機械仕掛けのアニュアル
パン屋の女の子はとてもチャーミングで、僕の好みだった。きっと彼女がいなければ僕はこの街に留まることが難しいのだろう、といった漠然とした予感があった。予感は僕の身体をまるでウィルスみたいにして侵食していたけれど、実際のところ彼女がパン屋を店仕舞いして七人の小人が食卓に向かっているシャッターに張り紙をして姿を消して、そして街の中央にある階段を昇っていった後でも、僕が街を去ることをしなかったのは何故なのだろう。彼女が赤い階段を昇っていった理由を知りたいだとか、彼女を追って階段を昇るまではこの場所を離れるわけにはいかないといった、いわゆる心に秘めた誓いのような強烈な思念があったわけではなくて、不安と同じように漠然としていて捉えどころのない「何か」が僕の胸の中にわだかまっていたのかもしれない。人によってはそれを後悔と呼ぶのだろうか。それとも未練と名づけたほうがより適切だろうか。
彼女の居なくなった街は閑散としているよういでいて、それでも季節は夏だった。街の山沿いには名前を忘れた湖があって、僕は湖に沿って山頂まで続いている山道をドライブすることにした。僕の車はセダンで年式はとても古い。二ヶ月前に乗ったときには問題なく運転が出来た。しかしキィを差込んでスタートをさせようとしたところ、一度だけエンジンがお腹を空かせたライオンみたいにして吠えた後はなにも動かなくなってしまった。僕だけでなく車までもパン屋の女の子が居なくなったことにショックを受けているみたいだった。車は階段なんて昇れないのに、きっと昇れる気持ちでいたんだろうと思う。
僕は動かなくなった車を前に、ガレージの中で立ち尽くしていた。しばらくの間そうしていたけれど結局そのままでも仕方がないし、いずれ車は治すことになるのだろうから今日直したとしても不都合なんてあるわけがないし誰にも迷惑がかかるものじゃないだろうと考え直した。
僕はガレージを出て家の中へ戻り、二階に置きっぱなしだった電話帳を持って玄関まで戻った。それから僕が引っ越してくる前からこの家に置かれたままだった黒い電話のダイヤルを回した。電話番号の数字の数だけ他人を呼び出すために機械らしい不粋な音がした。四回、呼び出し音が鳴った。それから電話に出たのは修理工の男だった。
「少し、困ったことになったんだ」
「そりゃあお前よお、誰だって、いつだって、何事か困ってるものだ。世の中で困ってねえなんて人間がいたらお目にかかってぶん殴ってやるよ。だいたい俺だっていま困ってる。お前から電話がかかってきた所為で魚を焼いてるレンジは火をつけたままだしベッドの中には途中で放り出されたまま欲求不満な顔してる女はいるし、それに俺だって裸だ。そういう曖昧な言い方はやめな」
「車が動かなくなったんです」
「それなら初めっからそう言やあ、いいんだ。例のポンコツだろう? すぐに人を行かせるから、待ってな」
「ありがとう。それと、魚と女性によろしく」
「嘘に決まってるだろうが、馬鹿」
僕は溜息をついてから受話器を置いた。修理工はいつも嘘をついた、電話でだけは。人に面と向かって嘘がつけないから電話でくらいは嘘をつかせろよ、と以前会ったときに嘯いていた。きっと修理工は正直な人間なのだろうと思う。僕は電話で嘘はつかないけれど、人に会って嘘をつくころが出来る。どちらがより人間らしいだろうか。そもそも嘘をつくことが人間らしいことなのだろうか。少なくとも、世の中に困っていない人間が存在することはないと修理工が電話で僕に伝えたのと同じレイヤで、人に嘘をつかない人間がこの世の中に存在するなんて僕は認めたくなかった。それがたとえ、僕の独りよがりであったとしても。
そういえば、修理工は人を行かせる、と言っていた。いままで、つまり修理工の工場で中古の車を買ったときも、それ以降に修理をお願いしたり点検とかオイルの交換とかを依頼したときでさえ、修理工の工場は修理工の工場であり、他の工員はいなかったはずだった。それとも僕が目にしなかっただけで、こっそりと工場の中で作業をしていたのかもしれない。きっと僕が工場へ行くと修理工が合図をして隠してしまうのだ。
