くるるる
「そうそう、それが酷いものでさ。僕が仕事を辞めるんだって言ったときの課長の顔を見せてやりたかったよ。まあ彼にしてみれば僕がいなくなろうがどうなろうが知ったことじゃあないんだろうけどね。それでも彼が驚いたような表情を作ってさ、その後に何か僕を責めるような心配するような、どうして自分に相談をしてくれなかったのかって言いたそうな顔ときたら、稚拙な喜劇をわざわざ高いお金を払って観にいくのが馬鹿馬鹿しくなるくらいだったよ。違うんだ、でも違うんだな。そうやって僕が仕事を辞めるということに対して、上司ならばこうするでございといった顔を欺瞞として貼り付ける振りをして自分は何も思ってちゃいない、辞めるならば辞めてしまえばいいとか思っていると彼は勘違いをしているのさ。だってそうだろう――」
ビルの屋上が見渡せる喫煙室は硝子張りで、何十年間もここで話をする人間の愚痴を聞きすぎて悟りでも開いてしまったような灰皿を挟んで、腰が深く預けられるソファが向かい合っていた。屋上が見渡せる場所へふたつ、それと真向かいには屋上への出口がある分だけ、ひとつのソファが足を置いていた。真山がひとつだけのソファのほうで腰を落として話をしているのは、ふたつあるソファに座っている諌山の顔を見ていたいからだった。真山が諌山の顔を見ているのに、彼女は先ほどから真山を見ることなどなく、屋上の先に見える新宿高層ビル街が夜のために点けた灯りを見ているように思えた。
「あのね、あたしはそんな話が聞きたくてここに座ってるんじゃないのよ」
「まあいいから、最後まで聞いてくれよ。課長がだよ、僕にそんなことを考えるとは思えないけれど、仮に考えてたとしたらそれこそ僕のほうが仰天してしまうくらいだけど、実際はそうじゃないんだ。上司の振りをして部下が辞めるときのごくごく一般的な対応をしているようにみえてさ、心の中ではもっと僕のことを許せないって憤っているに違いないのさ。自分に声をかけてもらえなかったことが、ひと言の断りもなくいきなり辞められることが彼には許せないんだ。でも彼は、彼自身がそう思うことすら許せないのだから、これは素晴らしい自家撞着と言っていいと思うよ。彼はね、だから、そういった場合にどうしたらいいのかわからなくなって、結局、ステロタイプの反応しか出来なかったに違いないのさ。日頃、あれだけ自分は他人とは違うと大見得を切っている人間がだぜ、これを嗤わなかったら、キリストだって仏陀だって誰だってこの世の中で嗤うものなんて無くなっちまう」
「だから、どうしてそれを、今ここであたしに言う必要があるのかわからないって言っているのよ、さっきから。自分の話だけしていないで、あたしの質問にも答えてよ。真山君が仕事を辞めようが辞めまいが、それこそあたしには関係のない話でしょう。あたしに、ここで話して何を期待しているのかわからない」
「期待なんかしてやいないさ、なにも、なにもね。きみにはただ聞いて貰えるだけでいいんだ。そこでね、ほら、そこがきみの長所なんだ。そうやって眉根ひとつ動かさずにさ、さも憮然とした表情を崩さないけれど、席を立とうともしないで話を聞いてくれる。きみが怒っているのはわかるけど、それを隠そうともしないし、口にするのを躊躇うなんて僕が嫌いな愚かしいことなんて考えもつかないんじゃないかな。それだからこそこうして話ているのさ、わかってほしいね。他のやつらときたら、僕が辞めるって言えばさ、引き止める振りだの次の働き先が決まっているかどうか心配だの辞めても連絡をくれだの連絡先を教えてくれだの、そりゃもうウンザリなんだ。どうしてそこまで自分の心に全く無いことを口から出せる連中ばかりなんだろう。この職場だけのことじゃないんだぜ、きっと僕等の周りじゃあ、心にも思っていないことを口にするのがマナーだと決まってるんだ。僕に対して、彼らが何を思ってきたのだろうか当ててみようか。ずばりだな、きっと何も思っていなかったに違いないんだ」
「それは言い過ぎ。あなたの自己陶酔に付き合っている暇なんてないんだけど、いいよ、今日だけは特別だ。気分がいいんだ、ここに上がってくるまでにいつも何秒で階段を上がってこれるかどうか数えてるんだけど、今日はちょうど百秒で来られたからね。いつも、一秒とか二秒とか足りなかったり、多すぎたりしてイライラしてたんだよ。それがね、今日は本当に百秒ちょうどだったの。駄目なのよ、意識的に百秒に合わせては駄目なの、あくまで自然体でね、足が、それこそ無意識の意識で動くような感じで、動くに任せて、その結果の秒数じゃないと駄目なんだ。しかも時計を使ってもいけない。あくまで自分の心で数字を数えるの。その数字も絶対に自分の足の進み具合に合わせてはいけないの。つまりね、本当は意識的に動かさなくちゃいけないものを、わざと意識しないようにして、それを二つ同時に進行させていてなお自分の想定した目標に合致したわけ」
