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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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迷い込んだ、鏡の国

「ちょっと落ち着こうよ。君がそんなことをする必要なんてない」

 彼女の右足と左足と左手には何もなかったけれど、右手には包丁が握られていた。その包丁は自分で料理なんかしない彼女が、僕の部屋で夕食を作るために自分で持ってきたものだ。新しく買ったものなのか、それとも元から彼女の部屋のキッチンに置いてあったものなのかどうか、それは知らなかったし別に知りたいとも思わなかったから訊いたこともなかった。

 彼女が包丁と一緒に俎板を僕の部屋へ持ち込んでから今日まで、一年半の間で台所には調理器具が溢れるようになっていた。持つところが取り外せる鍋だとか軽量カップだとかサイズが違うどのフライパンも塞げる便利な蓋であるとか、そのほか僕が名前も知らないような調理器具ばかりだった。僕がベッドで横になってテレビを見ていると、彼女は夕食を作ってくれる。彼女は料理をしている姿をあまり見せてくれないし、台所へ繋がる扉を開けようとすると「駄目、ちょっと待ってて」と追い出されてしまう僕からしてみれば、彼女が夕食を作ってくれるのは魔法使いが妖精を呼び出すのと同義なのだった。

「必要とか不必要とか、簡単な二択にしないでほしいわ。これはね、必然なのよ。わたしが死にたいから死ぬの。これ以上に具体的な動機なんてないわ。わたしが死ぬこととあなたには本質的な意味において関係がないし、それを止めることは、あなたがわたしの尊厳を犯していることに気が付かなければならないのよ」

 いつもどおり、彼女が台所でふたりの夕食を作って、僕がベッドの上でサバンナで肉食動物が回りにいない事を確認して安心しきっているシマウマみたいに寝転がっていると、彼女が包丁を右手に持っていきなり部屋へ入ってきて、「わたし、自殺するわ」と宣言したのだ。驚くなと窘められても無理だし驚かないつもりもなかった。しばらくして僕の驚きは彼女に対する憤りへと変わった。

「死にたいから、死ぬって言われても、いきなり死にたい、なんてどうして考え出したのか理由がわからないよ」

「わからないの」

「わからない」と言って僕はまるで東北地方の物産展に置いてあるようなこけしみたいに首を振った。

「それが理由よ。あなたはわたしを愛してなんかいない。わたしの事なんてちっとも考えてなんかないわ。いつも仕事だ仕事だ忙しいってわたしに時間を割いてくれないし、来年はもっと広い部屋で二人で住もうとか嘘ついてわたしにプレゼントもしてくれないししてくれても安物だけじゃない」

 僕は自分の心中で彼女の言葉を反芻して、これは怒っても良いのではないかと吟味してみた。そして、どう考えても怒りを抑えることは不必要だし、怒って当然のことなんじゃないかとしか結論付けられなかった。

「それは全部二人の、君のためにしていることじゃないか。今みたいに週に何日かだけこの部屋で一緒に住むよりも君とずっと一緒にいたいから、来年には引っ越そうと計画していて、そのためにお金だって必要だろうし、残業して少しでも将来のためのお金を貯金しようとしているんじゃないか。プレゼントだって、そりゃ高価なものをあげたい気持ちはあるけど、君も納得してくれてたじゃないか。二人で少しずつ貯金していこうって前に話してたじゃないか。僕が君を愛していないなんていことについては論外だね」

 僕は彼女の右手に握られている包丁から視線を逸らさずに怒った。少なくとも、自分の憤りが彼女に伝わるようは表現をしようと努力した。彼女の右手にある包丁は切っ先を彼女の手の延長線上を指し示すようにして床に向けられている。

「違うわ。全然わかってないのね。駄目よ、わたしは将来のことも大切だけど、もっと今を大事にして欲しいの。将来のことが消しゴムの削りかすくらいの大きさだとしたら、今は地球よりも太陽よりも大きいのよ。それくらい今が大事なのよ。一年中、二十四時間、一分も一秒も一瞬も無駄にせずにわたしのためだけに時間を使って欲しいのよ。一秒ごとに愛してるって言ってよ。厭よ、わたし以外のことを考えてる時間なんてあなたには無いの。そんなの許さないし、もし一秒でもわたし以外のこと想像したら、それは愛してるなんて言わないわ」

 僕は絶句した。それは無理な話だ、という当然の感想すら心に浮かばなかった。彼女が何を喋っているのかわからなかった。知らない国の言葉とか、古代文明の象形文字を音読しているようにしか目に映らなかった。

「だから、死ぬのよ。あなたの愛を失ったわたしにはこれから先、生きていくことなんて出来ない。ここで死ぬわ」

「……待って」僕は既に絞りきった雑巾から最後の一滴を零れ落ちさせるために必死になっている家政婦のようにして声を発する。「その、なんていうか、君の言うことはもしかしたら難しいことなのかもしれない。だけど僕は間違いなく君を愛しているし、それに自殺なんてするもんじゃない。そんなことで、いや、君にとってはそんな軽々しいものじゃないんだろうけど、でもとにかく、だからって死ぬなんて馬鹿げてる」

