雪解け
「お母さん、お座りになっていてくださいな」
僕と付き合い始めて二年になる菊子は、腰を浮かそうとした母さんに言葉をかけた。卓の上に僕と母さん、そして自分の湯呑を置くと、畳に映える紺色の座布団に正座をして腰を下ろしたらしい。そのとき僕は、もうじき春になるであろう麗らかな日差しが、庭の紅梅を包んでいる風景を眺めていた。
「菊子さん本当にありがとうねえ。御通夜からこちら、ずっと手伝って貰って」
母さんは、庭から視線を戻した僕を一瞥すると、菊子の入れた湯呑に口をつけた。
「恐れ入ります、でもこの人も」と、菊子も僕を横目で見る。
「まったく、この息子ときたら。三年も実家に帰って来ないで、連絡も寄越さないでねえ」
「三年……ですか」菊子はそう言うと、再び僕を見て寂しく微笑んだ。
「高校を卒業するときにねえ、進路が決まってないの心配して、お父さんが町工場の仕事を紹介したのにさ。反故にして大喧嘩のあと、勝手に東京に出てってから、それっきり」
僕と父さんが仲違いをしたのは、それだけが原因ではない。僕は子供の時から父さんが嫌いだった。酒癖の悪さ、音を出して食べる癖や、直ぐに暴力を振るう性格の全てから、僕は父さんの全てから離れたかった。
「そうすると、この人、お父さんとは三年前に会ったのが」
「ええ、お父さんと仲違いしてしまって。お互いに意地っ張りなのよねえ」母さんは後ろを振り向いて、真新しい父さんの遺影がある仏間へ、一時だけ視線を向けた。そして卓の脇に置いてある封筒から、根付が紐で括り付けられている車の鍵を、僕の前に置いた。
「車に乗って一人で出掛けるのが、お父さんの趣味だったけどねえ。家にあっても母さんは乗れないから」
僕がその鍵を手に取ると、根付と鍵が触れ合って弔いとも取れる音を奏でた。
「人様を傷つけないでおくれよ。お父さんのためにもね」
そう、僕の父さんは車に轢かれて、死んだ。
父さんの車は家族向けのミニバンだった。助手席へ菊子が座ろうとしている間に僕は、午後の日差しを眩しく思って日除けを下ろす。そこから葉書大の紙のようなものが一枚、菊子の前に流れて落ちていった。
「この写真……。あなたと、あなたのお父さんじゃないかしら」
菊子から手渡された写真には、見覚えがあった。確か高校三年の夏、嫌がる僕を父さんが、車で数十分かけて山間の川原へ連れて行った時の、写真だ。そこには不機嫌そうに視線を逸らしている僕と、僕の肩に手を廻して誇らしげに笑っている父さんが写っていた。




