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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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6/15

だけど、大切な傘がないわけじゃない

 人が寝ているときに視る夢が自身の中に蓄えられている情報の発露であるように、結局のところ自分が起きている時間帯に想像するあれこれも、自身が想像の羽を広げることが出来る範囲というのは自身の情報量によって規定されているのかもしれない。

 高井戸釦は腕時計の時間をそれとなく気にする素振りをした。目の前にあげた腕時計の向こうには友人の久我山指輪が座っている。釦は、窓外の雨垂れを眺めている指輪の横顔を見つめる。

「この雨はさ、雪になると思う?」

 上空から降りてきて地面に届けられる刹那の間しか二人の目に入らない雨粒を目で追いながら、指輪は釦に問いかける。

 釦は、その問いが、決して回答を求められているものではないとは知っていた。ただ、それでも会話の接ぎ穂になるのならばと必死に天気予報を思い出し、それから実際の空模様を喫茶店の窓際に設えられた椅子から腰をあげるようにして観察し、いまの雨が雪に変わるものなのかどうか、考える。

 そもそも雨が雪になる、というのはどういった表現だろうか。

 雲の水蒸気が雨粒となって地面に落ちる、その途中で雪に変わったりするものなのだろうか。釦は一般的に呼称されるような理系人間ではない。そうであるが故に雨から雪にという科学変化なるものを想像することが出来ず、つまり「なる」という言葉の意味を敷衍して考えることに終始する。

 指輪は窓外から釦に視線を移して、少しだけ、釦にだけに伝わる表情の変化で微笑み、そうしてから「はは、いいよいいよ」と笑った。

「そんなにさ、眉間にしわ寄せて考えるようなことじゃないよ。必死に考え込まれても、あたしが、困る」

 そうか、困るのか。釦は改めて友人を見上げる。釦の身長は、女性であることを加味したとしても、低い方に分類されるだろう。たいして指輪は、女性であることを差し引いても高い方に分類されるだろう。決まって釦が指輪を見る視線というのは、いつも見上げるようになってしまう。

 釦は、そのことを、いつも心地よいと感じる。

 人を見上げることが出来るのは、まだ自分が子供であると錯覚させてくれるからだ。

 まだ、誰かに甘えても良いのだと、誤解させてくれるからだ。

「指輪ちゃんは、雪が好きなの?」

「そうだねえ、好きか嫌いか、と二者択一で迫られると、答えようが、ないね。好きでも嫌いでもない。好きになる必要も嫌いになる欲求も、いまのところ、あたしにはないよ。雪は、雪」

「ドライだー」

「じゃあ釦は雪が好き?」

「むう、そう言われちゃった後だと、答えにくいですよう」

 口角をあげた指輪は、コーヒーカップを左手で口元に運ぶ。釦は指輪がコーヒーを飲む姿が好きだ。これは好きになる必要はないけど、でも、好きなのだ。そもそも、好きとか嫌いとか、そういった好悪の感情というのは、物質や現象に当てはめるものではなくて、人に向けられる言葉なのだろうと釦は思う。物質や現象は、自分が影響を与えることが出来るけれど、人からは影響を受けるからだ。

「揣摩臆測になるかもしれないけど」

「シマオクソク?」

「まあ、当て推量になるかもしれないけど。きみは、その男と別れたほうが良いと、あたしは思うな」

「やっぱり、そうですかあ」

「なんて言うのかな、その彼は、まあ、努力をしなさ過ぎるよ。あるいは、努力している自分が嫌いなのかな。自分はここまでならば出来る、それ以外は出来ないというのを早々に、定規で方眼紙に線を引くみたいにして決めちゃってさ」

「おおう、方眼紙」

「なに?」

「方眼紙」

「懐かしいよね。で、さ。その方眼紙に角ばって書かれた自分以外の自分を認めない。丸くなることも、もっと線を引くことも、方眼紙を継ぎ足して自分を大きくすることだって出来るはずなのに、それをしない。違うな、怖いんだ。自分が変わること、現状からの変化が」

「難しい話はわかりませんよう」

「つまりさ、成長しようとしない男に伸びしろを期待しても無駄だっていう説教。じゃあ、出よう」

 会議が終わった後に書類を二度三度テーブルを突くようにして揃えてから立ち上がろうとする会社員みたいにして伝票を手に取ると、指輪は席を立った。釦は飲みかけのモカジャバを慌てて飲み干してから、指輪を追ってレジへ向かう。

「いいです、いいの、今日はあたしが払うから」

「気兼ねしなくていいよ。無職にコーヒー代をおごってもらうほど、お金に困ってないよ」

「無職ゆーな」

「家事手伝い? 花嫁候補? 人生模索中? それとも旅人?」

「花嫁候補がいいかなー」

「馬鹿、じゃあ、うん、そうだな、きみがそうしたいのなら、お願いしようか」

 指輪から伝票を受けとり、残り一枚しかない千円札と小銭で支払いを済ませて釦は店を出た。既に指輪は階段を降りて、道に出ている。しかし指輪は傘をさしていなかった。

「ほら、見てごらん。雪になった」

 手の平を心持ち上向きにするような恰好の指輪は、階段を降りてきた釦へ優しい眼差しを向ける。

 ああ、そうなのだと釦は安堵する。いつだって、指輪は優しいのだ。

 怒らないとか暴力を振るわないとかではなく(むしろ、しょっちゅう怒られるし、小突かれることだって多々あるし)、いつだって自分の事を考えてくれている優しさ、というものがある。高校で同じクラスになってから既に幾年も経っているというのに、お互いの立場も置かれている状況も変わったというのに、その一点だけは猜疑する余地もないくらいに、釦にとって絶対確実な事実なのだ。

