タップ・トラップ・ダンス
「ねえ、誘拐犯さん」
そう言って彼女は、車の助手席で体を丸めて、ひざを抱えた。ひざの上に乗せた顔にはまだ幼さが残っている。
「あのさ、わたしを誘拐してもね、得する事なんて何もないよ」
「少し黙っててくれないか」
「だってさあ、家なんて貧乏この上ないし、それに、わたしが居なくなった事に誰が気づくかな。一週間くらい家を黙って空けるなんてしょっちゅうなのよね、わたし」
「そいつは、いけないな。親は心配しないのか」
私が言うと彼女は、猫を思わせる姿勢で体を丸めたまま揺らす。しばらくすると、大きな声で笑い始めた。
「おっかしいのっ」
「何がおかしい」
「で、で、これからどうするの」
「君に言う必要は、無いね」
「あ、分かった、何も考えてないんでしょう」
私を指差して、おどけた表情をしている彼女を一瞥すると、胸のポケットから煙草を取り出して火を点けた。暗くなった室内に一筋の光明、というにはあまりにもはかない灯がともった。
いまだにハンドル式のウインドウを、七分ほど開ける。
確かに、彼女の言うとおりだった。
下校途中の一人になった彼女を車に連れ込み、海岸沿いにある人気のない公園まで来たものの、さてこれからどうしたものかと思案している最中だったのだ。
もともと、人を誘拐した事などないし、身近にそんな奴もいない。
別に金銭的に不自由をしていたわけでもないし、彼女を誘拐する事で誰かを脅す目的でもなかった。
ただ、なんとなく。
ドライブの途中で車を止め、そして煙草を燻らしながら休憩していたときに、道路の前方から歩いてきた彼女を見て、ふと、
(誘拐してみよう)
と、思っただけのこと。金銭の要求とか、脅迫とか、そんな不純なものは無かった。ただ純粋に彼女を誘拐したかったのだ。
純粋な誘拐。なかなか良い言葉だ。
窓から入ってくる風は、生暖かかった。多少潮の香りがするのは、海の近くだからだろうか。
それとも、海が見える場所での錯覚か。
私はダッシュボードにあった携帯電話をとりだす。
「うん、やっぱり家に電話するのよね。それでこそ誘拐犯よ」
「君の家に」
「ばっかみたい、当たり前じゃないの」
「しかし、電話をする用件がない」
「はあ」
「用件が無ければ、電話をしても無駄だ」
「それでは、あなたは今、何をしていらっしゃるのですか、よろしければお教えいただけますか」
「天気予報」
彼女は、眼を一杯に見開いて、両手で口を覆っている。
何のジェスチャだろうか。否、口をふさいで、眼球だけで意思を伝える訓練でもしているに違いない。
しばらくそのままだった彼女は、急に私に背をけたかと思うと、私の反対側を向いたまま小刻みに肩を震わせはじめた。
「どうした、泣いているのか」
「あなたねえ」
「言ってみなさい。何か理由があるなら、解決する手段を模索してみよう」
「もうだめっ」
彼女はそう言うと、両足を大きく上下させながら笑った。なにが、楽しかったのだろうか。彼女に聞いてみようと思ったが、また同じ結果になると推測してその質問は取りやめた。
よく笑う女性だ。私の今までの人生の中で、これほどまでに笑う女性に出会った経験は無かった。きっと、今まで出会った女性と彼女とでは、脳における思考回路が違っているのだろう。
「あぁ、おかしいっ」
「そうか」
「うん、あなた最高」
「何が」
「いろいろ」
「いろいろ、とは」
「そう、いろいろ。女性の心は複雑なのよね」
「なるほど、それならば理解はできないが検討の余地はある」
「永遠に検討してなさい」
彼女はそう言って、私に微笑んだ。
絵になる、という表現が正しいかは解らない。
そういった彼女の微笑だった。
私の腕時計が二十二時を、知らせる。いつもならば、もう家に帰り食事や入浴を終え、就寝の為の準備をしているような時間だ。
誘拐はした。純粋に彼女を誘拐したかっただけの事なのだから、目的は達成したといえる。
私は車のエンジンをかけて、ギアを入れた。
「どこかに移動するの」
「そうだ、君に道案内をしてもらいたいな」
「あなたの行こうとしてる所なんて、私知らないわ」
「大丈夫、近くまで行けば君のほうが詳しいはずだ」
「それどこ」
「君の家」
「えっ、もう終わり、帰るの」
「そうだ、夜も遅い。僕と君がこれ以上一緒に居る理由が無い」
そう私が言ったとき、彼女の顔に何か寂しさを垣間見たのは、潮の香りと同じ錯覚だろう。
彼女の家は、私が彼女を誘拐した場所から一〇〇メートルと離れていなかった。小奇麗な二階建て一軒家、きちんと庭と呼べる面積の庭に植えられている草花は、やや枯れかかっている。現時点で家の明かりはついていない。
「さあ、降りなさい」
「いやです」
「て言ったら、あなたはどうするのかしら」
「もう、言葉としては発した」
「そういうことじゃ、ないんだけどな」
彼女は、ドアを半分まで開けると、振り返って私を見る。
彼女は、車から出ると音のしないようにドアを閉めた。軽い足取りで玄関まで歩いて行くのを、私はぼんやりと見ていた。玄関の手前まで行くと彼女は急に立ち止まり、こちらへ戻ってきた。
車の傍まで来ると、彼女はウインドウを軽くたたいた。私は仕方なく身を乗り出して、硬くなっているハンドルを回す。
「ねえ、これなんだ」
彼女の手にあったのは、私の携帯電話だった。いつのまに。
「私の携帯電話だ」
「さあ、どうしましょう」
「返しなさい」
「もちろんよ、お返しします」
「当然だ」
「明日ね、明日返すわ」
「なぜ明日だ」
「そうね、時間は今日と同じ時間で」
「分からないな」
「いいこと、明日は今日みたいな乱暴な誘拐の仕方は駄目だからね」




