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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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砂塗れで祈りをささげる男

 この感情ほど厄介なものはないな、と仲原は思った。部屋の外では今朝方から降り続いている横殴りの雨が、降り止む気配を見せる事はなかった。部屋の中は、外の気温と仲違いをするほどに蒸し暑く、窓硝子の一面に水滴は広がっていた。


 常であれば、仕事の無い休日のことであるから、終日部屋の中にいることが苦にならない仲原にとってみれば、今日の天気を鑑みても外出など思いもよらないはずであった。

 然しながら、今朝起きてみると、常日頃の気持ちと相反するもの、気分と云ってよいのであろうか、何らかの感情と呼ぶべきものが仲原の胸のうちに去来していた。昨晩の残りをかき集めた粗末な朝食を摂っても、珍しく午前中から風呂に入っても、煙草を数本吸っても、その感情は収まらなかった。

 仲原は、次第に気分を拗らせつつ、まんじりと時計を眺め、それにも飽きて、しまいには奇声ともとれる大声をあげると、万年床になっている布団の上に悄然と大の字になって寝転がった。そのまま寝返りをうったり、まどろんで数十分を過ごしていた。天井は木材で出来ており、建物自体も木造であるので、上に住んでいる住人の歩くたびに軋む音がした。


 確か、二階の住人は女性であったろうか。そう仲原は思い出す。以前に見かけたのは半年ほど前、八月の朝方のことであった。共同の塵捨て場へ彼が可燃塵を廃棄している際に、二階から錆びた鉄製の階段を降りて来た女性が、仲原の部屋の上で居住している女性であった。スウツを着て、背筋を伸ばし、その背中に掛かるほどの朝日の光を浴びた黒髪を揺らしながら、その女性は階段を降り切ると仲原に会釈をしたのだった。目つきは、横一文字になって、涼やかであった。口元さえも、当時は夏の盛りであったにも関わらず、涼気を湛えて微笑んでいた。


 その女性の姿形を天井の板越しに、仲原だけに見える視界に浮かべ、

「ああ、なんと云うことだろうか」

 と仲原は一人呟き、やおら身を起こすと、足の踏み場も無い床に散らばっている衣類を着る事も無く、傘を広げる事も無く、そして靴さえも履かず玄関から飛び出した。いざ外に出てみると、吐く息は白くなり、仲原の薄くなった頭髪は直ぐに雨に塗れて、暫らく部屋の前に立っていると雨滴は止め処なく彼の顔に、目に、無精髭の生えた口元に流れ込んできた。


 暫らくの間、仲原は己が住んでいる二階建ての下宿に面した小道に立って、天を仰いでいた。暖かかった室内に比して、外気の寒さは彼の体から体温を奪い、次第に仲原は小刻みに震え始めた。すると、仲原は自分の部屋には戻らず、粗末な階段を、階段毎に溜まっている水溜りを避けることもなく裸足で駆け上がり、彼が住んでいる部屋の上、以前に見かけた女性の住んでいる二階にある部屋の前に立った。

 先程の天井の軋みからして、今日はその女性が居るのではなかろうか。

 確信を抱きながら、仲原は戸を叩く為に右手に拳を握り、軽く扉にあてた。そして、それから一度、二度、三度、四度、五度、六度、七度、八度、九度、十度、扉を叩いた。


 然し、扉は開かず、部屋の中から誰何の声すら聞こえなかった。矢張り、今日は居なかったのであろう。先程の天井の軋みは、我が不明による幻聴であったのであろう。そのように仲原が考え始めたとき、突然に扉は開かれたのだった。

「――あの、どちら様でしょうか」

 仲原は答えない。答えないまま、口元に痴呆患者のような笑みを浮かべつつ、立っている。その様子を見て、女性は不信気な目つきになり、眉を寄せ「何か御用でしょうか」と再び尋ねる。

 女性を見ておらず、扉の左上方にある表札を見ながら、仲原は女性の苗字を始めて知った。その時には、否、暫くして気付いた時には、雨音に紛れて扉の閉まる音が聞こえていた。仲原の前に開かれた扉は、再び閉じられたのだった。一連の出来事は、仲原にとって些事であり、何か遠くの彼我の向こう岸で起こった出来事の様に感じられて仕様が無かったのである。


 それから、仲原は部屋に戻らず、線路沿いの道を裸足のまま駅まで歩いた。途中の線路脇にある、砂利で敷き詰められた駐車場の近くで、雑種と思しき野良犬に吼えられた。しかし仲原が音階の高い、腹の奥底からの大きな声を出して威嚇をすると、野良犬は駐車場脇の草叢へ逃げていった。勝ち誇った彼は、胸を反らし悠然と雨の中を駅まで歩く。

 駅までは野良犬以外とはすれ違わず、駅前には休日である為であろうし、また雨の所為でもあろう、さして人もおらず仲原は黙然と小さな駅にある改札の脇に座り込んだ。

 座り込んだまま、四、五分ほど経った頃、下りの各駅電車が駅に着き、数人の乗客が自動改札から出てくる。

 仲原はその中に一人の女性を見つけた。赤い色の傘を開こうとしている、その女性の腰に向かって立ち上がる事も無く、座ったままの姿勢で膝を擦りながら女性に近づく。そして手を回し抱きつくと、幼児の如く涙を流し肩を揺らして嗚咽し始めた。

 突然の事に一瞬我を忘れた女性は、気を持ち直すと、穢れたモノでも払いのけるように仲原を振りほどいた。さして力の無い仲原は、簡単にコンクリの地面に突っ伏して倒れこんだ。倒れた彼を少しの間、侮蔑とも嫌悪とも取れる表情で見下ろしてから女性は、声を上げることもなく振り返ることすらなく、足早にその場を去って行ってしまった。

 しばらくの間、仲原は改札の前に倒れこんだまま全身を小刻みに震わせ、痙攣をしていた。変事を見かねた駅員が迷惑顔で駆けつけ、事務所に運び込まれても、なお痙攣をしていた。仲原の着ている衣服から水滴が滴り、コンクリートの床に染み込んでいった。

 事務所の中で古びたパイプ椅子に座り、仲原は両腕で己の上半身を大事そうに抱きしめ、何某かを非常に労るかの如く己を抱えながら「姉さま、姉さま」と、終わることなく呟いていたのだった。

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