魔法仕掛けのパスカル
僕がこの街へと引っ越してきたとき、すでに街の中央には階段があった。階段は鉄で出来ていて、ところどころ錆があったけれど総じて赤いペンキで塗られていた。それは純粋に赤くて、赤以外のどのような色とも似ていなかった。もしそこに黒だとか青だとか、あらゆる意味での他の色が混ざろうとすれば、毅然として弾き返すような赤だった。階段そのものは、工事現場で見かけることがある、穴があいている薄い鉄の板を踏んで登っていくもので、手すりは気休め程度のものだった。 階段のふもとにはいつも人が見張りをしていた。どうやら階段を勝手に登ってはいけないらしく、階段を登ろうとする人たちはいつも彼に(見張をしているのは身長が二メートル以上ありそうな男だった)手形のような紙切れを見せてから階段へ足を踏み出していった。彼らが階段を登っていくたび街のどこに居ても聴こえる、世界中の子供たちにプレゼントを配るのに疲れてしまった不恰好なサンタが橇の上でダンスするような音が響いた。
「この階段を登っていくと、その先には何があるのですか」
僕はたった一度だけ、まだ街に来て間もないころ、見張人に尋ねてみたことがある。彼には確か名前があったはずだけど、僕は忘れてしまった。
「そうさね、登ってみればわかるよ。登らなくてもわかるかもしれない。どちらでもないんだ。結局のところ、ここに階段があるということと、もし無かったらどうなっていたのだろうなんてことは些細な問題であって、仮に登って何があるのだろうなんて考えたところで、それは考えた人の中にしか答えはありえないのだから、私に尋ねたところで意味もないことだろう」
見張人はいつも階段のふもとで、決して階段を見ることなしにスチールパイプの椅子に座って読書をしていた。僕はこの街に来てから数年の月日が経っているはずなのだけど、見張人が読んでいる本はいつも同じ本だった。より具体的に言えば、ヘミングウェイの『老人と海』を飽きることなく読んでいて、細密に描写するなら『老人と海』の二十三ページを常に開いていた。
「同じ本の、同じページを読んでいて飽きたりしないんですか」
「飽きないね」
どうして、と質問した僕へ見張人は、本を読むという行為をしているだけで、本を読んではいないからさ、と答えてくれた。僕にはなんのことか全く完全に理解することが出来なかった。そんな僕を観察しながら見張人は「くくく」と木に穴を開ける鳥みたいにして笑った。僕も見張人の真似をして笑おうと試みたけれど上手く笑うことが出来なかった。
「笑い方にも鍛錬が必要なのさ」見張人はまた、笑った。
街には僕のお気に入りのパン屋があって、そこでいつも僕はカレーパンを買っている。カレーパンといいながら中に入っている具が日替わりで、昨日なんかは味噌汁の具が入っていた。それでいて調和が取れていてパン生地と一緒に食べてみると不思議とカレーの味がするのだ。僕はこのパンを「魔法のパン」と呼んでいる。
パン屋のレジにはいつも同じ女の子が立っていて、僕は彼女のことが好きだった。彼女は、店が開店する朝の七時から閉店する夜遅くまでレジに立ちっぱなしだった。それほど広くないお店だけど客だってそれなりに来ているわけだし忙しいはずなのに、彼女以外の店員を見かけたことなんてなかった。それに実を言うと、これは秘密なのだけど、お店で売られているパンはすべて彼女が作っているのだ。それこそ生地をこねてパンの形を作って、たとえば「魔法のパン」なら中に入れる具だって彼女が料理しているし、きちんと美味しく焼き上げているのも彼女なのだ。
「朝早くからパンをつくって昼間は店でレジ。君はいつ寝ているんだろう」
「いま寝てるじゃない」
彼女はベッドの中でタオルケットに包まりながら、寝息に織り込んだ模様のようにしてつぶやいた。彼女はさっきまで僕の身体の上で、ちょうど胸の辺りで腕を組んでそこに顔をのせて、暗闇の中で僕の顔のパーツをひとつひとつ確かめるようにうきうきした様子で「ここが目蓋、ここが鼻、それで唇と頬があって、ここは耳でしょう」と言葉にしながら指先でつついていた。僕は少しだけくすぐったかったけど、下から見上げたときの彼女の顔が好きだったから薄目を開けて彼女の仕草をぼんやりと眺めていた。
「ねえ、君は階段を登ったことがある。あの街の真ん中にある赤い階段。僕ははじめて街に来たときから、あの階段だけが理解出来なかった。理解出来ないというのは怖いよね。いったい階段を登っていった先には何があるんだろう。考えれば考えるほど僕は怖くなるんだ。登っていくのは怖いことじゃない。何があるのかわからないまま登っていって、いつまでそれが続くのか知りようもなくて、しかも先が見えないだなんて正気じゃないようなことが怖いんだ」