「馬鹿げてる」彼女は出目金みたいに目を見開いて僕を眺めた。それから、まるで五万キロ離れた僕を見るように目を細める。「どうして馬鹿げてるの。それがわたしには理解出来ない。自分の意思で自分の命を絶つことが馬鹿げてるかしら。そんなのって、ないわ。自分の死は人間に与えられた最大の自由よ。親の都合で生まれてしまって社会の都合でしか生きられなくて、いつだって他人に振り回されてるどうしようもなく堕落して不自由な人間の生は、人間が自分の意思で死ぬ自由と等価値であってこその生なのよ。直截的に言うとね、死ぬ時と場所を自分で決められなくちゃ、こんな人生なんて生きてる価値なんて無いんだってことよ」

 僕はひと言も答えることが出来なかった。彼女は間違っている。それだけは確実なのに、僕の脳はガス欠を起こしてしまったように欠片も思考能力が残っていないようだった。そんな僕を尻目にして彼女は包丁を両手で握ると、そのまま身体の正中線の正面をなぞるようにしてまっすぐ上に掲げていった。僕は恭しく掲げられた優勝トロフィーを思い出してしまった。そして、ちょうど彼女の頭上の真上に包丁が辿り着いたころ、彼女は包丁を両手で逆手に持った。さっきまで床へ向かっていた切っ先は、彼女の頭、それこそ脳天と呼ばれるような場所へ向けられていた。

「よく自殺をする人で手首を切る人がいるでしょう。いわゆるリストカットってやつね。わたしから言わせるとね、あんなのって臆病な人のすることだし、第一、不確実極まりないわ。手首切ったからってすぐに死ぬわけじゃないし、ちょっと躊躇ってしまえば死ぬことすら出来ないのに。躊躇い傷って聞いたことあるでしょ、あれって死にたいけど身体は死にたくないって思ってて切るほうの手が言うこと聞かないんじゃないかってわたし思うの。つまりね、自殺って心も身体も死にたい死にたいって望むようにならなくちゃいけないのよ。飛び降りも首吊りもありだけど、自分の意思で飛び降りたって死ぬのは結局地面に叩きつけられるからであってあれって重力のおかげよね。首を吊るのだって自分はただ紐で作った輪に頭を入れて台を蹴飛ばしたりするだけで、結局は重力任せでしょ。潔くないよね。惨めよね。自分で自分の死を決定するんだったら、自分の力で死にたいじゃない。自殺はもっとリファインされるべきだとわたしは思うのよ。身体を傷つけるにしたって中途半端なところじゃ駄目よ。痛くて苦しいだけでちっとも死ねないかもしれないし、最悪なのは身体が動かなくなっただけで脳は生きてて、もうそれからは死ぬことなんて出来ない状態になっちゃうかもしれない。やっぱりね、一番確実なのはこれだと思うのよ」

「これって……なに」

「頭を包丁で刺すの。本当は拳銃とかあると便利だけど、そうそう手に入るものじゃないでしょう。だから今のところのベストな死に方なのよ」

「……君は……狂ってる」

「狂ってなんか、ないわ。わたしからしたら自分の死を生命活動の赴くままにまかせて自由にしようとさえしないあなたの方が狂っているように見えるわ。狂ってる狂ってないなんてあなたとわたしの間にチョークで線を引いただけのものよ。そのどっちが狂ってるかなんて誰も決められない。わたしが狂ってないと言えばあなたが狂ってるっていうことになるわ。たった、それだけのことなのよ」違う違う僕は狂ってないし間違ってるのは君の方だと叫んだ僕へ「いずれ、あなたにもわかる日が来るわ。わたしはあなたを愛してる、愛してないのはあなた。わたしは正常で、狂っているのはあなたよ」と遺言を残して、素敵に、微笑みながら、包丁を、自分の頭へ、衝きたてた。林檎の潰れる音がした。


 彼女が自殺したときの状況が状況だっただけに、僕は警察から詳しく、しつこいくらい事情を訊かれた。いや、実際は訊かれたなんて生温いものじゃなくて、僕を彼女を殺した殺人犯だと決め付けての尋問、あるいは自白強要に近い拷問だった。だけど、ひとつの証拠で全てが覆った。彼女は部屋の片隅に、僕がクローゼットの中にしまっていたはずのビデオカメラを何気なく置いていて、それで一部始終を録画していたのだ。普段は自分の部屋なんて掃除もしない僕が、彼女の死というそれ以上ありえないほどの深刻な理由で掃除をしてはじめて、それに気が付いた。ビデオカメラは僕のものだったけど、いつもと置かれている場所が違うし、僕が取り出したり動かしたりした記憶なんてなかったし、そしてビデオカメラには電源が入ったままだった。ビデオカメラからメモリを取り出してパソコンで再生した僕は、そこに彼女が自殺をするまでの全てが映っているのをぼんやりと眺めていた。なぜ彼女は、まるで僕への置き土産みたいなこんな事をしたのだろう。僕が刑事罰的な窮地に立たされることを見越して、不利な事態に陥らないようにしてくれたのだろうか。それとも自分の死というものを、まるで運動会の撮影に励む親のように記録しておきたかっただけなのだろうか。出来れば前者であって欲しいというのは、僕の我儘だろうか。その映像を見ながら僕は泣くことはしなかったけど、机の上と僕の身体に胃の中にあったものを全て吐いた。吐瀉物にまみれたまま一日を過ごした。

