僕らの背中には何かしら積もったものがある
「こうさあ、月に一回くらいの間隔で……」
躰の前に両手をすうっと差し出した美月は、それから胸にサッカーボールくらいあるマシュマロを抱きかかえるような恰好をして「あたしの周りの人のことが愛おしくなるときって、あるんだよね」と言う。口元には半分くらいの短さになった煙草を咥えたままである。その所為で若干、言葉が聴き取りづらい。歩鳥は耳を傾けるようにして半身を美月に向けたままだった。
「月に、一回だけ?」
「そうなの。たまあに。世界中が真っ白になったみたいで、ああ、もうみんな幸せになって、って。ラブアンドピースのハイパークライマックスなくらい」
「はあ、アルコールで脳が漂泊されちゃったんじゃないですか」
歩鳥が言い終わらないうちに美月が手元にあったクッションを投げつける。上半身だけで飛んできたクッションを避けてから立ち上がって歩鳥はキッチンへ向かった。キッチンと言っても、大学生一人暮らしのワンルームに毛の生えたような部屋で、台所と呼んだほうが相応しい。実家の両親から毎月送られる仕送りはありがたいことではあるものの、予想外に高かった東京の家賃は切実に歩鳥の家計を圧迫していたが、それはまた別の話である。
「あたし、ビールがいいな」
「胡椒切れてる」
「社会思想史、今日の授業とかもう、わけわかんないの。あれでレポート書けってのが既に馬鹿にしてるって」
「今日はちゃんと自分の部屋に帰ってくださいよお」
「いつもちゃんと帰ってるじゃないか」
「今朝、うちで朝ごはん食べてから大学へ行ったのは、誰でしたっけ?」
冷蔵庫から取り出した「のどごし生」を機嫌の悪い三日月みたいな放物線を描かせて歩鳥は美月へ投げた。危なげな手つきで受け取った美月は「誰て、ほら、アンジェラアキとかそこらへんじゃないの?」と言い捨ててプルタブをあげた。空気の抜ける音が狭い部屋に響く。
「うわ、発泡酒どころかその他雑酒じゃないか。わたしゃビールが飲みたい」
「貧乏学生に贅沢言わないでください、この眼鏡」
文句を呟きながらそれでも缶をぐいと傾けた美月は、一息でかなりの量を飲み干してしまった。そして、新橋高架下で飲んだくれているサラリーマンもかくやという例の息を漏らす。とてもではないが男に見せられる姿ではない、という自覚は常に持っているらしいが、じゃあ男がいなければいいじゃないかと美月はいつも開き直っている。
缶を片手にした歩鳥はローテーブルを挟んで美月の前に座る。当然、向き合ってるわけではなく、二人の視線はテレビの画面に向けられていた。大学へ入学してから東京に出てきた歩鳥の部屋の中で一番高い家電製品である十三インチの液晶テレビには、学力の低さを売りにしている芸能人とそれを茶化している司会の男が映っていた。
「あたしはさあ、後輩の女の部屋でお酒飲みながらこんな馬鹿な番組みて煙草吸って、ぐだぐだした学生生活をおくるだなんて考えてもみなかったわ」
「全部、いますぐやめられるんじゃないですか?」
「馬鹿だなあ、馬鹿馬鹿」美月は灰皿に煙草をこすり付けて消した。歩鳥は煙草を吸わない。だからこの灰皿は美月が持参したものである。既にもとの色が何色だったかすらわからないくらい変色しており、ついでに言えばいつも吸殻を捨てているのは歩鳥である。「馬鹿すぎて涙を通り越して血涙が出るわ。どうしようもない日常ってのは、自発的になんてやめられない変えられないから日常って言うんだよ」
「そんなもんですかねえ?」
不服そうに歩鳥は缶を傾けた。それからしばらくの間、二人は会話をしなかった。テレビの音量はそれほど大きくしていなかったが、坂の中ほどに整列されたレゴブロックみたいにして存在している住宅地の中では窓外から喧騒が入ってくることも無いために、空々しい笑い声は二人の耳朶へよく響く。
