面白いだろうと考えた。きっと朝日にあたった部分から煙が吹き出て、実はその煙はドラマの細胞が蒸発しているとかではなく、存在そのものが気化していく、存在というよりもドラマがドラマたりえている意思であるとか自我であるとか、そういったものが気化して空気に塗れてしまうのだ。そうすることによって、身体はドラマとしての形骸を保っているのだけれど、中には何も入っていないドラマが出来あるのだと想像するとシニタガリは思いのほか異様な感情に襲われた。その感情とは、もしかしたら自分は既に朝日をいつも浴びているわけだから、いつもベッドの下で寝ているドラマよりも朝日を浴びている確率は高いはずであるのだから、既に自分の中身というか思念自我意思というものが無くなっていて、こうして考え行動しているいまのシニタガリ自身というものは既にシニタガリではなく、別の何者かが、例えばガソリンスタンドのメタモルが遠隔操作しているのではないかといった不安を掻き立てられてしまったのだ。
「外へ行こう。喫茶店ならモーニングが終わってない時間だろうし始まってもない時間だろうけど、きっと世界のどこかではモーニングセットを食べられる国があるに違いないよ。いや、国じゃなくたっていい、地域、あるいは星、そういった共同体的組織が織り成しているある一定の文化的慣習を備えた人々が集まっている集落というのがここ以外にないと言い切れる」
「わたしは古代帝国の話をしているの」
シニタガリは古代帝国について何も得る事がないのよ、とドラマは気だるそうに言葉を部屋の空気に紛れさせながら腰を上げた。服をまとっていないドラマは切り取られた左の乳房とは対照的に脂肪が零れてしまいそうな右の乳房を揺らせていた。一度だけシニタガリはドラマの右の乳房に搾乳機をあてて乳を搾ったことがあるが、出てきたのはコカコーラとコーヒーに片栗粉を混ぜたような液体だった。それを飲んだ後にシニタガリは心臓が停止し、髪の毛が全て抜け落ちてしまった。停まった心臓はもう戻らないので、そのとき冷蔵庫の中で一緒に住んでいた李陽明が心臓を二個持っていたので一つ貸してもらい、それに血管を繋いでみたら意外と上手く合っていたので、それ以降シニタガリの心臓は李陽明の心臓なのである。李はまだ冷蔵庫の中にいるのかいないのか、わからない。あの日以来シニタガリは冷蔵庫を開けていないから、そこに彼が入ったままなのかどうか確認をしたこともなかった。
とにかく外へ出よう、とシニタガリはドラマに告げ、そしてクローゼットから靴下とスラックスとネクタイとワイシャツを取り出して、それぞれを裏返しにして着た。そうしてみるとドラマの哄笑が耳に入ってきたので改めて表にして、それからまた裏にして、着てみた。今度はドラマの哄笑は聞こえなかった。ドラマは服をまとわぬまま靴を履いているところだった。シニタガリは靴を履かずに外へ出た。そして二人で階段を下りてアパートの前にある路地に立つと、シニタガリは脇に置いてあった石油缶をアパートの周囲にくまなく撒き、それから新聞紙を丸めたものにライタで火をつけて石油が撒かれている場所へ放った。すると炎はシニタガリが新聞紙を丸めたものを投じたところを基点として高速で這い回る赤い蛇のようにしてアパートを囲い、それから木造のアパートの一階から火の手が上がり始めた。このアパートにはシニタガリとドラマの他にも六、七人の住民がいるはずで、きっと戻ってくるころには彼らは眠ったまま炎に焼かれて死んでいるか、それともなければ家財道具全てを焼かれて追い出されているか、それともなければ既に外出していた彼らが戻ってきて全てを失ったことに唖然としているかのどれかだろうとシニタガリはドラマに言うと、いいえ違いますこのアパートには五百人のアメリカ人と二千人のロシア人と五万人の古代帝国人と、それから三人だけカマキリの顔をしたジョゼとクロシンとワタセが住んでいるからここには人の焼死体が山みたいに盛り上がっていて、わたしたちはそれを階段みたいにして月まで昇っていくのよ、と言った。
