化学仕掛けのナチュラル
「この街というのがあんたにとって、どんな意味があるのか意味なんてないのか、それともなければこの街があんたそのものなのか、そんなことはわたしが知ったこっちゃないけどね。でもね」と洗濯屋は言っていた。これはそう、僕と洗濯屋がはじめて出会ったときの記憶。記憶というものはどんな式で成り立っているのだろうか。そもそも、記憶とはなんだろうか。
「でもね、この街は世界なんだ。世界ってわかる? 世界ってのはね、全てなの。そこに全てがあって、そこに無いものはなくて、その中で完結していて不足も過分も余剰もなく綺麗に収まっている、それが一個の世界。だから、世界には果てなんてものがないの。世界から出て行くことなんて本来は出来ないことなのよ。外側なんて、ないの。たとえば、空とか宇宙とか、そういった無限に思われているもの、無限だからということで思考を停止させてしまうような効力を持ったなにか。そういった無限でさえも、概念としては成り立っているのに尚且つ無限なんてありえない。それは世界と同義だからなの。あんたたこの街から出て行こうとすることは、それは無限を無限で無くすこと。つまり世界自体を否定すること」
「でも、僕は他の街から来ました。引っ越して来たんです。忌憚のない意見を言わせて貰えば、この街だけが世界だなんておかしいんじゃないでしょうか。だって、じゃあ、僕はどこから来たのか。確かに僕は覚えてない、全然憶えてません。それでも、この街で生まれ育ったわけじゃないことだけは確実なことなんだと思うんです」
「違う、あんたはこの街から、この街へ引っ越してきたのさ。いや、引っ越してきたというあんたの思い込みが何に起因してるのかわからないけど、とにかくあんたがこの街から消えて、いい? 出て行ったんじゃないのよ、消えたの。そうしてまた、この街へ現れたということは《そうでしかありえないのだからそうなの》よ、決まってる」
「わけがわからないな」
僕は嘆息して答えた、ような記憶がする。また、記憶、記憶、いま僕はなにをしているんだっけ。そもそも現実を無視して記憶だけの映像が僕の中に流れ込んでくるこの状況というのは、そう、これは洗濯をしているのだろうか。そうだ、僕は洗濯屋で洗濯をしている。
記憶の中で記憶を掘り出し、思考の中で思考して、思惟をめぐらせて思惟にいたる。僕がはじめて洗濯屋と言葉を交わしたのは、洗濯屋が勤めている店ではなく、それは商店街の道端ですらなかったはずだ。そうだ、明確に思い出そう。洗濯屋は僕がこの街へ引っ越して着て早々に《僕の部屋を訪れた》のだ。なぜ、どうして洗濯屋がわざわざ僕の部屋へ来たのか、理由は知るはずもなく。第一、そのときは彼女が洗濯屋だったなんてことも知らなかったのだから。
「でも、ほら、赤い階段。あれを昇って街から出て行った人を僕は知っていますよ。見張人が下にいる、あの赤い階段です」
「あんたには無理だ」
「どうしてですか? 他の人には昇れて街を後にして、僕には出来ないなんて理由なんてありえるはずがない」
「無理なんだよ。この街にはあんたは《いなくちゃいけない》んだから。あそこを昇っていった人はね、あんたにとっての欠落であり、あんたにとっての不要なものであり、そうして二度と戻らない後悔みたいなもんなんだ。そうやって欠落していくものも、その主体がなくちゃ欠落もしようがないじゃないか。だからあんたはこの街にいなくちゃいけない。たとえ消えても戻ってこなくちゃいけない」
「僕にとっての欠落? 不要? 後悔? なんですかそれ。随分とネガティブですよ。そうやって要らないものとして何かを削ぎ落として生きていくほど僕は人生に何かを抱えたりしてませんよ」
「抱える、抱えないの問題じゃない。抱えようとして落とし、抱えないと思っていたものを抱えてしまうのが、あんたの生き方だよ」