美月は煙草に火を点けてすぐに消した。それを、五分間で三回した。
眉根を寄せてそれを見ていた歩鳥は、空になった自分と美月の分の缶を持って、台所で中を水で洗い流してから缶ゴミのビニール袋へ入れた。部屋へ戻ると、美月が、もともと狭い六畳間の真ん中に、ローテーブルをどかして大の字になって寝転がっている。
「なに、してるんですか?」
「見てわかんないの?」
わかるわけないじゃないですか、と歩鳥は部屋の中の美月に占領されていないスペースに腰を降ろした。時計の針は別に願われなくても動く。テレビの番組は請われようが嫌われようがタイムスケジュールに縛られる。夜というのがもし具体的存在としてあるならば夜は歳を重ねるのを躊躇しない。もしかしたら、夜は老人から始まりやがて新しく生まれたままの朝になるのかもしれない。
「うんよし」勢い良く躰を起こした美月は、片手を斜めにあげて、宣言をする。「これから多摩テックの観覧車に、登ろう」
二人は軽く上着を羽織った格好のままで部屋を出た。坂を下って左へ曲がる。多摩動物公園駅の裏手を通ってからモノレールの下を誠実になぞって走る道路に出る。美月は途中で、動物園の前にある象の石像へ中指を立てて喧嘩を売る。歩鳥は象が嫌いだった。どうしてあんなに大きいのか、まだ子供のころに不合理なものを感じたからだった。
道路脇の歩道を歩き、左に曲がると二人が通う大学の正門があるT字路を曲がらずに真っ直ぐ進む。しばらくして脇道へ入った。美月はかつて多摩テックで案内員をしていたことがあり、園内へ入る秘密の(というほどのことでもないが)入り口を何箇所か熟知している。そのうちの一箇所から二人は園内に入った。
「たまてーっくたまてーっくって、あのコマーシャル、恥ずかしいよねえ」
「あは、それさいてー」
深夜の無人の遊園地は、誰も居ない図書館よりも暗渠としていて、寝静まった博物館さえも煩く感じられ、かくれんぼで最後まで見つからずに友達に帰られてしまうよりも哀しい。それは比較とすべき状態がどのようなものなのか、ではなく、語感としてのそれといったほうが、より正確だろうか。それとももともと正確な言葉で表現することが出来ないから、人は自分の胸の中に抱えてしまいがちなもの、とでも呼ぶべきだろうか。
静まり返った園内を二人は歩く。無言で、肩が触れ合うくらいに寄り添う。落とす影もなく、あったとしても闇と同化してしまっていた。その、暗闇の中に佇立している観覧車は、歩鳥にはいつかの怪獣映画でた不恰好なロボット怪獣のように見えた。美月が先に柵を跨いで中に入る。それから後に続いた歩鳥を手で支える。観覧車の無骨で出刃包丁みたいな鉄骨が目に迫るくらいの真下。
歩鳥と美月は、あらかじめ打ち合わせをしたかリハーサルでもしていたかのよう黙々と何も会話を交わさずに、それぞれ手が届くところにある鉄のパイプなり板を手で掴んで、観覧車を上がろうとする。それでも、三十分かけて二人が上れたのは、観覧車の底部から角度を測れば四十五度の半分にも満たないところだった。
美月は登った場所から観覧車の先端へ向けて歩き出す。歩き出すというよりもところどころしがみつき、たまに這い蹲りながら目指す。やがて先端に近づいたころ。美月は鉄骨の上に立った。見える景色といえば、もっと高くまで上がれば丘の向こうにある街の灯りが見えたはずだが、いま彼女がいる場所からは目の前の林を形成する木々を、やや上から眺めた景色にすぎない。美月は登山者が山頂でそうするかのように、口元を両手で包み、叫ぶ。似ているのは恰好だけで内容はまったく別の代物だが。
「ばーか! いまに見てろよこのやろー!」
後ろでは歩鳥が「なに叫んでるんですか先輩。恥ずかしいっていうか見つかりますよ」と愚痴をこぼしていた。美月は彼女を振り返り「世界への決別宣言」と言い、微笑む。




