ロマネスク
恐怖を現実化した存在だ、と勇者ミュラーは思った。実際は思ったというよりも、彼の身体全体が恐怖を感じ取ったといったほうが良いだろう。右隣にいるシャンハッテンの王子ベラヒアも、細身の剣を構えている両の手が小刻みに震えている。彼等二人の背後で援護の呪文を唱え始めたサンロイヤルの王女サラは、凍りついた口元のせいで詠唱がとまることになってしまった。
通称、大魔王と呼ばれている巨大な生き物――それが動物と呼ぶに相応しいのかどうかは大いに疑問を呈しても良いだろう――は、人間が作り上げた古城の玉座を我が巣としていた。そこにあるのは、モンスターと人々から恐れられた、極めて凶暴性の高い動物達の一群を率いる頭脳を持っているはずの、そしてモンスターたちを打ち破り続けた勇者たちが目指してきた最後の標的である敵であった。
天井に届かんばかりの巨体は針金のような灰色の剛毛に覆われて、短い前足を床につけた姿勢で前傾をしている。大きく裂けた口元からはこれから燃え盛るであろう煉獄を連想させる舌が現れては、消える。頭部からは二本の鋭利な角が、骨の白さと硬さを物語っている。強靭な、前足の数倍はあろうかという後足の間からは、雄々しい尾が絶えずゆれており、そのたびに砂煙が大魔王の周囲から立ち上っていた。
人々の期待と希望を一身に受けて、この化物を討伐する旅に出て一年、勇者ミュラーは古の古城に巣食うモンスター達に対して殺戮の限りを尽くし、辿り着いた玉座に大魔王は居た。そして、彼等が大魔王に対して剣を向けた、その刹那。それまで眠りについていた大魔王は覚醒し、咆哮し、そして彼等を同族を殺してきた敵と認めたのだ。言葉は無かった、後世に歴史に記されることになる大魔王と勇者の、善と悪に対する問答などは起こりようも無く、そこにあったのは人間と動物との対峙、それだけであった。
この巨大な人間に対する悪に対して如何様にすべきか、シャンハッテンの王子へ思案を求める眼差しを向けようと勇者が振り向きかけたとき、勇者の視界の片隅で緑色の「何か」が唸りを上げて動き、渦巻く旋風とも思える風圧を受けた勇者は、一瞬ではあるが眼を瞑ってしまった。勇者は眼を開けるべきではなかっただろう。彼が眼を開けてシャンハッテンの王子を見たときには、既に彼の頭部は下顎から上が無くなっており、まだそれと自覚できない身体は何事かを訴えようとして、奇妙に下顎から生えたように見える舌を小刻みに震えさせていた。大魔王の尾によって失われた頭部は、玉座のある広大な部屋の遥か後方の壁に、砕かれた果実のようにこびりついていた。
シャンハッテンの王子だった身体が、失われたものに漸く気付いて膝が折れ倒れそうになると、やっと現実を認識したサンロイヤルの王女が、その認識した現実を拒絶する悲鳴を上げる。シャンハッテンの王子だったものが倒れていく様をただ眺めていた勇者は、自分の頭上に巨大な大魔王の頭部が近づいてくることに、迂闊にも気付かなかった。そして気付かないままに、女性特有の金切り声をもう一度聞いた勇者は、その声が急にくぐもったものに変わってから、周囲を見ることに頭が働き始めた。そしてまた、それは遅きに逸した。後ろを振り返ると、脛の下部から上がすっかりなくなったサンロイヤルの王女サラと思われる足が、この場に相応しくない飾りのように、黙然と置かれているだけであった。そして、果てたように声のしなくなった方角を見ると、足だけの置物から上の部分が、大魔王の口から生えていた。その生えている二本の棒に見えるものは、時折痙攣をしていたが、大魔王が牙の揃った口を開けると、その棒の先には咀嚼されたサンロイヤルの王女が、ミンチになって大魔王の唾液と塗れており、これから大魔王の胃で消化をされるのに適した肉の塊となっていた。もう一度大魔王が口を閉じると、口からはみ出していた二本の足もすっかり口中に納まり、大魔王はさらに二三度屈強な顎を上下させて王女を噛み砕くと、頃合を見て嚥下した。
勇者は逃げるべきであった。しかし彼は逃げなかった、それは大魔王を倒さねばならないという使命感ではなく、仲間の敵をとらなければならないという気概でもなく、勇者としての勇ましさですらなく、ただ恐怖により足が竦み腰が抜けて、古城の冷たい床に座り込んでしまっただけだったのだ、勇者にはもう逃げることさえ考えることが出来なかった、ただ大魔王と呼ばれるこの巨大な生物に殺されるのを、泣きながら待っているだけだった。
ここに至って、勇者の脳裏には恨みと後悔の感情しか描かれていなかった。自分を勇者と持ち上げて、この困難な旅に向かわせた無知で愚かな民衆達、自分達が苦労することなく、自分達が望む平和を手しようなど呆れ果てた性根に今の勇者には思えた。そして、褒め称えられることに心地よさを感じ、易々とおだてにのってしまた自分の浅はかさは悔やんでも悔やみきれるものではなかった。普段は温和で機知に富み、そして何より優しさに溢れていた勇者は、それほど長い時間を彼に似合わない恨みと後悔の念に苛まれることは、幸いにも避けることが出来た。勇者が我を失い咽び泣いている間に、サンロイヤルの王女に続いてシャンハッテンの王子の遺体をも食事し終えた大魔王は、既に飽食したのか、勇者を巨大な後ろ足で踏み潰し蛙の轢死体のように無様な床の飾りとしてから、全てに興味を失ったように玉座へ戻り、再び永い眠りについた。礫死体となった勇者は三四日で干からびて、それから烏たちの餌となった。




