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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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初雪フラグメント

 空気よりも雲よりも雨よりも、晴れている日の太陽よりも、少女は初雪が好きだった。少女の名前は小雪といった。小雪は毎年、茹だるような夏が終わり、夏の残り香と秋の冷ややかさが交じり合い、そして木々が赤々と染まってから晩秋に向かう季節になると、雪が降るのを待ちきれないそぞろな気分になったのである。

 小雪が住む一軒家は東京都内にあり、家から少しだけ傾斜のある坂道を登ると面積の広い公園があった。公園には野球グラウンドやテニスコート、バスケットコートなどのスポーツ設備が中心にある。それらを囲むようにして子供達が遊ぶような遊具が設えられている遊び場があり、その一方で梅が植わっている庭園もあった。

 二月も下旬になれば梅の木には花がほころび始め、桃色やクリーム色に染まった花弁を開くのであるが、まだ一月のこの時期には蕾の中で春を待ちわびていた。梅の木々の中にあるベンチで小雪は毎日、三十分だけを過ごす。中学生になったいまでも、学校からの帰り道に公園へ立ち寄り、毎日欠かすことなく空を見上げている。いつか粉のように細やかな雪が空から舞い落ちてくるのではないだろうか、と小雪はそのベンチに座り空を見上げるたびに期待をしていた。しかし今年はまだ初雪が降っていなかった。

 今日も雪は降らなかった。小雪は雲ひとつない空から視線を落としてベンチから立ち上がった。ウォーキングをする為に公園へ向かう近所の主婦たちとすれ違いざまに挨拶を交わして家路に着いた。誰もおかえりなさいと言ってくれない玄関の扉を開けて、靴を脱いでからまずキッチンへ向かう。そして冷蔵庫にマグネットでとめている一週間分の献立を確認する。その日の夕食はロールキャベツだった。まだ母が生きていた頃に教えてもらった数少ない料理のうちのひとつだった。冷蔵庫の中をひととおり見渡して材料が揃っていることに安心すると、二階へあがり自分の部屋へ戻ってから部屋着に着替えた。

 父親は早く帰ってくるという話だったが、往々にして守られる事がない約束だった。確実に二十二時は過ぎるだろうと小雪は思っていた。夕食の支度を後回しにしてリビングのソファに座った。テレビをつけるとちょうど天気予報がやっていたので小雪は急いでチャンネルを変えた。途端に民放のコマーシャルから流れる陽気な音楽が聞こえてきた。それも聞きたくなかった小雪は消音にして、そのまま静かになった部屋の中で目を閉じた。

 はじめは何も聴こえない、文字通りの静寂が小雪を包んでいたように感じていたが、やがてリビングと繋がっているキッチンから冷蔵庫の駆動音が聴こえてきた。家の外で吹く風が窓ガラスに触れる音がした。自分と同じ年頃の学生が幾人か喋りながら家の前を通っていった。さらに耳を澄ませば踏み切りにある遮断機がテンポ良く鳴らしている電子音も遠くから聴こえてくるような気がした。それらから離れたいと欲した小雪は自分の中へ、何も聴こえない世界へと潜ってしまおうとした。それでも、どこか、耳からではない鼓膜を震わせるでもない、自分の心臓が小雪の血の流れを形作る鼓動が聴こえてきた。響くものの無い世界へ行きたかった。

 やがて目蓋を開けた小雪は、自分がどこにいるのか不思議になった。そこは一面の銀世界で、吐く息はすべて白く、そのまま凍り付いてしまいそうになり、腰のあたりまで埋もれてしまっているそれは水気のない小さな粒の雪であり、見上げれば樹氷が整然と列をなして視界の果てまで広がり、振り仰げば山頂まで続いている白が、清冽な青い空と明晰なコントラストをつくっている風景だった。ああ、ここなら、いつだって雪があるんだと小雪は安心した。毎日、空を見上げていなくても、ここにはいつだって雪がある。手を差し伸べれば触れるものは雪だけだったし、雪はどれだけ触れてても溶けてしまうことはないようだった。つかの間の安寧に気持ちが落ち着いた小雪は、そのまま雪の上に身を投げ出して、仰向けになった。触れられるものがいいと願った。期待をして待つのは疲れてしまった。いつだって傍にあって、いつまでも無くならないものこそを、小雪は願っていた。

「でもねえ、ユキちゃん」

 ふと、小雪の母の声が、傍らから聞こえた。母はあの日と同じように、小雪と肩を並べるようにして梅の木に囲まれたベンチに座っていた。

「ユキちゃんは降らないで待ってるときの雪が好きなんでしょう。だって雪が積もっても、雪だるまも作らないしお友達と雪合戦もしないし、雪が積もったらお部屋の中でじいっとしてるじゃない」

 うん、そうだね、と小雪はあの日、心の中で呟いたのだった。だから、こうして雪の中で安穏として満たされてしまっている自分は、違うのだと小雪は思った。触れているよりも、触れたいと願っている自分こそが本当なのだと思った。一ヶ月も経たないうちに小雪の母は病院のベッドの上で静かに息を引き取った。ベッドに横たわり、苦しそうに息をしながら「初雪は降ったの、ユキちゃん」と訊いてきた母に、雪は降ったよと嘘をついた小雪だった。わたし見たの、空から白い雪の結晶が初めておちてくるところを、見たの、と言った小雪へ、溶けてしまいそうな微笑みを向けたまま目を閉じて、小雪の母は二度と目を開けることは無かった。たぶん、空から舞って螺旋を描くようにしておりてくる初雪は、あのときの母の微笑みと同じように、手に触れてしまう瞬間に溶けてしまうことだろう。それでも小雪は、その初雪に触れることができれば、歩き出せる予感がしていた。

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