恋の唄にのせて
「藤本先生、今日はもうお帰りですか」
上原美羽は向かいの席で荷物をまとめ始めた藤本教諭に声をかけた。校内では下校のチャイムが鳴ったばかりである。生徒たちはそれぞれの教室で雑談をするものや、クラブ活動に向けて移動をしているものが多い時間だ。当然のことながら職員室では帰る素振りを見せるものはいなかった、藤本教諭以外には。
「ええ、今日は外せない用事がありまして」
四十歳を目前に控えて結婚もしていない藤本教諭の用事とはなんだろう。美羽は興味をもったが教師という職業の先達への遠慮から口にはださなかった。大学を卒業して去年から教鞭をとっている美羽にしてみればベテランであり、そして美羽も藤本教諭から指導を受けることが多い。
「では、お先に」
藤本教諭が荷物を肩に担いで挨拶をしたとき、職員室の窓ガラスを上から下へ黒い物体が通り過ぎた。通り過ぎたというよりも落下していったという表現が適切であろう。一秒の何分の一にも満たない刹那で美羽の視界の片隅が物体を捉えたあと、砂の入った袋を叩きつけたような鈍い音が建物の外から聞こえた。職員室にいるほかの教員たちは席を立つこともせず、顔を向けようともしない。
「今日の当番は上原先生でしたね」
席を立ち上がった美羽に声をかけたのは藤本教諭だけだった。
「ええ」
「一緒に外まで出ましょう」
美羽と藤本教諭は職員室をでた。職員室へ用事があるらしい生徒と入れ違った。生徒は二人に対して軽く会釈をした。階段を降りて職員用の玄関で靴を履き替えた。音が聞こえたのは職員用玄関とは反対側だっただろう。二人は見当をつけて歩きだした。
ちょうど職員室の窓がある下。校内にある二棟の校舎の間をグラウンドへ抜けるコンクリートの舗道に、女子用の制服を着た生徒が倒れていた。うつ伏せになっており、首が自分の力では曲げられない角度に折れている。横を向いた顔は落下の衝撃で相貌の見分けが付かない。生徒の下には早くも血の池が出来つつあり、それは徐々に広がっているようである。倒れている生徒の傍らを下校すると思しき制服姿の生徒がひとり通り過ぎながら二人に挨拶をした。
下校する生徒に「さようなら」と挨拶を返した美羽は、倒れている生徒の側にしゃがんだ。しばらくして仰向けにひっくり返した。そして胸についている名札を確認した。
「二年五組の谷田部薫さんです」
傍らにいた藤本に美羽は言った。
「五組はそろそろ生徒が足りなくなるな」
藤本は困った顔をした。
「そうですね……今度の職員会議で議題にあげましょうか」
「うん、そうしよう。シャベルは私が持ってくる」
「ありがとうございます」
藤本教諭は用務員室へ向かった。美羽は動かない谷田部薫の両脇へ腕を挿し込み、グラウンドへ引きずっていった。谷田部薫が引きずられた跡には赤く太い線が引かれてしまう。水で流して掃除をするのが面倒だなと思いつつ、なるべく血の跡が濃く残らないように美羽は急いで谷田部薫をグラウンドまで運んだ。
クラブ活動が始まる前で生徒があまり居ないグラウンドである。適当な場所を見つけて谷田部薫を横たえると、美羽は藤本がシャベルを持ってくるのを待っていた。二、三分して藤本はシャベルを二本抱えて戻ってきた。
「ああ、そこは駄目だ。一昨日に埋めたばかりだ」
「そうだったんですか」
「そうだな、あっち。サッカーゴールの裏手辺りはまだ誰も埋まっていないはずだから」
今度は谷田部薫の足を二人で一本ずつ持って運んだ。美羽は右足首を持った。校庭を囲む桜の木が影を落としているサッカーゴールの裏に、生徒がひとり入る穴を掘った。やはり一人よりは二人で掘ったほうが時間がかからず、藤本教諭が一緒に付いてきてくれたことに今更ながら美羽は感謝をした。穴に谷田部薫を寝かせて上から土をかけた。そしてある程度他の地面と平行になるようにシャベルで叩きながら地面を均した。美羽は少し汗をかいた。
「助かりました、藤本先生。ありがとうございます」
「いや、帰りがけだった」
「ああもう、今日はわたしも帰ろうかしら」
校舎へ向かいながら藤本教諭と雑談をした美羽は、今日はこれ以上仕事をする気になれなかった。藤本教諭の用事が何なのかを憶測しながらでは仕事も捗らないであろう、そう考えた美羽は「わたしも帰ります、荷物を持ってきますから少し待ってて貰えますか」と藤本教諭に言った。
藤本教諭は美羽に向かって微苦笑で頷き、正門で待っていると言った。美羽は嬉しくなった。
「じゃあ荷物を持ってきますね、今日は鞄とテニスのラケットがあるんです」




