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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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外れ爺

 提出期限を一週間後に控えた論文が埋まるべきであるノートパソコンのモニタには、無気力な空白が整然と映し出されている。何を書くべきかは決まっているが如何様にも筆が進まないのである。

 僕の怠惰と言われればそのまま甘受することも吝かではないのであるが、気温が三十五度もある真夏日に、クーラもない下宿で「いつ止まるか」という不安を抱える扇風機から生暖かい風が吹く中、窓際にある炬燵卓で全身から汗を流しながら学問としての文章が書けるかどうか。

 この点を斟酌して貰いたいものだとつくづく思う。

 なにも大学の図書館まで通えば良い事のように思えなくも無い。正論である。しかし、僕の今月の生活費は当の昔に底をついており、大学まで通う交通費というものが、一体あの空の財布から捻出できるものだろうか。


「はーずーれー」


 日中といえど人の往来が少ないその通りに、擦れて奇妙に音程の外れている奇声が響いたのは、僕が涼しくなるのを待つべく、夕方まで仮眠をとることに決めて畳の床に寝転び、五分ほどした時である。木造モルタル作りである僕の下宿アパートは、駅から程よく離れた住宅街にあった。否、程よくと言うと語弊があるであろうか、駅近くのアパートは家賃が高く、仕送り元である親の許しが得られなかっただけの事なのである。


 いまさら珍しくも無い声であったが、ちょうど仮眠の邪魔をされたこともあり、僕はのろのろと起き上がり二階に当たる僕の部屋の窓から外を、正確にはほぼ真下にある飲料水の自動販売機を、埃の溜まった窓の桟に両腕をのせて視線を向けたのである。

 設置後十数年は経ったと思しき変色し錆び付いた自動販売機の前から、きっと彼のことを知らなかったであろう中年のサラリーマンが、彼を疑念の眼差しで眺めつつ後ずさりをしながら離れているようであった。恐らく訪問販売の営業か何かで、偶々この街を訪れたのに違いない。僕も初めて彼に会ったときには同じような表情をしていたはずなのである。


 彼の事は「外れ爺」として、この町内では知らない人間は居ないはずだ。少なくとも僕の周囲で「外れ爺」のことを知らない人間は居なかった。

 但し、「外れ爺」が何処の誰であるのかについては、全く誰も知らないのである。年齢は恐らく八十歳を超えているのではないだろうか。顔に刻まれた皺は「外れ爺」の生きてきた年数の片鱗を窺わせるには十分なものがあった。いつも、そう今日のような真夏日も例えば冬の極寒の日も、「外れ爺」は決まって僕の下宿の前の通りに設置してある自動販売機の横に居るのである。

 「外れ爺」は朝の十時には何処からとも無く小脇に茣蓙を抱えて現れ、夕方の五時にはきっかりと茣蓙をたたみ、来たときと同じように小脇に抱え帰っていく。

 その間の日中は常に、寂れた自動販売機の横に胡坐をかいて背筋を伸ばし、鎮座しているのであった。


 そこで「外れ爺」が何をしているかと云えば。

 まあ、有り体に云って、何もしていないのである。


 尤も、「外れ爺」に物怖じせず、果敢にもその自動販売機で飲料水を購入しようとした人間が居たとしよう。正にこの真夏日、外回りの営業をしていて喉の渇きに耐えられなくなった先ほどの訪問営業のような人間が良い例である。機械に感情があるならば、古ぼけた自動販売機が不機嫌さを隠しきれない音を発し飲料水を下の取り出し口に落とした、その瞬間に。「外れ爺」は鎮座したまま、且つ正面を向いたまま微動だにせず、

「はーずーれー」

 と奇声を張り上げるのである。そして、それで終わりなのであって、この自動販売機で飲料水を買う人間自体が一日に一人いるかいないか、といった具合であるものだから、まあ結局は一日中何もしていないのと、さして変わりは無いのである。


 「外れ爺」の正体は何者なのか。僕でさえ一時期はたいそう気になって仕方が無かったのである。それこそ友人と連れ立って彼の後を追いかけようかという話さえあった。

 しかし、結局のところそのようなことはしなかった。不思議である事を詮索するのは学問の中で十分なのであって、日常差し支えの無い不思議は、不思議のまま留めておいたほうが素敵ではないかだろうか。


 僕がこの下宿に入居した三年と半年前、初めて訪れた際から「外れ爺」はその場所に鎮座していた。僕がおそるおそる初めてその自動販売機で缶珈琲を買った時には、なるほど酷く驚いたものであったと覚えている。