「月なんて別に行きたくないよ、だいいち空気がないから呼吸が出来ない」
「大丈夫よ、空気なんかなくたって。そもそも貴方、いまここに空気があるなんてわかるの、わからないでしょう、もしかしたらわたしたちが吸っているのは空気でもなんでもなくて、もしかしたら呼吸なんかしてないのかもしれないじゃない。呼吸ってなによ、空気なんか要らないからわたしは月へ行きたいの。ほら、ねえ、腕を組んでも良い」
しなだれかかってきたドラマに右腕を貸したシニタガリは駅前に向けて歩き出した。ドラマは腕を絡ませて、それから鼻歌を奏ではじめた。
「それ、なんて歌」
「魔法少女の歌よ、こうしていると不思議の国からちっちゃな狸みたいなのが迎えに来て、姫、姫はどうしてこんなところにいるのですか、不思議の国がいま大変なことになっておりまする、なんて言っちゃうわけ。でも、わたしはこっちの世界にまだいたいから不思議の国のことなんて放っておきなさい、って言うのね。そうすると古代帝国が攻めてくるのでございまする、姫、王は髪の毛が全て抜け落ちてしまった所為で人前に出ることが叶わぬのならば王子は馬に蹴られて下半身が馬となって半人半馬でございまして王女は悪魔の国と契約を交わして黒い魔術に黒ミサでヤギの悪魔とセックス三昧の毎日でございまして危うく私めも狸鍋にされるところでございましたところ、命からがら逃げてまいりましてこうして姫の御前に醜き毛の塊として身をさらしておるわけでございますから、どうか国を国をなんて涙ながらに語っちゃうわけ。だけどわたしは、この世界の魔法少女としてやらなければならぬことがあるの、ってわたしもちょっと涙ぐんだりしちゃったりして、それから魔法のステッキで狸を黄緑色の狸に変身させちゃうの」
「へえ、それは愉快だ。いや愉快じゃないな、どちらかというと僕はその不思議の国のほうのことが気になる。きっと古代帝国に攻め込まれて危急存亡って感じだろう。だったら君のその魔力で助けてあげてもいいじゃないか。ちょっと行って助けてあげて、それから戻ってきても食事には間に合うと思うよ」
違う違う、とドラマはシニタガリの腕と身体から離れて、シニタガリの前に立ちふさがった。
「何を言うか下郎のものよ、己が信念に基づき憎き貴様を地獄に陥れてやろうか」ドラマは顔を真上に上げて雲の切れ間を飛行していた戦闘機へ向けるようにして叫んだあと、シニタガリへ体当たりをした。バランスを崩して道に背中から倒れたシニタガリの腹部に腰を落として馬乗りになったドラマは「地獄に陥れてやろうか地獄に陥れてやろうか地獄に陥れてやろうか地獄に陥れてやろうか地獄に陥れてやろうか」と絶叫しながらシニタガリの顔面へ拳を幾度も幾度も打ち下ろす。オーケイ、ならそのままでいいさ、とシニタガリはドラマに届かないだろう言葉を口にしようとして口を殴られ喋る事が出来ず、そういえばお腹が空いたけどモーニングセットのチーズトーストセットは四百八十円でハムサンドのセットは五百円だからどちらかというと今はハムサンドが食べたい気分だけどここは二十円を節約することにしてチーズトーストのセットを食べるのも悪くないだろう、と思案をめぐらせていた。そうして、その二十円で古代帝国から不思議の国を守りましょうといった義援金を募っている馬鹿が首から提げている箱の中にゴミみたいに捨てて、きっとその二十円で不思議の国が救われるなら、自分も少しは、ドラマに黄緑色にされてしまった哀れな狸に同情する資格が出来るのではないか、否、むしろ黄緑色になってしまった狸と共に不思議の国へ行き、そこで古代帝国の侵略から不思議の国を守るのも気分的に厭なものじゃないだろうとシニタガリは考えた。その間、ドラマは相変わらず戦闘機に向かって意味不明の言葉か或いは獣じみた咆哮を絶叫しながらシニタガリを殴り続けている。やがて上空を飛んでいた戦闘機のパイロットが煩がったのかミサイルを投下すると、二人は揃って身体を四散させた。




