メタボリズムの自画像
今日の僕は、自分が住んでいる地域で最大規模の病院に居る。数えるのに難儀しそうなほどある座席で埋め尽くされている待合室で、自身の名前が呼ばれることを待っている。ただ、受付を済ませて席についてから長い時間待っているというのに、一向に僕の名前は呼ばれる気配が無い。
何か理由でもあるのだろうか。
例えば、担当医が体調不良で欠勤しているだとか、院内施設に不具合があり受診することができないというような。
それにしても、或いはそれにしては時間がかかりすぎだろう。既に十時間は待っているというのに。
「あなたは何時間、ここで待っているのですか?」堪りかねた僕は少なくとも僕よりは長時間、隣の席に座っていた女性に聞いてみた。
「ソウデスネ、かれこれ百二十四時間ぐらいでしょうか」と、答えが返ってきた。僕よりは年配のご婦人だ。
「ずいぶんと長いのですね」僕は、重ねて問いかける。
「アタリマエデショウ。あなたとは、違いますよ」と、なんだかはぐらかされた感じの返答だ。
彼女と今一つかみ合わない会話をしているうちに、受診に備え室内に入る事ができる人の名前がアナウンスされた。拡声器で機械的になった看護師の声が呼んだ幾人かの中に、僕が話しかけた女性の名前もあったらしい。
己が名前を呼ばれた瞬間の彼女は、待ちに待ったこのときに喜びを隠せない、といった感じだ。なんだか、そわそわした様子で立ち上がった。
「おめでとうございます」僕は、彼女へ言葉をかけた。
「アリガトウ」彼女は至福の表情で、僕に答えた。
彼女を含めた数名は、カーテンで外界と隔離された部屋へ一列に並んで入っていく。
とてもウラヤマシイと、僕は思った。
彼女はこれから、待ち焦がれた死を迎える事ができるのだから。
人間が死ぬことが極めて難しい事柄になってから、もう半世紀は経っただろうか。過分なまでに行き届いた予防のため病気にはかからない、仮に発病したとしても薬物で速やかに回復してしまう。事故での怪我もある程度の人体機械化を受け入れるようになってからは、即死でなければ、すぐに社会復帰できる程に回復させてしまう。自ら死を試みようにも兆候が僅かでも現れれば連行の後に治療という名目で施設に収容、出てくることには自殺のことなど脳内から消えている。寿命ですら、早々に死ぬことができない。
死はコントロールできるようになってしまった。
原則として人間はあらゆる手段で生き続けなければならなくなった。
ではどのように人は死を迎えるのか。
生かすのが医者であれば、生かさないことも医者となった。
医者は病気を治療するのではなく、穏やかに人間を殺すことができる職業になった。
死を希望するためにはまず気が滅入るほどの書類を準備し、その後にお役所仕事の受付に申請しては何度も突き返され、挙句に申請は受け付けられたとしても、申請が審査で認められなければならない。現時点での審査の通過率は三割を切っていたはずだ。
そしてどこの病院でも待合室は、審査を通過した死を迎えたい人々で溢れている。
嗚呼、彼女がウラヤマシイ。
僕も早く死にたいんだ。
彼女は百八十三歳だと言っていた。僕はまだ、百十八歳だ。
僕が呼ばれたのは、それから六十二時間後だった。




