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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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時計仕掛けのノミナル

 こうして仮初めに座っているだけで、彼が何を考えていたかなんて解るわけもない。理解出来るわけがない。彼、見張人はパン屋の女の子が赤い階段を昇っていったあの日、僕の目の前に誰も座っていないパイプ椅子とヘミングウェイの『老人と海』と、まぎれもなくかつてそこに座っていたという見張人の残像と少しばかりの謎を残して僕の目の前から去ってしまった。

 あのとき、僕に見せた見張人の背中は、たとえば僕が追いかけていって「行かないでください、あなたには訊きたいことがあるのです」と問いを投げかけたとしても、峻厳として拒絶するような衣をまとっているように見えた。そうであることを僕に悟らせるような見張人の意思を感じた。だから、というわけではないのかもしれないけれど、僕は彼を追いかけることなどしなかったのだ。

 それ以降、僕は見張人を街で見かけない。

 いや、もう見張ってなどいないのだから見張人ではないのか。

 そもそも彼は何を見張っていたというのか。

 見張人ではなくなった彼は、いま、何者とてして生きているのか。

 それとも生きてなどいないのか。

 では、僕は生きていると断言出来るのか?

 僕はあの日以来ときおり、こうして赤い階段のふもとへ来て、かつて見張人が鎮座ましましていたしていたパイプ椅子へ座り、空を眺めている。こうしていることが何かのプラスになるのではなくて、ただ過去、昔、過ぎ去ったものどもを回顧しているだけのノスタルジィであることくらいは、いくら物分りの悪い僕だって理として解してる。僕は赤い階段を昇ることも、車でドライブに出かけることも、一般論として「先に進む」ということが出来なかった。出来ないように自分を規定しているのか、それても潜在的に不可能なのか、「先に進む」という不可逆なものに対する恐れなのか。たぶん、どれでもない。もし、と仮に思考してみる。僕がここに座り続けるとする。かつて見張人がそうしていたように、ここで赤い会談に付属しているおまけのようにして、あるいは赤い階段という属性の一部となって生きるって仮定してみる。僕は見張人になれるのだろうか。これから赤い階段を昇って街を離れて「どこか」へ昇っていこうとする人々から、たとえばパン屋や修理工の女の子たちから、見張人が受け取っていたように白い用紙に階段を昇った先にあるべきものを想像し記入した街を離れていく免罪符を受け取って、そうして彼ら彼女らが階段を昇っていく姿を見送るなんてことが出来得るのだろうか。回答は、否。

 そうなのだ。見張人が見張人であるために必要であったものを、僕は全く獲得も会得も取得もしていないのだから。僕が僕でしかありえないように、見張人は見張人でしかありえないのだろう。パン屋の女の子が、修理工の女の子がそうであったように。

 すると、人は人足りえるために必要なものというのはそれぞれの人の中にしかないとして、人と人との関係とはいったいなんなのだろう。僕は弱く脆弱で虚無に限りなく近く、そして不完全だ。だから僕は他の人と係わり合いを持たずには生きていけない。それはそうだろう、係わり合いという観点で言うならば、誰だって誰かと繋がっているのだ。しかし、この場合、場合というのは、僕がこれから先へ進むために、赤い階段を昇るために必要な、もの。友人、恋人、そういったもの。

「あんたってさあ、友達とか恋人とか要らないんだと思ってた」

 洗濯屋は僕の出したワイシャツやスラックスをたたんだ。ひとつひとつに小さな紙製のタグをつけて、それからそれをカウンタに隠れて見えない位置にある大きなバスケットへ放り込んだ。

「これは明後日までには仕上がるから、で、どうする? 身体」

「出来ればお願いしたいですけど」

「ん、ちょっと待って」洗濯屋はカウンタの下から手帳よりも大きくてノートよりは小さい使い古した紙の束を取り出した。紙は茶色に変色していて、そこには横線が引かれている。枠内には僕以外の街の人間の名前が全て書かれてあるんじゃないかってくらい、ぎっしりと名前と日付が書き込まれていた。実際、僕を含めて、街に住む人の全ての名前がそこには記されているはずだ。洗濯屋は街の中を半年かけて歩き回って探してもここ以外にはないし、たとえ一年でも十年でも百年でもどれだけ探したって僕がいま立っている洗濯屋しかない。

「駄目だ、ちょっと予約が埋まってる。季節柄かな、みんな洗濯したいみたいだね。そうだな、うん、一週間後の午前十時にまた来てくれるかな。いまの洗濯物も急いではないのだろう? だったら一週間後に取りきて、そのついでに洗濯してあげるよ」