「わたしは登ったことないし、登った人の話って聞いたことないわ」
「それって赤い階段を登った人は、もう戻って来ないってこと」
「さあ、それはわからない」
彼女はタオルケットで素敵な顔を隠してしまった。彼女はいつも僕のベッドの大半を使って寝てしまうので、僕はいつも端のほうで肩肘を着きながら浅い眠りについていた。
「わからないけど、想像することは出来るのよ。ねえ、想像してみて。どうして階段は赤いの。どうして階段はあんなに薄い鉄板で出来ているの。どうして手すりはいまにも外れそうなくらいに頼りないの。どうして階段には穴が開いているの。どうして、どうして、階段を登った先にいったいなにがあるの」
「わからないことだらけなんだ。僕にはなにもわからないよ」
「駄目よ、想像するのよ。わからなくなったら想像して。そうして先に進むの、そうね、もしそこに階段があったのなら、その階段を登っていくの」
彼女は僕のほうへ擦り寄ってきた。タオルケットに隠れていた素敵で詩的で綺麗な顔があらわになった。ただ、彼女が寄ってきたぶんだけ僕はベッドから押しやられて、そのうちにベッドから落ちてしまった。すると彼女は僕に手を差し伸べてくれた。僕は彼女の手をとらないで部屋の中央に行き、ソファに座って、テーブルの上にあった吸いかけの煙草のひとつに火をつけた。暗かった室内が、煙草の光を中心にして明るくなった。蛍が一匹だけいるよりも明るいけれど、豆電球よりは明るくなかった。
それから一時間くらいすると彼女は「そろそろパンの生地をこねないと開店に間に合わないから」といって僕の部屋を出て行った。今日は「魔法のパン」の具はなに、と訊いたけど教えてくれなかった。彼女は秘密が大好きで、僕は彼女よりも素敵な秘密主義者を僕はふたりしかしらなくて、そのふたりはこの街にはいなかった。ひとりは戦争へ行ったまま帰ってきていないし、もうひとりは僕が前に住んでいた街を破壊しつくした無政府主義者でクラッカで超一流の女性歌手だった。
彼女がいなくなったベッドで僕は昼過ぎまで眠った。
先に進むってなんだろう。
進む必要があるんだろうか。
これはシャワーの水。
少しだけ温かくて、冷たくしようとすると拒絶する。
先ってなんだろう。
彼女は想像したのだろうか。
はたして想像した先にはなにがあったのだろうか。
僕は彼女が想像したものを、どうしても知りたくなった。彼女が想像したものを僕にも想像出来るのかどうか、知りたくなった。だから起きてシャワーを浴びて、それからコップに一杯だけの水を飲んでから服を着て外に出て、そしてパン屋へと足を向けた。相変わらず街の中央には赤い階段があって、どこまで聳えているのかすら見えないくらいに高く、誇らしげに、それでいて不安をかきたてるようにして、赤い階段はそこに、あった。
ほら聞こえた。
あの、音。
誰かが階段を登っているんだ。
想像したのだろうか。
あの階段を登った場所には何があるのか。
彼は、あるいは彼女は。
想像することが出来たのだろうか。
僕には出来るのだろうか。
想像すること、先を思い描くこと。
階段を登ること。
僕がパン屋へたどり着くと、パン屋にはシャッターが降ろされていた。シャッターには七人の小人がテーブルに向かってパンを食べている絵と、パン屋のロゴと、開店と閉店の時間が書かれていて、そこにちょっとペンキが跳ねてしまったようにして小さなメモ用紙が張ってあった。近づいて読んでみると、そこにはただ一言「閉店します」と書かれていた。
彼女はパンをつくるために僕の部屋を出て行ったのではなかったか。それともパンをつくることを、つくっている途中でやめてしまったのだろうか。「魔法のパン」の具を教えてくれなかったのは、今日にかぎって言えば、つくる予定がなかったからなのだろうか。そして彼女はどこへ行ってしまったのだろうか。僕は彼女が住んでいる家を知らなかった。連絡先すら知らなかった。僕には知らないことが多すぎて、それでも生きていけてしまう世界というのはいったいなんなのだろう、と呆れてしまった。シャッターに描かれていた七人の小人のうちのひとりがシャッターの絵から飛び出してくるような気がした。床に降り立って、そしてしばらく腰をかがめたあとに顔をあげて僕を見る。そうして言うんだ。
「わからないのは誰の所為でもなくて、もちろん君の所為でもない」
「じゃあ誰の所為なのかな」
「もともと世界なんてものはわからなく成り立っているんだ」