「抽象的過ぎます。もう少し、わかりやすい会話をしたいですね」
「わかりやすく、言う」ここで僕は目を覚ました。しかし洗濯屋の言葉は、僕の記憶と夢と無意識の中から引き続いた言葉として続いた。「パン屋の女の子も、見習いの娘も。あんたと関わりを持ってしまったから、赤い階段を昇ることが出来たの。或いは関わりを持ってしまったために。あんたと関わること、それはつまりこの街の中であんたの一部になるということだよ」
「僕の一部になったから? だから僕の前から去らなければならなかった? 僕の一部になったからこそ、赤い階段の上になにがあるのかを想像することが出来た? じゃあなんで僕には赤い階段の先にあるものがなんなのか、わからないんでしょうか?」
僕は洗濯屋のベッドに寝転がりながら喋っている。目を閉じている。それでも天井に等間隔で並んでいる蛍光灯の灯りが目蓋を通じて網膜に通じている。どうして目蓋という物理的な壁があるっていうのに、灯りは僕の心を照らすのだろう。
「それは単純な公式だよ」
洗濯屋はそっと僕の目蓋を開け、そして背中に腕を差し入れて僕の半身を起こした。なにやら、ひどく不安定で、生まれて初めて立ち上がる小鹿みたいな気分だった。
「あんたが、想像をしたくないからさ。そうして、階段の先になにがあるんだろう、なんて考え始めるとしよう。それは望むと望まざるとに関係なく、どうしても考えてしまうんだ。だから、そういうときにあんたは他人を求める。関係を求める。自分をとても弱い存在だと儚く感じて、自分以外の別のものに他人に外部に頼ろうとする。すると彼ら彼女ら、つまりあんたが凭れかかった《それら》は、あんたから赤い階段の上を想像する力を取り外して、それぞれのものとして、赤い階段を昇っていってしまうのだ。そうだろう? あんたがいままで好きだったもの愛したもの必要だと欲したもの、それらはいまこの街にはないのだろう?」
そう、確かに、僕が何かを欲する、必要だと感じる、そういったものたちは、全て僕の指の間からゼリーみたいにして抜け落ちてしまう。救おうとしても救おうとしても、差し出した手の平から零れ落ちてしまう。だから僕はいつのまにか、手を差し出すことすらも億劫で、それを予期することすら不安に臆病で、抜け落ちてしまう。しかも僕の一部となりかけたそれらが僕の心の中にあるなにものかと一緒になって欠落してしまう。そうして僕の心は段々と空っぽになっていくのだろうか。
「どうて僕は、想像することを拒むんでしょう。世界の果て、限界、無限の先、どんな呼び方だって構わないですけど、つまりこの街の外部のことを知ろうとしないんでしょう」
「世界の解答に近づかないため、だと思うよ。はい、終わり」
「世界の解答?」
「そうねえ、あんたが、いまあんたで在るために成り立っている世界というものを、壊すことを良しとするか否か。完結している世界を、調和が取れている、過不足なく、不自由なく、それでいて動くことがない世界という名の街をの外を、あんたは知りたいけど、出て行くのが怖いのさ」
背中をぽん、と叩いて洗濯屋は僕をベッドから降ろした。それから初めてキスをしてくれた。僕と洗濯屋は一分くらいのあいだ唇を重ねていた。駄目じゃないか、こうして、僕と関わりを持ってしまえば、洗濯屋も、あなたも、彼女たちと同じように僕の一部を削ぎ落として欠けさせて、階段を昇ってこの街から出て行ってしまうじゃないか。
「わたしは大丈夫。自分からは出て行かないよ」
心から信じられる言葉というのは人生で一つか二つあれば十分だ。このとき、僕は彼女の言葉を信じた。信じたばっかりに、裏切られて傷ついて、また僕の心が空っぽになったとしても良いと思った。
結果として、洗濯屋は僕を裏切ったりしなかった。