 洗濯屋は僕の予定を勝手に書き込んで紙束を閉じた。湿った文庫本にしおりを挟んで閉じたような音がした。僕は了解したことを示すように一度だけ首肯して、それから「では、また一週間後に」と言って洗濯屋から道路に出た。刹那、さっきまで雲に隠れていた太陽が五分の一だけ顔を出した。顔なのか、頭なのか手なのか足なのか、それとも太陽の尻尾なのかどうかしらないけれど、とにかく太陽を構成する部分を五分割してそのうちの一つ、というわけだ。それだけで道路には僕の黒い分身が出来て、僕の真似をした。僕がしばらく自分の影を眺めていると、僕の影にもうひとりの影が重なった。その影は、すうっと伸ばした影の両手で、僕の影の首を絞める真似事をしていた。真似事、そう、それは遊戯であり、本質的には本気なはずだ。

「よお、今日もくだらねえ細胞活動をくだらねえ目的もくだらねえ理解もくだらねえ存在理由なんてものすらも無えくせににぐだぐだと無意味に継続してるみてえだな、おいこら、どこ行くんだよ逃げんな馬鹿」

 背を向けて彼、殺人者がいる方とは反対へ歩き始めた僕へ彼は言葉を浴びせた。だけでなく、駆け足で僕に追いつき、肩を痛いくらいに握ってそこを支点にして僕を回転させて、無理やりに僕が殺人者と向き合うようにしてしまった。殺人者は不敵に微笑んでいた。そう、不敵、まさに不敵で無敵なのだ。殺人者はこの街における調停者であり絶対者でもあり、換言するならば神なのだ。神にしては少々、いや大いに人柄人相人骨人品全てにおいて人と名のつく形容詞に喩えれば最悪と言えなくもないけれど。

「聴いたぜ聴いたぜ、聴いたぜ聴いたぜ聴いたぜ聴いたぜ? ど派手に振られたんだってな。パン屋と修理工の見習者によ。あははは、笑えるよなあ。いいか? 笑ってもいいのか?」

「……聴いたなんて冗談はやめてくださいよ」

 そう、聴いてからはじめて知るなんてことは、こと殺人者に限っては絶対にありえない。彼の場合はあらかじめ「知っていなければならない」のだ。殺人者は僕の両肩を掴んだまま、顔だけを寄せてきた。それこそ「ぐい」といった擬音が出てくるくらいの勢いで。

「言ったはずだで伝えたはずだぜ忠告も誣告も宣告もしたはずだ。てめえにはな、出来ねえんだよ、人と関係を持つなんてことは出来ねえんだ。たとえ、てめえが関係を望んだとしても、それは関係することを望んでるんじゃねえんだ。友人が欲しいから関係を持ちたいって? 違うな、そりゃあ世間一般で言われている友情だとか助け合いだとか相互互恵だとか麗しき親愛の情なんてものが欲しいわけじゃねえんだよな、てめえの場合、これが《友人》っつうモノが無いと不安なんだ。《友人》という存在が必要なものであるべくこの街じゃあ触れ回られているから、それを保有していることが大事なわけであって、その関係性なんててめえには、微塵も興味が無えはずだ。強いて言えば、利用出来るときには利用して奪えるものは奪って、それでてめえからは何も与えない、そうだな? そうなんだろう? 《知ってる》んだよ、俺様は、遍く全ての事象をな。恋人にしたってそうだよな? これは疑問系じゃないぞ確認だからな。お前にとっちゃ恋人だって友人だって同じだ。《恋人》という社会的な位置をしめる記号が欲しいわけであって、あとはせいぜいが性欲の捌け口として欲しているのであって、てめえにとって《恋人》なるものが恋愛の対象でも恋しくも愛しくも無えんだよな? すべては街に同調していくための記号、記号、記号、それをかき集めてよ、てめえは何がしたいんだ? 本来はそんなもの必要とも思わず必要にもならず、そんな感情すら持ち得ないてめえが何をするつもりなんだ?」

「わからないんですよ」僕は近すぎる殺人者の顔から逃げるように顔を背けた。僕の影は影であり、背けたようには動かなかった。「確かに、そう、僕はそういった感情だとかを持っていないかもしれない。心が空っぽだから、先のことも赤い階段の上にあるものも想像出来ないし、車も進まないのかもしれない。だからこそ僕は友人だとか恋人といった存在が必要だと識っていなければならないし、理解してますよ。でも、必要であることと、必要であるべきものを得るために必須なこと、というのはイコールではないですよね? いえ、普通はイコールなのかもしれない綺麗な等式が組み立てられているものなのかもしれない。でも僕は、僕の中ではその二者はノットイコールなんです」