単純な算数、明瞭過ぎるくらいの足し算と引き算。彼女が居なくなった。パン屋が閉店している。そして僕がここへ来るまでに階段を登っていった人がいる。階段を登った人が街へ戻って、階段の先にあるものはなんなのかという話を聞いたことがある人は、いない。
僕は小人を背にして駆け出した。街の中央に向かって走った。走るのなんて久しぶりだったから途中で休み休みしながらの駆け足だった。
赤い階段のふもとには相変わらず見張人が椅子に座って読書をしていた。でも、よく見ると、何かが違っていた。見張人の読んでいるのは『老人と海』で変わりはないのだけれど、読んでいるページが違っていた。それは二十三ページではなかった。
「パン屋の娘なら、さっき階段を登っていったよ」
見張人は本に視線を落としたままだった。
僕は呼吸が収まるのを待っていた。
「これからもう、あのパンが食べられなくなると思うと、少しだけ淋しいね。だが淋しがってはいけないような気がする。彼女に対する礼儀として、だね」
「……パンは誰かがつくれるでしょう」
「いや、あのカレーパンは彼女にしかつくれないものだった」
「そうですね、ええ、きっと、確かにそうだと思います」
「君は彼女の後を追って、階段を登りたいのだろう、そうなのだろう」
僕は少しだけ考えてから、登りたいと言った。果たしてこの階段を登ることで彼女に会えるという保障は無いのだろう。それでも、僕は彼女の後を追うべきだと確信していた。僕は彼女に置き去りにされたのだ、といった後悔にも似た感情があったからかもしれない。
「でもな、聞くんだ。彼女はこの階段を登るために、それなりの努力をしていたのだよ。彼女はなにをしていた。毎日パンをつくって売って、ほとんど寝る間も惜しんで働いていたじゃないか。君はなにをしていた。彼女が階段を登るために犠牲にしたあらゆることと比較しても遜色がないことを君はしていたのか」
「……それは」二の句が継げなかった。僕はこの街に着てから、いったい何をしていのだろう。「わかりません。おそらく、何もしていなかったのだと思います」
「では駄目だ、君には階段を登っていく資格も彼女を追いかける権利も、いずれも無いのだろう。しかし、そうだな、ひとつ試してみる価値はあるかもしれないな」
見張人は胸元から一枚の用紙を取り出した。それはこの階段を登っていく人たちが、階段に足をかける前に見張人に渡しているのと同じ用紙だった。五センチ四方の用紙の中には、四角い枠があるだけで他には何も書いていなかった。空白は僕の心のようにも観ぜられた。そこには何も無かった。何も無かったのだ。
「ここに、君自身が書くんだ。階段を登った先に何があるのかを」見張人は真剣なまなざしで言った。「君が想像をしてみるんだ。それを書いてみて、もし彼女を追って階段を登る資格があると私が見做したのならば、そのときには階段を登れば良かろう」
僕は見張人から用紙を受け取った。いったい、階段を登った先には何があるというのだろう。いや、何があるべきなのだろう。僕は目を閉じた。そして、さっきまで目の前にあった、いまも目を開けば目の前にある階段を脳裏に思い描いた。階段は上に行くにつれて視界の中で細くなっていった。やがて僕の中に描いた階段は、細さの先端が鋭利なほどとがり、ひとつの点となって空に消えてしまっていた。そこには何もなかった。僕には何も思い描くことも想像することも出来なかった。僕には出来なかったこと、それが彼女には出来たのだろう。彼女は階段の先にある「何か」を思い描くことが出来たのだろう。それは暗闇で僕の顔をなぞるよりも明白で、彼女にとってみれば僕との戯れよりも階段を登るべきだったのだ。そうして二度と僕の前に姿を現すことが無いと知っていても、行くべきだと自らで決したのだ。
「わかりません、僕には何も思い描くことが出来ない。僕にはまだこの階段を登るべき資格、とやらが無いみたいです」僕は見張人に用紙を返した。見張人は用紙を受け取ると、いままで開いていた『老人と海』のページの間に栞のようにして用紙を挟んだ。それから見張人は本を閉じた。見張人が本を閉じることなんて「あってはならない」ことだった。それは世界の終わりを意味していた。君がそう言うのなら、仕方が無い。見張人は「椅子から立ち上がり」そして「階段のふもとから立ち去って」しまった。僕は見張人の後姿を空っぽになった心のままで見送っていた。やがて見張人の姿が街角に消えてしまうと、僕は見張人が座っていたパイプ椅子に座り、見張人が置いていった『老人と海』を手にとって、先ほど僕が返した用紙を見張人が挟んだページを開いた。ページは二十三ページのままで、空白だった用紙はやはり、僕の心がそうであるかのように、空白のままだった。