その工員は巨大な闇の組織に追われていて、誰彼構わず逃げなくてはいけなくて、そうやっているうちにいつの間にか人から逃げる習性が身についてしまったのだろう。僕がそんなことを想像しながらリビングのソファでバレンタインを呷っているとチャイムが鳴った。僕は玄関まで歩き、ゆっくりとドアノブを捻って、扉を開けた。そこには修理工が着ているのとそっくりな作業着を着たツインテールの女の子が青くて硬そうで実際にレンチで叩いてもへこみやしない四角い工具箱を手に持って立っていた。
「こんにちは」
「おはようでも、こんばんわでもない時間だね。残念ながら曇りだけど」
「だから、こんにちはで良いのでしょう?」
「そうとも言えるんじゃないかな」
女の子は不思議そうな顔をして僕を見た。そうして「自動車の修理に来ました。ガレージに停まってるセダン?」と言った。僕は修理工が来ないまでも、まさかこんなに若い女の子が来るだなんて想像もしていなかった。女の子はどう見ても二十歳前だったし、もしかしたら十五歳よりも若かったかもしれない。それでいて油に汚れたつなぎだとか、傷がついた黒い安全靴だとかを着ている姿はとても自然で、その姿のまま生まれてきたんだ、ってジョークを言われても僕は信じただろう、ってくらいだった。僕は玄関扉を全部開けて彼女が良く見えるようにした。彼女は上半身を横へ斜めに倒して、どうしたの、といった素振りをした。
「久しぶりに乗ろうとしたら、エンジンが動かなくなっちゃったんだ」
「久しぶりってどらくらい?」
「二ヶ月ぶりくらい、かな」
「それは良くないことだと思います、車だってたまに動かしてあげないと調子が悪くなるもの。人間と同じです、食べて運動して眠らないと調子が悪くなりますよ」
「こんどからは気をつけるよ」
そうしてください、と言って女の子はガレージの中へ入った。
「作業が終わったらお知らせしますから、家の中に入っていてもらえませんか?」
女の子の後ろで作業を見ていようした僕に彼女が言った。
「いや、別に見張っているとかそういうことじゃなくて、ただ興味があったんだけど。駄目かな」
「駄目じゃないですけど、厭なんです。作業をしているところを見られているのが」
「まるで助けてあげた鶴みたいだね」
彼女はオットセイがセイウチと話してるときみたいな顔をして僕を見た。きっと彼女は古い童話なんて知らないのだ。僕だってたまたま知っていただけで、ちょっと場の雰囲気を和ませようとしただけなのに、逆効果みたいだった。ごめん、じゃあ後で、と言って家に戻った。それから、部屋に戻ってもやることがないのでまたソファに座ってお酒を飲んで、テレビを見ていた。テレビでは僕を退屈させるためにわざとつまらなくしているみたいなドラマが流れていた。放映する時間が決まっているから、いつごろ事件が起こっていつごろ解決するか簡単に想像出来るようなドラマだった。ためしに、「ここで犯人が判明する」と僕が言ってみたら、五秒後にはその通りになった。こうなるとテレビドラマの作家なんて誰でもなれる職業なのかもしれない。少なくとも自動車の修理工よりは簡単な職業だろう。僕はくだらなくなったので、そのままソファへ横になってしばらく眠ろうと思って、そして眠った。
目を覚ましたときには、僕の目の前に修理工の女の子が玄関に立っていたのと同じ姿勢で立っていた。ただ、青い工具箱だけは持っていなかった。玄関か、外にでも置いてあるのだろうと思った。
「ごめんなさい、チャイム鳴らしても出てこられなかったから」
「いや、いいよ、僕が眠っちゃったからいけないんだ」僕は横になったままだった身体を起こしてソファに座りなおした。「修理は終わったの?」
「終わりました、少し前に」
「結局、どこがおかしかったのだろう」
「どこも不具合はなかったけど」彼女は心持ち顔を上げて、視線を一周させた。「たぶん、あなたの心が空っぽだったからだと思う。車が動くための動力って、エンジンとガソリンと、それから人の心なんです。愉しくても哀しくても怒っていても、それから希望とかそういったものが心に入ってないと駄目なんです。車って先に進むものでしょう?」
「バックもするけどね」
