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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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31/65

かぎりなく蘇芳に近く

「俺なんてえモノは、所詮は人間の屑みたいなモノだからさ」

 男はわたくしに向かいまして、然様に語り始めたのでございます。紅よりも蘇芳に近い色に錆びた鉄橋の欄干に腰を掛けたまま、痘痕に覆われた薄汚い顔をわたくしに向けて、徐に、徐に語り始めました。山間の、流れる水流も然程多くない、石器で磨り潰したかの如き草木も斯くやという、山奥のか細い支流を渡す鉄橋でのお話でございます、もし貴方様のお耳汚しで無ければ、ご興味を多少なりともお持ちになられるのならば、お時間を頂戴してお伝え致したいと思うのでございます。


 時刻は既に夕暮れに差し掛かっておりました。その日、日中は雲が無い、勿論のこと何処ぞにはあったのでしょうが、わたくしの、わたくしと男の視界には、それは見事な藍色の空が広がっておりました。でございますから、斯様な快晴を受け継いだ夕日の見事さと云いますと、わたくしの拙い言葉では、全く持ってお伝えできないのかもしれませんが、其の様な夕日が男を後ろから照らしており、男から延びる影は欄干の陰と合い混じって、わたくしの足元まで届いておりました。

 然様な夕日を後ろに背負っていた所為でしょう、男の表情は詳しく分からなかったのですが、わたくしが、僭越かと云えば男に対して其処までの感情は抱いておりませんが、わたくしなりに邪推致しますには、恐らくではございますが、笑いながら語っていたのではないでしょうか。貴方様にお話をさせて頂きながら思い返しておりますと、其の様な気が致します。とても薄気味の悪い表情ではなかったか、と思うのです。


「己の、己の価値なんてえものは」

 と男は続けて、わたくしに語りかけます。

「何も無い、他の奴等と比べて、奴と比べて何も出来ないなんてえ事は、己が一番良く判っているさ」

 このように延々と先程から続く繰言を、わたくしに向けまして再び繰り返すのでございます。奴、と申す方が何方かと云う事は、わたくしには皆目検討もつかないのでございますが、きっと何か事情や揉め事がある、あったのでございましょう。その何方かと男の優劣などは、わたくしにはとんと興味がございません。


「でも、己はそうやって自分を判っている、奴は判っていない。だから、その点だけは己が、奴に優っているところなのさ」

 お話を致しております際の季節と申しますと、一月のお話でございます。冬の最中での出来事でございますし、特に山間の風は、肌に刺さる程に冷とうございます。一陣の風が吹きますと、男は合成繊維で出来た上着の前を抱き合わせるようにして肩を竦め、橋の外側へ出した両足を凍えたように震わせるので、何時の間にやら、履いておりました安物の白い三本線が入った履物は、脱げてなくなっておりました。然しながら、男はその事に気付いた様子もございません。勿論、わたくしも其の事を教えて差し上げよう等とは、思いもよりませんでした。


「そして、然しながら、奴はこの前この橋を通ったとき、ここからは飛び降りれない、なんてえ酷く臆病なことを云いやがった」

 男は、少しづつ、少しづつ腰をずらしながら話を進めておりました。橋の欄干から川底までは、どのように見ましても五十メートル以上はございますから、飛び降りたとして生きて居られるはずはございません。

 先程から男の繰言を聞いておりますに、きっとこの男は気が触れてしまったのではないかしら、気狂いではなかろうか、嗚呼恐ろしい、とわたくしも事ここに至っては気付かないわけにはいきませんでした。

「然し、己にとっては、ここから飛び降りるなんて事は些細な、うふふ、そう、いとも簡単なことに違いないのさ」


 そして、いまお話したような遣り取りをかれこれ、四五時間も欄干の傍で続けておりましたし、わたくしも夜が遅くなるまでに家に帰らなくては、そして主人と子供の夕食も作らなければいけませんから、なんと申しますか、帰れる、その男から開放される機会と云うものを伺いながら、男の話を聞いていたのでございます。然し、一向にその男は話す事をやめようと致しません。わたくし、とても困りましたのよ。ですので、わたくしと致ししましては、せんまで聞いた話から、男はきっとそこから、この陸橋から飛び降りたいのだろう、きっとそうなのだろうと考えましたので、致し方なく、ええ、本当に厭な事ではございましたが、男に近づきまして、汚らしい、埃塗れの背中を、力をこめて押して差し上げたのでございます。


 そう致しますと、男はでございますね、顎の弛んだ痘痕顔を、口と目を大きく見開いた表情のまま凝固させまして、ほんの一瞬わたくしを見つめました。嗚呼、その表情と云ったら、思い出すのも、況してや貴方様に細かくお話をする事という失礼は、憚りとうございます。

 そのまま、何も支えるものの無くなった男は、宙に浮く間も惜しいかの如く、急いで川底へ落ちて行きましたから、わたくしは欄干から身を乗り出しまして、男の行く末を見守ったのでございます。時間にして、ほんの数秒ではございましたが、なんと申しますか、動物、獣の鳴き声に似た声が山間に響いて聞こえてまいりました。今にして思いますと、男の断末魔だったのでございましょう。その声、聴くも悍ましい獣の声が鳴り止みますと、それと同時に水の爆ぜる音、そして、


 ――ずしゃり


 と云う音が聞こえました。何分、底の浅い川でございますから、男が落ちたと思しき場所には奇妙に潰れたようなモノがございました。恐らく、わたくしが突き落としました男なのでしょうが既に其れは男、或いは人間と云うよりも、肉の塊でございましょう、然様なモノが浮かぶとも無く、沈むとも無く、流れるでも無く、背をわたくしに向けて、両手と両足を無意味に微動させながら、そのモノは川にございました。

 先程の夕日より、欄干よりも赤い、至極、綺麗な色が其のモノから滲んでおりまして、幾筋かの細い彩りをその川へ添えておりました。その綺麗な紅が、川に染まって、山間の、わたくしからは見えなくなる、木々の向こうへ続く下流へ、幾筋かに分かれてたゆとうて行く様を、わたくしは、暫く眺めていたのでございます。

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