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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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タワゴトハイブロウ

 たとえば、仮に、などと勿体ぶった前置詞を付けるのが私の悪い癖ではあるのだが、そこはご容赦頂くとして、それこそ、よし人が決して体験出来ない事象がこの世にあるとすれば何が挙げられるだろうか。たとえば空を飛ぶことなどはどうだろうか。否、これとて現代では決して不可能なことでは無いのである。飛行機なるもので日本国内は数時間で行けぬ土地は無くなってしまったのだし、海外各国へ行こうとも遮るものなどは物理的には無いであろう。ただし、これは空を飛んでいるというよりも移動をしているのだとすれば、スカイダイビングなどは如何だろうか。私などは寸分たりとも体験したいとも思わぬ所業ではあるものの、人間が直に大気に触れつつ空を舞っている、という事実から目を背けるほど卑怯な人間では、私は無いつもりである。否、否、ならば人間が鳥のように翼をはためかせながら空を己が意思のままに飛ぶことが体験出来るのであろうかという疑念を抱く人がいるのは、私も思い及ばぬところではない。そこで人が決して体験出来ない事象、という仮定に恐縮であるがもう一つのイフを条件として付け加えてみたい。それは、人が一生のうちで必ず体験しなくてはならぬ事象であって、人が決して体験出来ない事象がこの世にあるとすれば、なにが挙げられるだろうか。如何だろう。なにやら禅問答めいてきたように感ぜられるが、極めて単純にして明快な事象である。これは私が倒壊しているのでもなく、私が落魄してしまったしまった路傍の修行僧だというのでもない。誰でも少し思惟を働かせたならば、答えに気づくものである。そう、そろそろお気づきの方もいらっしゃると存じ上げるが、まさにこれ、人間の死、という事象なのだ。

 あるところに幸せな夫婦が存在したとしよう。この幸せなる形容は、嘘でも偽りでも虚言でもなく、心底満ち足りていて余すところ無く不足するところなく、まさに幸せの言葉そのままであると定義してみよう。この夫婦がいつかは必ず自分たちの意思とは関わり無く、それは一方の死という関係性の剥奪によって別れてしまうことが真であると同じように、それ以上に確実に息吹いているのが人間の死なる事象なのである。人は皆、死を体験せずに人生を全うすることなど出来るはずもなく、さらに云えば死をもってしてはじめてひとりの人間が生きたと云えるのであって、死のない人生などはまだ書きかけの長編小説のようなもので甚だ完成には程遠く、長編小説なら長編小、くらいなもので学術論文ならば学術論、程度にしか評価されるものではないだろう。つまり不完全であり、画竜点睛を欠いたものであり、形にならぬものに対して人生などと呼称するのは時期尚早の最たるものであって、死を以って完結するのが人生でるならば、それを自ら体験してみたいと希望せぬものは居らぬはずである。

 さて、果たして、そうして鑑みると死というものを定義するならば、不断ならば全ての終わりとでも云うべきものなのであろうけれども、ここではやはり終わってしまっては何事にもならぬのであって、それを如何様にかして体験することによって、自らの人生というものを完結を持ってして体験してみるのは如何なる方法をもってすれば良いのかという方向へ話しの舳先を持っていくことをよしとしてみたい。云うならば死の疑似体験とでも名を冠すれば良いか、それとも死のみを体験するだけでなく己が人生を完結させる死をもってして母の胎内から始まる生命活動としての一環の環を閉じるその過程を眺め遣ろうと愚考を企てるとするならば、芳しくない結果に終わる危惧さえ抱かずにはおられないのであって、よしここで死をもって綴じる人生の連環なるものを提示してみせたとしたら宗教家の、否、宗教の始祖として私は名を残すべき人物になってしまう恐れさえ否めないのであるからして、であるならば、まず初期段階としての死を疑似体験する方法から論じてみたとしても些かの良心に対する疚しさは残ったとしても我が同胞たる人類に対しての不遜なる言動を慎しまんとする私の面持ちを忖度して頂けるとすれば尊んで頂けるのならば、ここで何事かを論じていたとしてもそれは過分に過ぎずおこがましいものでは無くなるのではないかと一縷の希望を抱いて我ここに立たんとするものなのであった。ところで、死の疑似体験なれど実際に死に瀕するわけではないのであるからして、苦痛を伴うなどの云わば死に近しくなる行動をとって後に得られる死の疑似体験はここでは除外すべきものであろうとしたい。あくまで自然な生命活動の中で、不図、それこそ気付くか否やの微小な感覚でのみもって体験することの可能な死の疑似体験とは如何なるものであろうか。ここに僭越ながら私の体験談なるものを提示して、諸兄等における考察の一助となることが果たされるのならば私の胴体の左上部やや中心よりで血液を体内に循環させている心臓なる臓器とそれに付随する細胞活動も強ち無駄なものではなかったと安堵する次第である。牽強付会ではなく、これは真実、私の体験談なのであるが、仮に私が前日の労働による疲れによって深夜、音を立てるとすればこんこんと眠りに陥っていたものとする。その眠りは深く、夢を見るものですらない、科学的に用語があったはずなのだが不勉強にしてこの場で披瀝出来ないのが無念ではあるが、その云わば人類未踏の深海に潜り込むようにして私が眠っていた、としようではないか。その眠りから、はた、と目を覚ます。これは何故だか判らないものであって、たとえば扉の軋む音であったのか上階に住まう学生が深夜の勉学に励むあまり空腹になって席を立ち炊飯器の中にあるはずの御飯の残りを口にすべく立ち上がった時に立てた床の軋む音であったのか不明なことは変わりようが無いのであるが、兎にも角にも私が覚醒してしまったとしよう。そこで奇怪な夢を見ていたりすれば、それを忘れぬうちに手帳へ書き留めておくなりすることで、己が眠っていたことの証明にもなりそうなものであるが、夢も見得なかった私にとってすれば、目が覚めるまでの私というのは無いのである。つまるところ、私が私たるべきであった世界というのは私が布団に入り眠りに陥った時点で一度終わっているのである。これを、死と仮定することによって、死の疑似体験が可能になる。しかし、これが日中、私が完全に目を覚まし活動的になっているときに思考と巡らせたとしても疑似体験は叶わぬものなのである。あくまで覚醒した直後、睡眠時に見ていた夢を書き取るべきその時間に「はて、いま仮に私が死んでしまったとしたならば布団に入ってから今までの私のように何も無い、終わってしまった状態になってしまうのだ。いま見ている部屋の風景も、部屋の埃臭い空気を感じてしまう舌先も、丑三つの静寂が耳鳴りを鳴らしている聴覚も、全てが全て、無に帰してしまうのだ」と考えたときの、あの、原始的な恐怖を見よ。これこそが死の疑似体験ではなかろうかと私は愚考して止まぬものなのであった。やはり人間なる脆弱な生き物にして、何かしらを擬似的に経験してみたいと望むのであれば、それを身近において想像してみるよりは他なかろうという至極真っ当で面白みも無い事実がここにはあるのである。そして、人生などは、それ自体を切り取ってしまえば面白味もないものなのであるからして結論は当然であって、もし仮に死によって綴じられる連環という名の人生があり、人生を面白味のあるものにしたいのならば斯様に壮大な方法などは私如き小人には理解しえぬものなのであろう。

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