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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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23/70

フリージア

 なぜかというに、僕は知っていたからだ。

 世界の全ては僕を蔑み蔑ろにすることで嘲り罵る価値もないと看做し放置することで自己の地位を築き上げることを。

 僕などという地を這うことも許されず硬い地中の中で目に見えぬ世界を手探りで進む土竜であるべきなのだと、出会う全ての人々が嘲り嗤い指をさして「あれを見てごらん、否、見ることすら汚らわしいものだ、差した指の先から腐ってしまいそうになる」などと愚弄することを。

 言い換えると、僕を取り巻く全ての物事は、ただ、僕を裏切る為だけに存在しているであろうことを。

 知っていたのだから。

 だから僕は裏切られるのならば、これ以上裏切られることのないよう、裏切られることで自分が傷ついて立ち行かなくなるのであれば、いっそうのこと僕を取り巻く全ての物事を世の中から消し去ってしまえばいいのだという導き出された、広大な岩山から削りだされた僅かビー玉くらいの宝石のような、僕にしか知りえることのできなかった真実を、そっと壊れぬように手にしていなければならない。

 ならないというよりも、手から零れ落ちてしまえば取返しがつかない。

 ひと言、僕が話せば、それは単語となる前に、他者からの非難を受ける。ふた言、僕が話せば、それは文節となる前に、他者からの軽蔑を受ける。小指を動かせば、それは胡乱な行為だと言われる。一歩踏み出せば、嘲笑の的となり「進むならば進めよ、あははははは」と笑われる。

 どうせ進めやしない、僕はいまいるこの場所から一歩も進めないことは、誰に言われるまでもなく、自身が一番理解している。泥沼に足を取られた木偶人形のように。或いは両足を縛られたまま外に出ることの叶わぬ咎人でもあろうか。後ろにならばいくらでも下がれるというのに、自分の正面百八十度から前方に体重を傾けるだけで臓物を須らく吐き出してしまう。

 呪われたが如き己が身上を理解しているのだが同時に、ここから一秒でも早く足を踏み出さなければならないことをも、理解しているのは、僕なのだ。進めやしない一歩を進まなければならないとし、しかし一歩どころか半歩すら、否、半歩すら及ばず親指の先すら微動せず踵が地面から離れず、紛うことなく踏み出すことすらしない僕を視て。


「他人が嘲笑っているだろう、見下しているだろう、と考えているのだね。自分のことを取るに足らぬ存在を認めている割には、他人からの視線に随分と敏感なことだこと」

 ユキカゲは躰を蜜柑のように丸めて、畳んだ両前足の小さな隙間に顔を埋めながら言った。


 もし世界に彼女だけ、フリージアだけしか存在しなかったならば考えないことだ。


 フリージアだけが僕を地中深くから掘り出してくれた。沈み込んだ僕の手を取ってくれたのだ。


 この包丁が切れないの、とフリージアが僕に阿ったのは、一昨日の夜だった。


 だから、わたしには、料理が出来ないのよもともと才能はあるのよだから道具が悪いのよほら言うじゃない何事も失敗したらまず道具を疑うべきだっていやそんなこと言わないというか僕は耳にしたことが無いよいいえそういった言葉があることをわたしはしっていますだから早急に包丁を買いに行かなければならないのですどうでもいいけどそれは包丁というよりもどちらかといえば果物ナイフに近いんじゃないかなどうだっていいじゃないそんなこと片方がとがっててなんかがきれればそれは包丁っていって意味が通じるんじゃないかしらうんまあ大まかな意味で切れるものっていうことでいえば通じるかもしれないけれど困る人だっているんじゃないかないないわよそんな人いやほら例えばフレンチレストランの厨房で新人くんが間違ったものを先輩に渡して怒られて明日からはこなくていいだなんて悲劇が起きるかもしれないしそんな馬鹿な新人くんはわたしの知ったことじゃないしたとえそんな人が実際にわたしの目の前に現れたら。


 ――殺して食べてしまうから、いいの。


 僕の耳元で囁いたかすかに肉片が残っているだけの骨になったフリージアを、同じように骸骨になりかけている僕は抱きしめてから腐りかけた彼女の唇を吸い寄せる。僅かに残っていたフリージアの肉片を舌が既になくなってしまった僕は味わう事ができず、そのまま咽喉へと滑り込むのだけど、僕の躰だって駄菓子屋の前で癇癪をおこして母親に金切声で叱られている子供によって千切れ細切れにされたすかすかの綿飴みたいなものだから、ちょうど食道を過ぎた辺りで、ゼリーがコップの淵からテーブルに落ちるようにして僕の躰から零れ落ちる。

 床に転がったフリージアの唇の肉片は舌平目のムニエルみたいで、それを、僕らの方に眠そうな足取りで近づいてきたユキカゲさんが、ニ三度、鼻先で突っついてから美味しそうにして舐めている。

「ねえ、だから包丁を買いに行こうよ。フランフランとかのお洒落な包丁がいいな、わたし」

「僕も一緒にいくの?」

「そうよ、怖いの? 外に出るのが?」

「怖くなんかない」

「だけど震えてる」

「それは、また、あの肥えて脂ぎって肥った、僕の肉を食べに来る奴らの中にいかなくちゃいけないだなんて」

「そんなこと怖がらなくていいよ」

「どうして」

「包丁を買って、それで奴らをスライスにして食べちゃうの」

「とてもいい考えだ。そうするともう腐りかけて骨が見えすぎている僕らには肉が戻ってくるのだろうか」

「違うわ戻ってくるんじゃないの奪い返すのよもともと世界に住む人々の体重は均一だったのよ失われた均一を取り戻すのただそれだけのことよ」


 僕とフリージアはお互いの骨に残っていた僅かな肉片をそれぞれ食べながら咀嚼することも嚥下することすら消化することなどは勿論のこと叶わず、食いちぎった先からぼたぼたと床にこぼしてしまう。こぼした肉片も当初はユキカゲが興味を持って舐めていたが、やがて飽きてしまったのか見向きもしなくなった。

 あらかたお互いの肉片を食べきって骸骨になったので、フリージアは指先で僕の骨を撫でるようにして全身をくまなく探索する。慰撫するフリージアに欲情した僕はいつものように彼女を床に押し倒してセックスを始める。

 骨だけになった骸骨の僕と、骸骨になっても美しいフリージアの姿態がいつの間にかカーテンのかかっていない窓ガラスに夜景を背景として映し出されている。骸骨の二人はお互いに求め合い、やがて関節がひとつ、またひとつと離れていく。そうして懸命にセックスをする僕とフリージアはやがて人の身体を為さぬ骨の塊となり、どちらが僕でどちらがフリージアなのか分からぬ骨片の丘となって、フリージアの部屋に収められるのだ。


 信じられるかい、フリージア。このときの僕は、まだ自分がこの先も何食わぬ顔して生きていけるだなんて、少しだけ真剣に考えていたんだ。

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