 釦は生卵の中身みたいに、ゆらゆらして、不安定で、気がつくと原型を止めないほどに流れ出てしまいそうなのに、指輪という殻があるから存在していけるのだ、とも思う。

 最寄の駅まで、喫茶店の出口から、なだらかな坂が続く。両脇には、小ぢんまりとした商店街の軒先が、マッチ箱を並べたみたいに行儀よく連なっている。雪が降り始めたせいか、歩く人たちの足取りは、凍えているように小刻みにみえる。人通りはそれほど多くない。そもそも、この商店街に人通りが多かったことなど、釦の記憶にはとんとない。せいぜい人が多いときといえば、国道向こうにある私立大学でイベントがあった帰りの学生が歩いているか、それとも試験のときに列をなして高校生が問題集に目を落としながら歩いているか、くらいのものだ。

「あたしの、さ」指輪は、黒いフード付きのハーフコートのポケットに両手を突っ込み、左手の手首に傘をぶら下げ、口元から白い息を泳がせながら呟く。「住んでた街に、急坂っていう坂があって」

「急坂っていう名前なの?」

「いいや、違うと思うけど。ただ、勾配が急だったから急坂って呼ばれてるんじゃないかな」

「いい加減だねえ」

「まあ、その近くに同じような坂が幾つかあるんだけど、なぜかそこだけ急坂って呼ばれてるわけ。それで、このまえ、いつもは途中で降りちゃうんだけど、一番上まで自転車で漕いでいけるか試してみたの」

「おおう、勇猛果敢だよう」

「結構、きっついのね。折り畳みの自転車で、ギアがあるわけじゃないし、タイヤが小っさいから回転半径少ないし、なかなか前に進まないの。でもさ、足を着かないように、意地でものぼってやるんだって、あは、いま考えると馬鹿みたいだけどさ、そのときは必死になって、必死な顔して歯くいしばって、両手を突っ張ったりして、力が足りない両足に自分で怒ったりして、とにかく呆れるくらいに頑張って」

「で、で、上れたの?」

「駄目だった」

 釦を顧みた指輪の顔は、台詞とは裏腹に爽やかな表情だった。ちらつく雪の向こうに見える指輪が釦は眩しかった。

「あともう少し、だったんだけどね。身体も、意思も、上ろう上ろうとしてたのに。ふっ、って気がついたら、左足がペダルからはずれて、地面についちゃってて。自分ではまだ自転車漕いでるつもりだったのに、あれ? って感じで。無意識だったんだろうけど。惜しかったなあ、あと、本当に二、三メートルくらいだったのに」

「残念だったねえ、でもでも、なんで、その急坂? 上ろうなんて考えちゃった、わけ?」

「どうしてかな」

 指輪は釦を手招きした。指輪の真似をして釦も傘をささずにいた。指輪の横にならんだ釦の頭に薄っすらと積もった雪を、指輪は撫でるようにして払った。釦の目の前を、もともと雨でなりたての雪が落ちていく。それから釦は首を左右に振った。襟元が寒かった。首をすくめた。

「ただ、無性にさ、意味なんて百パーセント、探そうったって欠片も見つからないだろうに。そういうことしたくならない? 多分、意味がないのに無意味な意欲だけ先走ってしまう感情っていうのは、すごく大事なんだと、あたしは思うんだ。理由なんてない、なにをしたいわけでもない。だけど、自分の中にある、全力というか、全てを出し切って何かをしたくなる感情っていうのかな、うまく言葉に出来ないけど、そういうのって、凄く大事なんじゃないかな」

「うへえ、指輪ちゃんは偉いねえ」

「偉くなんか、ないよ。その気持ちをどこに持っていけばいいのかわかってないんだから」

「あたしも、そんなの知らないよ」

「知らなくていいの、そんな気持ちを持ってて、どこに向けようか、何にぶつけようかって考えてれば、いいんだ」

「奥深いねえ、ふむふむ」

「子供なんだよ、あたしは、まだ」

 指輪が子供だったとしたら、その指輪に甘えて子供のふりをしてる自分は赤ちゃんだな、と釦は反省する。

 そうだ、せめて、子供にならなくてはいけない。

 少しでも、僅かでも、ささやかでも、些細でも。

 子供になって少女になって女性になって、そうやって自分を変えていこうとする意思をもたなければいけない。

 それがなかったら、自分はいつまでたっても、指輪を見上げたままで、指輪と一緒のものをみることは出来ないのだ。せめて、こうして、優しくしてくれる人と、同じ目線になりたい。そして、自分も優しくなりたい。人のことを考えて、心配して、同じ気持ちになれるだけの、何かが欲しい。

 釦は閉じていた傘をひらいた。

「あたし、雪は好きだよ。雪も、雨も、指輪も、みんな好きなんだからね」

 開いた傘にあたらない程度の間隔を空けて指輪は釦の横を歩いていた。前に出ることもせず、後ろにさがることもしないで、駅までの坂道を歩く。釦のさしている傘は赤い。傘の生地に降る雪と生地の赤色が混じって、傘の内側にいる釦からは桃色に見える。そうか、色は混じることが出来るのか、と釦は感心した。今度、指輪に桃色の傘をプレゼントしよう、と釦は心にメモをした。

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