時の声に耳を澄ませる
神奈川県にある小湊結衣の実家には、東京都内に住んでいる結衣のアパートから電車の路線をひとつ乗り換えるだけだった。時間にすれば一時間強、これくらいの時間で通勤している人がいることを考えれば、足が遠のく理由にすらならないだろう。
電話がかかってきたのは先週のこと。大学を卒業してから一人暮らしを始めた結衣の部屋には固定電話が置かれていない。
「最近の若い子は、携帯電話ばかり使って」
と結衣に愚痴をもらしたのは母だったか、言葉通り結衣は電話といえば携帯電話しか持っていない。その携帯電話へ母が電話をかけて伝えてきたのは、十二月十五日には実家へ帰って来いという話だった。仕事を始めて一年目の結衣にとってみれば、初めて経験する社会人としての師走であり、実家に帰っている暇などはなかった。どうせ正月には帰るのだからと抗弁してみたものの、母は取り合ってくれなかった。
ため息と一緒に降り立った実家にほど近い駅は、ここ数年の都市開発の影響で、結衣が子供だった頃の面影を見出す方が難しい。階段を降りて駅舎から出た結衣は、十二月らしい寒風に吹かれてマフラーに顔をうずめた。実家までは歩いて行けない距離ではないが、結衣はマフラーに埋まった顔をそのままにしてバスターミナルへ向かう。
バスは生憎と満席だった。仕方がなく吊革につかまったまま揺られること十分で結衣はバスを降りた。バス停の前には四年前に出来た郊外型の大型スーパーがある。スーパーとバス停がある一角の間を抜ける道を進みながら、結衣は休み明けに待っている仕事の問題に頭を悩ませていた。
どうしても年内に納品しなければいけない商品があった。こんなところで、のんびりとしている事自体に結衣は後ろめたさを覚える。スケジュールの遣り繰りを試行錯誤しているうちに、実家の前を通り過ぎそうになった。
古びた二階建ての一軒家、特徴を挙げろという方が難しいほどだ。大学卒業まで結衣が住んでいた家の玄関にはクリスマスの飾りがしてあった。去年まで飾り付けをしているところなど見たこともなかった。
「恥ずかしいよ、あれ」
言いながら結衣は玄関へ入った。音を聞きつけたのかリビングから小刻みな足音をたてて母が出てくる。
「あれって何」
「外の、クリスマスの飾り」
「岩本さんとかは綺麗だって言ってくれたけど」
「お世辞だよ」
「夜になったら電球が光るんだから」
「うっわ、最低」
ご近所の岩本さんも、どうせなら焚き付けるような事は言わないで欲しかった、と結衣は少し恨んだ。マフラーを外し、コートを脱いで、「寒い寒い」と言いながら結衣は炬燵にもぐり込んだ。
「お父さんは」
「買い物、健司はバイト」
「受験生でバイトなんかして、どうすんの」
弟の健司は今年高校三年生で、確か年が明ければ受験シーズンに突入するはずだ。そんな時期にバイトをする弟も信じられないが、バイトをすることを許してしまう両親にも同時に呆れた。昔から子供に干渉しない親だったが、それは我が子の思いを踏みにじるまいとする配慮ではなかったか、といまになって結衣は振り返ることがある。
「オートバイが欲しいんだって」
「ばっかみたい」
珈琲を置いて台所へ戻っていった母の背中を見ながら、結衣は炬燵に入ったままカップを両手で挟むようにして暖める。「ねえ、少し痩せたんじゃない」と言った結衣に、母は笑い声で答えただけだった。珈琲をひと口だけ飲んだ結衣は、また炬燵の中へ両手を入れる。炬燵は先ほどまで母が入っていたのか、既に十分過ぎるほど温まっていた。ちょうど結衣の正面に見えるテレビは前に来た時まではブラウン管テレビだったが、それが薄型の大型液晶テレビになっていた。
「いつ変えたの、テレビ」
「お父さんそういうの好きでしょ、弄ってて面白いみたいよ」
「ばっかみたい」
昔からオーディオや電子機器関係には凝り性がある父だった。最近ではパソコンを買ったと自慢したはいいが、結衣にあれこれと質問をしてくるのが億劫でもあった。どうやら会社でパソコンを使って仕事をしているという事だけで、結衣はパソコンの知識が豊富であると誤解をしたらしい。
「ほらほら、暖まったら、お線香あげて」
「……お線香」
「奈緒ちゃんの命日でしょ」
言われてはじめて、母が自分を呼んだ理由に結衣は思い至った。
奈緒は結衣と健司の妹だった。ただ、未だに結衣は自分に妹がいたという実感が無い。奈緒が生まれたのは結衣がまだ幼稚園の頃の事であり、そして生後二週間でこの世を去ることになってしまった幼い命の意味の判別などがつく年齢ではなかった。
「ああ、そっか、うん、わかった」
結衣はひとりごちながら炬燵から出て仏壇の前に立った。仏壇は洋服箪笥の上に置かれていて、ちょうど結衣の目線を心持上げた場所に据えられている。細かい砂が盛られている御椀のようなものの名前を結衣は知らなかったが、そこには既に燃え尽きている線香が二本刺さっていた。
(どうして忘れちゃってたのかな)
線香に火を灯し、片手で煽りながら内心で呟いた結衣は、炎が消えて先端から煙をたゆたわせている線香を、刺さっている二本の間に差した。そして鈴を鳴らし、目を閉じて、手を合わせる。十五秒ほどそのままの姿勢でいた。目を開けてから顧みると母が結衣を見ていた。母に驚いて、結衣は思い出す。次第に大きくなっていった母の腹部に驚いていた自分と弟を、ある夜に慌てた父と苦しそうな母が病院へ行ったまま帰ってこなかった不安な夜を、帰ってきた母が抱えていたまるで人形のような可愛い奈緒を、母が奈緒に授乳している後姿を、そして父が結衣と健司に部屋から出てくるなと言い付けたこと、こっそりと覗いた部屋では母と父が深刻そうな雰囲気で話し合っていたことを。
自分にとって忘れてしまいがちな妹という存在であっても、母や父にはいまでも結衣と同じ「娘」という存在なのではなかったか。奈緒のことが頭から抜け落ちてしまっていた自分、それ自体に罪悪感を感じた結衣は母に謝ろうとして、止めた。
「クリスマスの飾り、絶対に来年はしないでよね」
言った結衣に困ったような顔でため息をついた母は、扉が開かれる音を耳にして「お父さん帰ってきた」と口にしながら玄関へ向かった。それを見届けた結衣は再び炬燵の温もりに包まれた。父と母と結衣と健司、四人で入るには大きすぎる炬燵だと結衣は思っていた。それが誤解だったことに十数年越しで気が付いた結衣は、そのまま横になって肩口まで炬燵布団に包まった。




