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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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29/68

クラシカル・クラシック

 眼前には、風を起こしながら通り過ぎていく通過電車。

 千尋は通学で利用している駅でホームの一番端に立ち、流れる光と人が渾然とした電車を、眺める素振りをしながら目を瞑っていた。

 電車が過ぎ去った後の一陣の突風は、千尋の背中までかかっている黒髪と、茶色のロングコートの裾を揺らした。

 アナウンスは、もう一本の通過電車があることを知らせる。

 一時の風が止んで千尋は、後ろで結んだチェックのマフラーに隠れていた唇をそっと動かす。そして、音にならない声で、冷え切った透明な空気を震わせた。


「わたしは、いらない人間」


 誰にも聞こえない、そんな声だった。もともと周りに人がいないことは確認してある。千尋は白線を越える位置まで進み、両足を揃えて立つ。

 行儀よく揃えた足に履いている靴は、黒い油性インクで塗りつぶされていて、千尋のお気に入り柄が窺い知れなくなってしまっていた。 鞄は学校に置いてきて手元ににはない。千尋が席を外している間に、いつの間にかカッターで切り裂かれたその鞄は、持って歩く事など出来なかった。千尋が父親から、入学祝いに買ってもらった大切な鞄なのに。


「どうして千尋がいらないの」

 突然に声が聞こえて、千尋は閉じていた目を開いた。声の聞こえた、千尋の右側へ髪を揺らして目を向ける。

 そこには、濃い青色のハーフコートに身を包んだ少年が立っていた。ファの付いたフードが少年の未だ子供っぽさが残る顔に触れそうな程、少年の体より大きいサイズ。目深に被ったニット帽からは前髪が出ていて、少年の視線を半ば隠してしまっていた。

 少年は口元に笑みをたたえたまま、千尋に再び問いかける。

「なんでいらない、なんて言うの」

 千尋は顔だけを少年に向け、問いかけの答えを探す。しかし、言葉は何も出てこなかった。

 すると少年は今まで千尋を見ていた顔を、急に意識から外してしまったかのように、そっと線路へ向けてしまった。

「話しかけておいて、その態度はないでしょう」

「別に良いんだ、言いたくないならね」

 少年はポケットに手を入れながら話す。前髪がかかった目では、視線の行く先を探る事は出来なかった。


「例えば、そう例えばだよ。もし僕が空を飛ぶ事が出来ると言ったら、千尋は僕について来られる」

 少年は相変わらず千尋を見ない。

 千尋と少年が立っているホームの反対に電車が到着し、夜遅くまで仕事をしていたのであろう人々がまばらに降り立った。皆、下を向いて肩を落として歩いている。千尋にはそう見えた。

 電車はそれらの人々を下ろすと、まるで呼吸をするかのような音を発してホームから離れていった。

 そしてまた、風が千尋を包む。

 千尋は髪を片手で抑えながら、少年に話した。

「空を飛ぶ事なんて、出来ません」

「出来るさ。僕には出来るし、きっと千尋も空を飛べるよ」

 急行電車の通過を知らせるアナウンスが再び流れる。

 千尋が立っているホームの遥か彼方の暗闇に、小さな、今にも消えそうな蝋燭を思い出させる光が二つ。

「空が飛べるから、飛べたなら、それがなんだっていうの」

 千尋は立っている位置を変え、少年に向き合った。

「どこにいても、千尋が見つかる」

「でも、わたしは飛べない」

 少年は、ニット帽に片手をあてて少し後ろにずらした。すると、少年の目にかかっていた前髪は視線を隠す事を止めた。千尋と少年の視線が合う。

 さっきまで小さかった通過電車の二つの光は、その車体が見えるくらいまでホームに近づいて来ていた。金属の擦れ合う音が、それがきっと世の中の悲鳴に聞こえる、千尋に響く。

「飛び方を知らないから、違うかな、飛ぼうとしていないのかな」

 少年の言葉を聞いて千尋は、下唇を噛む。母親に叱られ続けている、昔から直らない千尋の癖のひとつだった。

 通過電車がホームを横切る事を知らせる冷たい風が、また千尋を押す。感じた千尋は両足に力を込めた。

「わたしを連れて行ってくれるの」

「うん、でも千尋は未だ飛び方を知らないみたいだね」

 少年は一歩、線路側へ足を進めた。電車の荒々しい息遣いが、千尋の立っているホームまで迫ってくる。


「こうやって飛ぶのさ」


 少年は、通貨電車の先頭車両がホームに入ってくる寸前。


 両膝を心持ち曲げて、腰を落とし、


 千尋を見つめると、目を細めて微笑みながら、


 ――すう、と体を伸ばして線路の中へ飛び込んでいった。


 それと同時に通過電車は千尋の眼前を通り抜けてゆく。


 巻き上がった風は少年のニット帽を、薄曇の星空へ舞い上がらせる。


 最後に少年が千尋を見たとき、少年は千尋に微笑んでいた。少なくとも千尋にはそう見えた。

 風に飛ばされたニット帽はしばらく空中で遊んでから、ふわり、ふわり、と上空の鳥から抜け落ちた羽のように、千尋の前に下りてくる。

 千尋は一瞬、手を伸ばしてそのニット帽を掴もうとした。しかし、手を差し伸べてしまうと、きっと消えてしまうのではないか。そう思った千尋は、立ち尽くしながら帽子の行方を目で追っていた。


 それから何事も無かったかのように、電車は行き来をしている。


 駅に止まった電車を数本見送った後、千尋は改札近くにある緑色の電話機へ硬貨を入れ、これから帰るべき家に電話をかけた。帰る場所があるということは、幸せなのかもしれない。

「あ、うん、ごめんなさい。そう、ちょっとお買い物があって、遅くなったの。うん、今から帰るよ。そうだ、お母さん。わたし、また会ったよ。子供の頃に死んじゃったお兄ちゃんに、また会ったの」

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