 遺体は彼女の両親が引き取った。彼女の実家は福井県にあった。葬式へ出向いた僕は、両親の目にとまった途端に追い出された。両親の気持ちはわからないでもなかった。多分、両親にとってみれば娘を殺したのは僕なのだ。それから僕は東京へ戻り、七年間勤めた仕事を辞めた。上司から辞職の理由について特に尋ねられなかった。心情を察してくれたのだと感謝した。僕の手元には贅沢をしなければ一年くらい暮らしていける貯金はあった。それから毎日、テレビもラジオも見なかった。インターネットに接続もしなかった。社会から離れたかった。昼も夜も要らなかった。彼女が言うところの死ぬ自由と等価値の苦しみしか与えない世界なんてものから出来るだけ遠ざかっていたかったのだ。出かけるのは一週間に一度だけ食料の買出しに外へ出るくらいなもので、観葉植物かサボテンになったように暮らしていた。実際のところ僕は、そういった植物になってしまいたかったのだ。


 彼女が目の前で自殺をしてから約一年経った四月十四日、一週間後は彼女の命日だった。僕は久しぶりに買い物以外の目的で外出をした。彼女の実家へ行って、両親に頭を下げ謝罪をしてせめて墓参りだけでもさせて貰いたかったのだ。出かける前に彼女の実家へ電話をしたが、両親には墓参りなぞしてくれるなと断られた。しかしとにかく行ってみようと決意した。この一年間、クリーニングにも出していなかった背広を着た。皺も汚れも目立つほどじゃなかった。そうして部屋の外に出てみると、一年前から時間が止まってしまったようで、もしかしたら彼女は死んでなんかいなくて自殺なんかしてなくて、昨日までと変わらない今日なのではないかという錯覚さえ起こったほどだ。

 そんな錯覚に脚を引き摺られながら最寄の駅へ行った。そして東京駅までの切符を買って、改札を通り、それから何気なく売店を視界の片隅に捉えると、そこに僕の意識を捕らえる言葉があったような、少なくない衝撃を覚えた。僕は行きすぎようとした売店へ戻り、束になって刺さっている新聞の見出しに「自殺」という文字を見つけた。しかし見出しは自殺だけではなく、「特定自殺志願……」と続いており、それから下は他の新聞に邪魔をされて確認出来なかった。僕は新聞を買って、ホームの椅子に座りながら電車を五本遣り過ごして、食い入るようにして読んだ。途中までだった見出しは正確には「特定自殺志願者擁護措置及び自殺後の遺体処理に関する法律、今月二十四日にも国民投票か」と書かれていた。特定自殺志願者擁護措置及び自殺後の遺体処理に関する法律。この長い法律の名前は世間で「自殺法」と呼ばれているらしかった。要約すると、自殺をする人に対して何人もそれを阻止してはならない、そして自殺後の遺体処理については行政が責任を持って処理をするから安心して自殺をするように、といった法律案だった。そして、「自殺法」成立の可否を決める国民投票が今月の二十四日、つまり十日後に行われるという内容だった。どうやら僕が社会と縁を切っている間に、とんでもない、それこそ僕が彼女へ叫んだ「狂っている」事態が起こっているらしかった。僕の中で切り取られた一年間でいったい何が起こっていたのか、それはこのときの僕に知る由もなかった。数年前、憲法改正に絡んで成立した国民投票法案もこんな使われ方をされるなんて知る由もなかったことだろう。

 僕は新聞を握り締めたまま彼女の実家へ向かった。両親に聞かなければ彼女が眠る墓地さえ僕にはわからないままだったから、彼女の実家の門を叩いた。しかし電話での応対と同じように取り付く島など皆無で、一言も会話を交わさずに玄関の扉は閉じられたまま、僕の前で開くことは二度と無かった。それでも僕は彼女が生まれた街に、心残りがあるような気持ちがして、それから三日だけ滞留してから東京へ戻った。そして四月二十四日は「自殺法」の投票日だった。


 翌日には全国全ての地域で開票が終了した。投票率が八十パーセントを越えたことは、この法律へ対する国民の関心が高いことを示していると言って良いだろう。結果として、「自殺法」は圧倒的多数の賛成票によって可決された。実をいえば圧倒的多数なんてものではなくて、反対票はたったの一票しかなかった。その一票は僕が投じた反対票だった。僕以外の全ての人間が賛成したのだ。僕以外の全ての人間が、彼女が引いたチョークの線の向こう側へ行ってしまったのだ。「自殺法」は約一ヵ月後に取り急ぎ施行され、僕は「自殺法」が適用された一人目の人間となった。

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