「進行方向を定めて進むって意味では一緒なんです。だからこれからどうしたいのか、どこへ行きたいとか何をしたいとか、そういったことを考えている人が乗ってるんじゃないと車って動いてくれないのものよ。普通の人ってだいたいそんなこと考えてるから車は普通に動くけど、ほら二ヶ月前まではあなただって車を運転していたはずでしょう? だったらどうして急に車が動かなくなってしまったのかしら? 車には問題ないのよ。問題があるのはあなたなの。あなた心が空っぽだから車が走らないの」
それは、つまり、僕はパン屋の女の子に去られたことで、心が空っぽになってしまったということなのだろうか。そこまで僕は彼女にい依存していただろうか。赤い階段を昇った先を想像出来なかったということは、あの用紙が白く空白だったのは、そこに何も書くことが出来なかったことは、つまり車が動かなくなったのと同義だとでも言うのだろうか。
「でも君は修理が終わった、って言ったよね」
「ええ、たぶん、いまは少しだけ走れると思います」
「ということは僕の心が空っぽじゃなくなったってこと?」
「いいえ、違うわ」彼女は床に膝をついた。「あなたの心は空っぽのままだけど、いまあなたは、自分の心が空っぽだということに気がついたもの。だから少しでも心の空白を埋めようと、何かをしようと、しなくちゃいけないんだ、って考えるだけでも、空っぽだけど空っぽなりに少しだけでも車は動くと思います」
「よくわからないな」
僕は苦笑いした。なんとなく意味はわかったけど解らない振りをした。
「僕は湖から山、それから山頂へ登るドライブをしようと計画していたんだ。それくらい走ってもらわないと困るんだけど」
「それは、無理です。そんなには走れない」
「じゃあどれくらい?」
「そうね……」彼女は腕を組んで頭をかしげて考えていた。計算していたのかもしれない。彼女がそうしていると、僕が先生で彼女が生徒で、黒板にある不等号式を解かせているような気分になった。「百メートルくらいなら走れるかもしれません。でも、それじゃあ湖にも山にも行けないと思います」
「そうだろうね、次の交差点にも行けないだろうね」
次の交差点までくらいならなんとか、と修理工の女の子は真面目な顔つきで答えた。どうやら彼女には冗談というのが通じないらしい。じゃあ僕はどうしたらいいのかな、と僕は彼女に訊ねてみた。答えなんか期待していなかった。しかし彼女はまるで予習してきた優等生みたいにして背筋を伸ばして答えた。僕は彼女の言葉にしたがって、彼女をベッドのある部屋まで連れて行き、油塗れのつなぎを脱がせて下着を脱がせて、それからセックスをした。修理工の女の子の肌からは油の匂いがしたけれど、それは決して不愉快な匂いなんかじゃなかった。修理工の女の子は二回果てた後に三十分だけ寝て、それからまた油に塗れたつなぎを着て玄関に置いてあった工具箱を持って帰っていった。僕は見送らなかった。
僕は弱い人間なのだ。他の人のことは知らないけれど、僕はひとりでは生きていけないのだろう。だからこうして誰かと繋がっていないと前にも先にも進むことが出来ないし、赤い階段の上に何があるのか想像も出来ないのだろう。でも、いまの僕には少しだけあの赤い階段の先に何があるのかわかるような気がした。その少しだけの欠片を、いくつかの欠片を繋ぎ合わせなければならなかった。だから僕は車が故障したわけでも点検が必要なわけでもないのに、修理工のところへ連絡をした。あの女の子に会いたいと言った。
「ああ、あの子なあ。もうここ辞めちまったよ」
「辞めた」
僕は先生が何を言っているのか理解出来ない頭の悪い子供みたいにして繰り返した。
「じゃあ、いま何をしてるんですか」
「なにもしてやしないよ」修理工は電話の向こうで沈黙した。もしかしたら焼きかけの魚の心配をしているのかもしれなかったし、ベッドの中で裸の女性が彼を待っているのを気にしているのかもしれなかった。「あの子は、街の真ん中にある赤い階段あるだろう、あれを昇っていったよ。この街にはもういないし、戻ってくることもないだろうな」
僕は修理工へなにも返さずに電話を切った。その日、僕の車は二百メートルだけ走った。一つ目の交差点までは走ったけれど、次の信号までは走れなかった。停車した車の中で僕は街の中央にある赤い階段を眺めていた。