 不敵な笑みを浮かべたままの殺人者は、僕の肩から手を離して背を向けた。そして右手を軽く上げて「てめえはまだ殺さねえし、殺す予定もねえし、殺せねえからな。しばらくそうやってナメクジみたいに這いずり回ってじとじと悩んでりゃいいさ」ふと、殺人者は振り向いた。「だがな、時間は永遠じゃねえ。街も不朽であるべきじゃねえ。そこは理解しとけよ、駄目人間」

 僕の前から去っていき、次第に見えなくなってしまう殺人者を僕は最後まで見届けることなく歩き出した。おそらく、これから誰かを殺しにいくのだろう、ひどく軽い足取りだった。いや、誰かを殺しにいくときも何をするときでも殺人者の足取りは軽く、人とか人間とかそういった有象無象を軽々と飛び越えてしまうのだ。僕にはとても、それが羨ましいことのように思えた。

 それからの一週間は、殺人者の言葉を反芻し続けて終わった。過ぎたとも経たとも言い切れない、それは文字通り終わってしまった。まるで、僕のいままで歩んできた人生が、歩んできたというそこから錯覚であり、全ては過ぎ去っても経験もしておらず、終わってしまったのと同意義であるかのように。

 午前九時過ぎまで寝て、ブラシの先が開いてしまっている歯ブラシで歯を磨いて、それから着古したジーパンと七分丈のティシャツを着て帽子をかぶって洗濯屋へ向かう。洗濯屋のカウンタでは洗濯屋が一週間前と変わらずの恰好で一週間前と同じ姿勢で「仕事」をしていた。ガラス扉を開いて僕が中に入ると、待っていたよとだけ言ってビニール袋に入っている僕の洗濯物をカウンタの上に置いた。

「まあ、これはこれとして、じゃあはじめよう」

 長袖のワイシャツの袖をまくって洗濯屋は奥へ向かった。僕もカウンタ脇の通路から洗濯屋に附いて店の奥へ行く。真新しいような真っ白いシーツをかけられたベッドの脇で洗濯屋は腰まで届く長い髪を後ろで結わいていた。僕は彼女の長い黒髪が髪が断然好きだった。いちど「素敵な髪ですよね」と褒めたことがある。洗濯屋はそのとき「髪に素敵も素敵じゃないもあるもんか、髪は髪だよ」と言った。

「いつもどおり、横になって」

 洗濯屋はベッドの上にあるはずもない埃を叩くような仕草をする。それもいつもどおりだった。変わらない、不変である、というのは一種の安定作用をもたらすものだと思う。それは安心とともに不安をもかき立てるのもではあるけれども。

 ベッドへ行儀よく横たわった僕の頭の方へ洗濯屋は移動して、目を瞑った僕の頭を包むようにして手を置いた。

「どうしてだろうね。あんたは先に進むべきだし昇らなくちゃいけないことは痛いほど知悉しているはずなのに、まずそのはじまりにさえ指先が触れもしない」

「よくわかりません」

「パン屋の子と見習いの子は、昇ってしまったよね。あんたはそれについてどう思うの?」

「羨ましいし、僕を残していったことについては恨めしいとも思うし、それに、とても哀しいです」

「違うな、あんたはそんなこと感じちゃいない」

「じゃあ、どうだっていうんですか?」

「あんたはね」彼女は僕の頭を包んでいた手を僕の顔へ動かした。目を瞑っていても、視界が暗くなる、暗転する、緞帳が下りた世界と手をつなぐ。「口惜しいのさ、自分が出来ないことをやってのけてしまう彼女たちと比べて、自分が劣等なんじゃないかって考えると口惜しくてしょうがないのさ。たとえば、あんたは、昇ってしまった彼女たちともう一度会うことが出来たとしても、そんときに正面から視線を向けることが出来るのかな、わたしにはあんたがそんなことは出来ないことが解るような気がするな。ただ、あんたにとって口惜しいという感情はマイナスではなくって、どちらかっていうと口惜しいと思う心、自らが劣位に属しえているという感覚、そういったもがぬるま湯みたいに気持ちが楽になるんじゃないのか? そうしている分には、口惜しがって羨んで妬んで嫉心している分には《何もしなくてもいい》んだからさ。口実、違うね、もっと根源的な部分で、あんたには欠けてるものがある」

 洗濯屋の言葉はそこで終わった。いや、終わってなかったかもしれない。とにかく僕は、洗濯屋の手の平に包まれたまま眠る。次に目覚める保障なんてな欠片もないというに、眠った。

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