胸に抱き、笑いながら
どうして僕が内田君のことを思い出したのか、主だった理由についてはよくわからない。もしかして、些細な理由があったのだとしても、僕はそれを知ることが出来なかった。自分自身のことさえわかりもしない僕が、僕の頭の中で彼を思い出した経緯があったとしても知りえないことに対して、べつに罪の意識は感じない。
夜中の二時ごろに彼女は目を覚ましたようだった。僕の隣で寝ていた彼女が冬眠から目が覚める動物かなにかのようにして布団の中から出たのを、僕は目を開けず見ていた。彼女が布団を開けた所為で冷たい空気が中に入ってきて、僕は掛け布団を掻き寄せた。彼女の温もりが部屋の冷たい空気で攪拌されて澱のようになった。彼女の足音がして、キッチンへ繋がっている扉が軋んだ。キッチンで蛇口を捻る音と、水道水が管から開放された音と、シンクに水が落ちてたてる空々しい音が聞こえる。僕はそれらを耳にしながら布団の中で仰向けになって、目を閉じていた。それほど深い眠りについていたわけではなく、目を覚まされたとも思わなかった。
やがて、少し口元をタオルでぬぐいながら彼女は部屋へ戻ってきた。ベッドの横にあるソファに座った。部屋の明かりは点けず暗いままだった。カーテン越しに外の明かりが入ってきていて、おぼろげな輪郭だけは視界に捉えられた。ソファがある。棚がある。机がある。テレビの待機電源が赤く点灯している。彼女はソファに両手をついて足を組んだ姿勢で座っている。表情だけが暗闇で隠れていた。
「起こしちゃった」
「寝てても起きてても、同じ」
「何が」
「何がだろうね。寝てたって少なくとも心臓は動いてるし、血液だって身体中をぐるぐる回ってるし、お節介なことにカロリーだって消費してるよ」
彼女は軽く鼻を鳴らして笑った、ようだった。どこが面白いのか僕には理解出来なかった。
「ねえ、お話をして」
はじめて僕を振り返ったようにぼやけた彼女の輪郭が動いた。
「お話って、何を話せばいいの」
「なんだって、いいわ。貴方の心にたったいま浮かんできたものなら、なんだっていいわ」
目の前に突然天井からぶら下った糸の先にしがみついている蜘蛛から避けるようにして少しだけ身体を反らして言った、投げやりにも受け取れる彼女の言葉に反応したわけではないけれど、僕は身体を仰向けから横にして、肘をついて頭を支える恰好になった。
そして彼のことが記憶から浮かんできた。
まるで湖中に二週間くらい沈められていた麻薬がらみのいざこざで枕を顔に押し付けられて殺された女性の死体が浮かび上がってくるようだった。その女性は、ベッドで殺されるそのときまで、心地良い夢に身を委ねていたに違いないのだった。彼女の名前はジェイン。僕が思い出した彼の名前は内田だった。
「僕がね、ずっと昔、小学生の頃。同じクラスに内田君っていう男の子がいたんだ」
「何年生」
「そこまでは憶えてないよ。でも六年生とか五年生とか、出来もしない背伸びをして大人ぶった考え方をするような年齢じゃなかった気がする。だから三年生か四年生か、それくらいの中学年だったと思う。小学生のクラスって、ほら、何人か、六人くらいだったはずだけど、クラスの中を班に分けてたじゃない。僕と内田君は、同じ班だった」
「他の子のことは憶えてないの」
「残念ながら」
彼女にはちっとも残念には聞こえない口ぶりに聞こえただろう。実際、残念でもなく、かといって内田君以外は誰も思い出せないのだから懐かしくも美しい思い出があるわけでもなく、何も感じなかっただけのことだった。このときの僕にとってその班には、僕と内田君しか存在しなかった。
「内田君はね、とても忘れ物が多い子だったんだ。小学生の頃は忘れ物をしたら叱られたりするだろう。ちょうど、そのとき僕らのクラスでは忘れ物撲滅キャンペーンみたいな綺麗事を押し付けるのが流行ってて、教室の後ろの壁に班別に忘れ物をした回数のグラフを貼ってた」
「忘れ物より重要なことが無かったのかしら」
「とにかく、勉強が出来なくても運動音痴でも、忘れ物をする人よりかは偉いって感じだったね。逆に忘れ物が多い子なんかは酷い目で見られたもの、忘れ物が多い奴は人に非ざる、みたいなね。そして僕らの班は内田君のおかげで忘れ物ランキングではいつもビリだった。グラフが僕らの班だけ突き抜けて伸びてた。忘れ物に関しては班の連帯責任ってことになってて、内田君が忘れ物をするたびに僕らも先生から怒られたんだ。内田君はね、とにかく忘れるんだ。別に頭が悪いわけでも勉強が嫌いだったり苦手なわけでもないんだけど、毎日って言っていいほどハンカチを忘れてたし、物差しもコンパスも三角定規とかの文房具だって、毎日何かしらを必ず忘れる子だった。ある日、どうしてそうなったのか、それとも僕がそうしようとしたのか、それは思い出せないんだけど、僕が内田君の家に行って次の日の用意を手伝ってあげることになったんだ」
「親切だけど、なんだか厭らしいわ」
「そう、結局は内田君を助けたいような振りをして、僕が内田君よりも出来る子供だということを自分自身と、周りに認めさせていい気になっていただけなのかもしれない」
