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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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32/67

君を好きになってた

 春なんだ、とは胸を張って言えない季節。僕が三年間通った高校の正門前には、晴れやかだったり涙を浮かべていたり、様々な顔が様々な姿で群れをなしていた。彼らに背を向けながら、僕は自転車に乗って通れないことに少しだけ不満だった。ちょうど正門を出てサドルに腰を乗せたところで、聞き慣れた声が僕を呼び止めた。振り返ってみると、声と同じように見慣れた顔の成瀬祐一がこちらに歩いてくるところだった。

「三澤、なに、クラスの打ち上げ行かないの」

「まだ夜学の受験勉強しなきゃいけないし」

 それだけ言った僕は、その場を去ろうとした。でも、そんな僕にはお構いなしに、成瀬は話を続けてきた。いつだって成瀬はこういう奴だったな、と僕は改めて思い出した。

「そういや、お前って夜学しか受験しないんだっけ」

「うん」

「家の事情とか」

「或いはね」

 進学できるだけでも恵まれてると思うけどな、という言葉は声に出さずに飲み込んだ。僕は今度こそ成瀬から、正門の前に溢れている卒業生たちから、そして僕が三年間を過ごした校舎から離れた。自転車に乗って、なるべく加速度をつけて、早く、強くペダルを踏み込んで、早く。余所見をしてはぐれてしまった草食動物の子供を思い出した。


 そのまま家に帰るのは、キャンディを途中で噛み砕いてしまうような感じがした。僕はいつも通る道から少し外れて、高校から駅へと向かう商店街の中を自転車で走った。卒業生の人混みから逃げてきたばかりなのに。

 天蓋付きのアーケード、商店街に名前が付いていた気がした。僕が忘れてしまっていたのは、それほど気の利いた名前ではなかったからだろうと思う。僕は幸いにも家が近いので自転車で通学している。でも、家が遠い人は電車やバスを利用して通学しているから、この駅へと向かう人の中にも学生が目立つ。アーケードの中ほどに、申し訳程度に設置されたベンチがある。僕はそのまま駅へ向かわずに、そのベンチの前に自転車を停めた。それからベンチに座って、アーケードを行き交う人たちを眺めていた。

 僕の視界に彼女が入ったのと、彼女が僕に気が付いたのは、どちらが先だろう。クラスメートの日比野満紀。二年生から卒業する今日まで同じクラスだった。彼女もクラスの打ち上げには参加しないのだろうか、僕はそのような眼差しを向けていたのだと、思う。彼女が僕を見るような眼差しで。

「三澤くん、打ち上げ行かなかったの」

「僕も同じ事を訊こうとしてた」

 日比野は、僕が打ち上げへ参加しないことについて、何故とは訊いてこなかった。だから、というわけでもないけれど、僕も彼女には何も訊かなかった。僕が座っているベンチに彼女は歩いてきた。軽いとか何と言うか、とても不思議な、僕に向かってきているのかさえ確かではない足取りだった。そのような彼女を見るのは初めてだった。もしかしたら僕が気付かなかっただけで、彼女は僕と同じクラスだった二年間、そうやって歩いていたのかもしれない。

「乗せてって、後ろに」

 僕の前まであと三歩くらいのところで日比野は立ち止まった。

「何を乗せるの」

「いい天気だよね。でも、雨が降ってくれれば、もっといい天気」

 彼女はそのまま自転車の後ろについている荷台を軽くはたいた。どうやら彼女自身を乗せて欲しいらしかった。それ以外の解釈があったら教えて欲しいくらいだ。僕は何も言わずにベンチから立ち上がって、自転車のハンドルを手にした。油を差したばかりのストッパが心地よく跳ね上がった。僕がサドルに座ってすぐ、後ろに体重がかかったのを感じた。僕は、彼女の重さを感じて初めて、彼女がいまここに存在していることに気が付いた、ように思った。

「さあ、行こう」

「駅まで乗せていけばいいの」

 日比野は行き先を何も告げなかった。

 しかたがないので、とりあえず後ろに日比野を乗せて、僕は自転車を走らせる。駅前商店街のアーケードを抜けて、人混みをすり抜けて、さらにバス停を過ぎて、駅から遠ざかっても彼女は何も話しかけてこなかった。僕は後ろに彼女が座っていることはわかっていたのに、振り向いて彼女を見ることはなかった。ただ、彼女がそこに居ることだけを感じられれば僕とって充分だった。

 やがて僕と日比野を乗せた自転車は、駅前の喧騒から離れていく。駅前のバスロータリーを直進して、陸橋を右に曲がって、通りの左右に見えていた工場がなくなって、建物が少なくなって、やがて大きな坂道に出た。僕らの街は、この坂を境目にして上段と下段に分かれている。坂を下っていくと林や畑を目にする事だって珍しいことじゃない。それよりも、いったい彼女はどこに住んでいるのだろう、そもそもどうして自転車はこんな道を走っているのだろう。自転車が僕と日比野を乗せて、自転車の意志で走っているようにしか感じられなかった。

「ねえ」日比野の声が遠くから聞こえた。まるで後ろに乗っている彼女ではない彼女が、僕に話しかけているようだった。「いつまでだって、こうやって走っていられないのかな」

「それは無理だよ、いつかは止まらなくちゃいけない」

 僕は遠くにいるはずの彼女へ向かって声を張り上げた。

「あたしは厭だな。ずっと、今のままでいたい。このままで、このままでって、いっつも思ってる」

 そんなのは、無理だ。僕らはいつか止まらなくちゃいけないし、止まってから走り出さなくちゃいけない。

「あたしはね、止まりたくないし、もういっかい走り出すのも、厭だな。今が好きなの」

 風の音にまぎれて、彼女の声は聞こえ続けた。それが彼女の声なのか、僕の内側から聞こえてくる声なのか、僕にはわからなくなっていた。いつしか、後ろに感じていた彼女の重さも感じないような気がしてきた。ふと、僕は後ろを振り返ってみた。そこに彼女はいなかった。彼女は僕が走ってきた道の、遥か後方にいて、僕に向かって頭の上で手のひらを左右に振っていた。いつの間に、降りたのだろうか。どうして僕は気が付かなかったのだろう。しばらく彼女は僕へ手を振っていたけど、やがて背を向けて歩き出した。彼女の家の近くまで来ていた、だから彼女は自転車から降りた。そう考えるのが普通だ。でも僕にはそう思えなかった。彼女は、きっと自分から降りて、止まって、そしてもう一度、こんどは自分の足で走り出したのだと思う。

 急いで引き返しても、彼女の姿は見つけられないと思った。だから僕は彼女が降りた場所とは逆の方向へ自転車を漕ぎ出した。さっき彼女はいい天気だと言ってたけど、空は晴れてなんかいやしなかった。もしかしたら、彼女は雲の上を眺めていたのだろうか、そこはいつだって、雨が降っていたって晴れている。僕らはそれを知っているけれど、まだ雲の上に行く方法を知らないだけなのかもしれない。

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