諌山は組んでいた両足を解いた。スカートから伸びた形の良い足が彼女の前で、彼女の命令を素直に聞いた犬のようにして揃っていた。それを満足げな目線で見下ろした諌山が、両膝の上を軽く手で叩くと、真山が肩をすくめて驚いた。
「そうだから機嫌がいいのね、だからこうして聞いていてあげているわけ」
それから諌山は灰皿に残っているバージニアスリムを、右手で摘むようにして持ち上げて、それから灰皿に押し付けて火を消した。
「真山君がそうやって、自分のことを誰も気にしちゃいないんだ、自分のことなんて誰も好きになっちゃいやしないんだ、って拗ねてさ、それで拗ねてる自分が厭だからって斜に構えてるから、そのうち人から呆れられて君に何も感情を抱かれなくなったとしてもよ。それをどうこうするのはあたしじゃないし、ましてやあたしの知らない誰かですらない。真山君以外の誰でもないんだ。結局自分で周りを規定してさ、それから自分の心を省みてさ、その内実に周囲を当てはめてるだけであって、全部あなたの中での問題じゃない。しかもそんなレベルの低いことを他人に話して理解してもらおうなんて慰めてもらおうなんて、それこそ他人を馬鹿にしているとしか思えないな」
ここまで真山は諌山の口から出る言葉を黙って聞いていた。真山が口を開いたのは、諌山が話を一旦止めたからであり、それが彼女なりの気の使い方のような気がしないでもなかった。
「確かに、そう、おっしゃるとおりでございますな。もしかしたら全部僕の中の責任で、加えるならば他の奴らを馬鹿にしていたのかもしれない。言われてみれば、相手の感情がわかるなんてのは、驕りだ。例えば自分は周りからどう思われているか気になるだとか、周りを怒らせたくないだとか、少なくとも自分に対してネガティブな感情を抱いて欲しくないというのは、相手の感情がわかっているのだという勘違いが元になっていると言えばいいのか、どうなのか迷うけれどね。少なくとも僕は、相手の感情を判ったような顔をしていたかもしれない。でも違うのは、相手の感情を全て判ったと思ったことなんて一度もないってことで、別に判っちゃいないのさ、それは誰よりも僕が知っている。推測、予測しているだけなんだ。多分こうなんだろうって、それが外れた試しは、残念ながら今まで一度だってありゃしないね」
言いながら真山は神経質に煙草の先で円周運動を繰り返していた。やがて飽きたのか、吸い口を自分の口に持ってきて深く煙を吸い込むと、顔を上へ向けて諌山の視線から一旦自分の表情を消すようにして、さも悠然と余裕のある態度とはかくあらんといった呈で煙を吐き出した。
「あたしが厭なのはさ、厭じゃなくて嫌いなのはさ、そうやって自分のことは自分で判ってございますって顔して悠然と構えてるくせに自分に自信が無いもんだから、じゃあ周りを貶めてしまえばいいのにって感覚なんだよね。いいんだよ、そうやっていつまでも自分が自分がって言ってればいいんだ。そんなの通用しないんだから、君が一番軽蔑しているような世間一般じゃそんな人間が軽蔑されてることも知らずに、違うな、それも知っているんだ。そうやって、全部が全部、自分がそういう態度をとればどう思われるかとか知ってるくせにそれを直そうともしないで何が言いたいんだかあたしには理解出来ないんだよね。それって愉しいの、そうやってて、一人で悦に入ってて、でもあなたが愉しかろうがどうだろうが、他人から見たらどうでもいいくらいの、本当に意味なんてないんだ。だから――」
「もういいよ、それくらいで止めてくれって」
「駄目よ、これだけは言わせて。別にさ、急に仕事を辞めたって構わないよ。でも、それを一大事のように自分で思ってるくせに、一大事に見せないようにして、周りがどうとか自分がどうとか、そういうの馬鹿みたいだよ。間違ってるんだ。君がいなくたって別に地球は回るし、君が死んだってそりゃ困ることもあるし悲しむ人だっているだろうし、あたしだって少しは泣いちゃうかもしれないしさ。それでも君が居なくなったあとでも、君が居ないことを前提にして動いていくもんなんだよ。それを君がどうこう言う資格なんてこれっぽっちも無いんだ。ただ、君が居なくても動いていく世界があるからといって、君のことを意味の無い存在だなんて言ってるわけじゃない。そういうものなんだってことをわかってよ。意味の有り無しだとか、他人から意味のあるものだと見られたいとかそう見られるように振舞うだとか、それを嗤って自分を卑下するようなことだとか、そんなの全部考えなくていいんだよ、考える必要なんてないんだ」諌山はそれだけ言うと席を立った。真山はもとから居なかったかのように姿を消していた。もともと諌山の目にしか映っていないものなのだから、目を閉じればいいだけの話だった。