洗濯屋は彼女の言葉通り、《自分からは》出て行かなかった。
殺人者に殺されてしまった。
洗濯屋は、その店の奥にある、僕がいつも洗濯をしてもらうときに横になっていたベッドで死んでいたらしい。僕が洗濯屋の死を耳にしたのは、僕が店を訪れた翌日のことだった。
彼女は消えてしまった。そうしてこの街から出て行ってしまった。彼女が言うところの僕の世界から消えてしまって、もう二度と戻らないのだろうか。それとも僕が消えて、またこの街へと戻ってきたと彼女が話していたように、彼女もこの街にいた記憶というものを無くしてしまってから戻ってくるのだろうか。この街にいた記憶、ならば僕の記憶でさえも無くし、僕から何を削いで消えてしまったのかすらも忘れて。
僕は洗濯屋まで花を持っていった。洗濯屋にはシャッターが閉まっていた。パン屋のシャッターには七人の小人が描かれていたけど、洗濯屋のシャッターは単純なクリーム色だった。そこには「閉店します」のメモ用紙だって無かった。僕は中に入ることをせずに、シャッターの前の地面に花束を置いてしばらく店を眺めていた。
「まったく困ったよなあ、困った困って困りすぎて死ぬか? 死んでみるか? 殺してみようか?」背後から声がした。誰の声かすぐにわかったけど、僕は振り向かなかった。「ああ、洗濯してもらわんと駄目やから駄目になってもうてますます駄目だからもう死ぬか? あはははっはは、笑うぞこら。黄昏てんじゃねえぞ駄目人間。洗濯屋を殺したのはなあ、俺じゃねえぞ。お前だ、お前。お前がみっちりたっぷり、首を絞めて眼球飛び出そうなほど苦しんでる洗濯屋をこれでもかっつーうらいに力を入れて絞めて絞めて殺しちまったっつーの」
「僕はやってない」
「いいや、お前が殺した」殺人者は声音を落とした。「まあ、一万歩譲って俺が実際に手を下したとしよう。俺は、いや、俺が《殺人者》である限り、この街で人を殺せるのは俺だけであって、殺人者が殺人をしなくなったら終わりだからな。でもよう、お前が何かを望まなければ、洗濯屋に《なにごとかを欲しなければ》、俺は洗濯屋を殺しはしなかった。つまり、お前が彼女を殺したのも同然ってことさ」
「そんなのは言葉遊びで、責任転嫁だ。殺したのはあなたでしょう?」
「厳密に言うと、殺したんじゃない。消したんだ。この街から洗濯屋を消したのさ。そうすることが俺の使命だし、そうしなければならなかったし、必要があったし、なにより彼女がそれを望んでいたからさ。洗濯屋がこれからも街にいたとしたら、お前はきっと洗濯屋が赤い階段を昇る姿を見ただろうさ」
「彼女は、自分から出て行かないって言ってた」
「だからこそ、さ。お前に言ったからこそ、彼女は出て行くか、それとも俺に殺されるかを選ばなければならなかった」
ふと、殺人者は僕の前から忽然と姿を隠した。それはまるで林の中で隠れん坊をしていた友達が、ふとした拍子に僕の視界から消え去って、それからどんなに探しても見つからなかったことに似ていた。僕は探すこともしなかったし、探す必要も感じなかった。ただ、殺人者が洗濯屋を殺してしまった理由というのがいったい何なのか。本当に僕に関わってしまって、僕が彼女の中にある何かを欲して、そして寄りかかりとても弱い僕を補おうとした結果、洗濯屋は殺されてしまったのか。そういった「何か」だらけの街で僕は生きているし、多分、僕はその「何か」を知るためには空っぽの心を満たす必要があるのだと思う。ただ、満たそうとして他人と関わろうとすればするほど、他人はいなくなってしまう。ならば、と自問自答。ならば、僕はどうすればいいのか。殺人者のチェシャ猫みたいな笑い声が聴こえた。烏の鳴き声が聴こえた。雲が山間に落ちる音が聴こえた。僕が歩く音が聴こえた。でも、それ以外に聴こえる音はなかった。