 しかしそれ以降、この自動販売機で僕が飲料水を買ったのは両手で余るほどしか無いし、そうなると日中部屋にいる際に時折聞こえてくる「外れ爺」の奇声は、僕にとっては烏が鳴いたり、隣の住人が掃除機をかける音が聞こえたりするのと、さして変わりの無い日常の中に溶け込んでしまっていたのである。


 今日に限って、なぜ僕が「外れ爺」の自動販売機で飲料水を買う気分になったのか。そんな理由があったなら僕こそが聞きたいものだ。暑さのせいか、進まない論文への気分転換なのか、どれも後付であって理由なんて何も無かったし、そもそも人間の行動すべてに理由があったのなら、それはそれで気が滅入ってしまうではないか。


 塗装の剥げて錆が目立っている鉄製の階段を、サンダル履きのまま二階から降りた。車一台が通るのがやっと、という態の小さな道に出てから、僕が自動販売機のある左側を見ると。

 相も変わらず「外れ爺」は自動販売機の横にひいた茣蓙の上に胡坐をかいて、正面を凝視しているのである。特別、正面に何がある訳でもない。電柱と、一軒家と通りを隔てるブロック塀があるだけなのである。いつもの風景がそこにあるだけであった。

 僕はズボンのポケットから小銭を出しながら自動販売機へ向かい、「外れ爺」を横目で見ながら百二十円を入れてから、さして興味のない缶珈琲のボタンを押した。

 すると自動販売機は、今日二度目のせいか若干滑らかな機械音を立てて、缶珈琲を取り出し口にはき出した。僕は缶珈琲が音を立てて出されるのを耳で確認すると、缶珈琲を手にする前に「外れ爺」へ視線を移したのであった。そこには……、


 茣蓙の上に立ち上がっている「外れ爺」がいたのである。


 僕は正直なところ、目を丸くして驚いていた事だろう。まったく予想もしていなかった事態である。

 そして暫くの間「外れ爺」は、首から上だけを僕に向けて、僕を凝視していた。若干、そう一二歩後ろに下がりつつも、僕は「外れ爺」と目が合ったままであった。皺の切り刻まれた顔から覗く「外れ爺」の視線は驚くほど黒目が大きく、その事に今更に気付いたのであるが、気付いてどうなる事もなく、僕と「外れ爺」は十秒間ほど視線を合わせていた。

 すると「外れ爺」は突然に大きく息を吸い込んで、腕を後ろに組み胸を膨らましつつ空を見上げると、


「あーたーりー」


 と叫んだのである。今まで僕の記憶の中では「外れ爺」が「はずれ」以外の奇声を発した事は無く、話にも聞いたことが無かった。まさに予想など出来るはずも無く、僕が何かをしたのだろうかと一瞬で考えてしまったのである。しかし、どうであろうか。僕自身が何かをしたことは全く身に覚えが無いのであった。

 僕は「外れ爺」がこの後どのような行動をとるのかに興味が沸いてきた。「外れ爺」を知っている方がいれば、無理も無い事と思われるであろう。


 しかしながら暫く僕が「外れ爺」を眺めていると、「外れ爺」は空を見上げていた清冽とも悄然とも受け取れる表情の顔を元に戻し、まだ三時前だというのに、僕を省みることなく茣蓙をたたみ始めたのである。その、僕に向けた後ろ姿は、僕が思っていたより小さかった。

 結局「外れ爺」はその後、僕を一顧だにせず何時も帰る方角へ帰っていった。まだ日は明るかったが、その次第に小さくなっていく「外れ爺」の後ろ姿がどことなく寂しく見えたのは、僕の錯覚ではないと信じたいのである。


 次の日、僕は通りに響く乱暴なエンジンの音で目が覚めた。論文を深夜に書き進めようと儚い努力をした僕の頭は、この機械の駆動する音を受け付けないらしく、酷く頭が痛くなったのである。

 どうやらこの狭い通りで、トラックが作業をしているらしかった。そういえば「外れ爺」はどうしているのだろうかと気になり、僕はいつもの「外れ爺」を眺める姿勢で外を見たのである。

 狭い通りには大き過ぎるトラックの周りでは、作業員が二人で自動販売機の撤去作業をしていた。

 当然、何時も「外れ爺」が鎮座していた茣蓙は無く、そして「外れ爺」の姿は何処にも見受けられないのであった。


 僕はそれ以降「外れ爺」を見ていない。「外れ爺」が居なくなって今まで耳にしていた、

「はーずーれー」

 という声が聞こえなくなったところで、論文が進んだかというとそのような事は全くなく、逆に「外れ爺」が居ない事が気になってしまい、筆が遅々として進まなかった為に提出期限に間に合わなかったものであるから、全く持って困った事だと我ながら恥じ入る次第なのである。

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