僕は咽喉が渇いてきた。テーブルの上に飲み物が置かれていないか暗がりの中に見える輪郭を探った。テーブルの上には夕食に買っておいて残してしまったマクドナルドのフライドポテトが紙ナプキンの上にあるだけだった。きっと萎びてしまって、とても食べられたものじゃないに違いない。
「内田君の家は、同じようなプレハブ造りの平屋が並んでいる一角にあった。今じゃほとんど見かけないけど、僕が小学生の頃、実家の近くには家にお風呂があるのが疑わしいくらいの、ちょっとみすぼらしいそういった平屋が集まった一角が結構あったんだ。内田君にはお母さんがいなくて、お父さんと内田君と、僕らと同じ小学校へ通ってた二歳年下の内田君の妹の三人だけの家族だった。僕には弟が居て、弟と内田君の妹はクラスメイトだったから妹がいるっていうのは知ってた。でも、内田君のお母さんがいないのは知らなかった。お母さんが亡くなったのか、離婚しただけなのかっていうのは話してくれなかったように思う。お父さんは働きに出てて、妹はどこかに遊びへ行っているようだった。僕はそのとき普通の一軒家に住んでいて、平屋っていうのが珍しいのもあったけど、僕が平屋の中をうろつき回って、平屋についてあれこれと質問をした覚えがある。内田君は特に拒絶するふうでもなくて、僕の質問に答えてくれた。それから僕と内田君は二人で明日に学校へ持っていくものの準備を始めたんだ。僕は内田君の家へ行く前に、明日持っていく物のリストを作ってた。それに一つずつ鉛筆でチェックを入れながらランドセルの中へ入れていった。その間、僕と内田君は何も喋らなかった。全て終わった後、内田君の家でも外へ出てでも遊ばなくて、僕はそのまま家に帰ったんだ。これで明日は大丈夫だって、僕の家族に自慢していたような気がする。馬鹿だね」
「じゃあ、次の日には彼、忘れ物をしなかったのね」
「それがさ」と言いながら僕はベッドの上で半身を起こした。ぬるま湯に長い間浸かっていた身体を湯船から出したときのように、身体が僕の意思に反して小刻みに震えた。「内田君はまた忘れ物をしたんだ」
「どうして、だって前の日に全部をランドセルの中に入れたんでしょう。もしかしたら貴方のリストが間違ってたとか。それとも内田君がランドセルから中身を取り出してしまったのかしら」
彼女が小首を傾げたように輪郭が歪んだ。だけど、僕は確信している。このときの彼女は不思議そうな表情なんかしてなくって、暗闇の中で世界の全てを悟りきってしまった仙人のような顔つきをしていたのだと。
「次の日、内田君は物差しを忘れたんだ。竹で出来た三十センチの物差し、小学生の頃って持たされてただろ。それを内田君は忘れたんだ。僕は前の日に、内田君の家でランドセルの中に物差しを入れた。絶対に入れたんだ。念のために学校へリストを持っていっていたんだけど、リストにはしっかりとチェックがあった。内田君にランドセルを開けて中身を出しただろうって聞いても、彼はあれからランドセルは触ってないって、今日登校するまであのままだったって言い張ったんだ。僕は嘘だって言った、内田君を詰った、それから殴り合いの喧嘩になったはずだけど、その事はよく憶えてない。内田君は喧嘩が終わった後もずっとだんまりで、クラスメイトから何を言われたって黙ってたんだ」
「でもおかしいわね。内田君が嘘をついてなかったら、どうして物差しを忘れてしまったのかしら」
「さあね、その理由はとうとう内田君の口から聞くことはなかった。それでも僕は、僕が内田君の家に行った次の日に大喧嘩をしてから、内田君がどんなに忘れ物をしたって、内田君に文句を言わないことに決めた。内田君とは進級してから同じクラスになることはもうなかったけど、僕と内田君は小学校に居るあいだは友達だった」
「内田君から何か教えてもらったとか、忘れた理由を」
「言ったろ、内田君は何も言わなかった、絶対に」
僕はベッドから出て、空気と同じくらいに冷えたフローリングに素足を乗せながら彼女に言った。
「ただ、持ち物の準備をしていて気がついたことがあったんだけど、内田君の家には、物差しもコンパスも三角定規もひとつだけしか無かったし、お父さんが忙しくて帰ってくるのが夜遅かったからハンカチとかだって内田君が洗わなかったら次の日に持ってくるのも無かったはずなんだ。それでもね僕は僕の弟から聞いていた。内田君の妹は絶対に忘れ物をしない子で毎日綺麗にアイロン掛けされたハンカチを持っていて、勉強も良く出来て友達も多くて、とにかく評判が良い子なんだって聞いてたんだ。僕が知っていたのは、それだけ」
僕は部屋の隅まで歩いていって、部屋の明かりを灯した。隠れていた雲間から久しぶりに顔を出した厭味な太陽みたいに、明かりは部屋の中にある輪郭の中身を一斉に白日の下に晒した。僕は彼女を見た。彼女はテーブルの上に置いてあった、手に持てば先端から根元まで背を伸ばしてお辞儀をしてしまうマクドナルドのフライドポテトを食べていた。よくそんなものを食べられるね、と僕が言ったら彼女は、お腹が空いていたのだもの貴方も食べたら、と僕が好きな唇からフライドポテトの先っぽを覗かせながら言った。もう一度口を開いてフライドポテトを口の中に入れてしまってから、彼女は僕を一瞥もせずに微笑った。




