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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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22/66

フリージア・マイナスワン

 どうやら、此処は、苔が鬱蒼と茂るのに適しているらしい。そっと、右足を差し出し、幾層にも重なって倦むべきものとしての生物と成り果てた、それらへ、覆い被さり圧死させるように、僕は己の右足を強く踏み込む。そうすると、僕の右足に踏まれている苔達は「さあ、左足も」と、左足をそのままにしていた僕を諌める。意を決し、左足を右足の少し斜め前に踏み込んだ僕の足元から、苔達が競りあがってくる。そう、彼らは待っていたのだ、取り込むことを、この僕の躰を取り込んでしまう、その時を。しかし、と、考え直してみよう。なぜ、苔に取り込まれてはいけないのだろうか。


 フリージアが猫を連れてきた。


 猫はアビシニアンという種別らしい。僕にとって、猫といえば猫以外の何ものでもない。猫の種別なんていままで気にしたことなんてなかった。だから、痩せ枯れて腐った肉の隙間から神経が見えているフリージアの手に抱かれてきた猫になんて興味があるはずなかった。

「お客さんがさ、ちょっとの間、預かっててくれって。頼まれちゃってさ」

 猫が抱かれていない方の右の乳房へ顔を寄せて、僕の唇はフリージアの腐りかけている乳首を吸い始める。いつも、フリージアが帰ってくると、玄関で僕はフリージアの躰を味わう。ところが、今日は猫を抱いている所為で、存分に味わえない。

「何か理由があって」

「んん、なんて言ってたかな」

 フリージアは猫を抱いたまま、僕の顔を素っ気なく払いのける。藍色のハイヒールを乱暴に脱ぎ捨てる。そして僕に後姿を見せたままリビングへと向かう。

「その人、カフェのオーナーでさ。昼間は自分で経営してて、夜は友達にお店貸してるの」

 フローリングの廊下に、ところどころ垂れ落ちたフリージアの肉片を辿って、彼女の後を追う。フリージアーはソファへ腰をおろし、そして両手で、猫を、万歳でもさせるように、僕へでっぷりとした白い毛の生え揃った腹部でも見せ付けるかのように、抱え込んでいる。猫は嫌がる素振りも見せない。切りそろえられたサッカー場の芝のような、やや茶色がかった毛並みは、生える植物など何一つ無い中東の砂漠を僕に想い起こさせる。

「で、店を、貸してるから?」

「……なんだっけなー。詳しい話、聴いてたはずなんだけど」

 彼女は猫の喉の下辺りを撫でる。

「はは、忘れちゃった。名前は憶えてるんだよ。とてもとても、可愛い名前なんだ」


 猫の名前は、ユキカゲという。どこをどう解釈すれば、ユキカゲが可愛い名前になるのか、僕にはさっぱり理解出来なかった。少なくとも、ユキカゲだなんていういかにも勇ましい、戦国時代の武将だか日本帝国海軍の戦艦のような名前のわりには、ユキカゲは「彼女」と呼ばなければならない、生物学上の解釈では、紛れもない雌なのだった。


「ところで、君は、なにをしているの?」

 フリージアが東急ハンズで買ってきたミルクボールへ僕が注いだ牛乳を、舌先をリズミカルに動かしながら、ユキカゲは訊ねてくる。

「何をって」

「どうして彼女の部屋から一歩も出ないで、まるで彼女の帰りを待ってるペットみたいにして、一日中、ねえ、ごろごろと。これじゃあ私と君と、どっちが彼女に預けられているのか、わかったもんじゃない」

「こうして貴女に、飲み物をあげてるじゃないですか」

 別に君に与えられなくても、私は私で食べるものも飲み物だって手に入れられるよ、とユキカゲは言う。

「むしろ、こうして私に牛乳を差し出す行為というのは、君にこそ必要がある行為じゃないのかしら」

「……心外ですね」

「試しに、そうだね、明日は牛乳は要らないよ。私に与えなくてもいい」

 ユキカゲはミルクボールから僕へ、そのビー玉みたいな眼を転じる。

「……と、私が命令をしたとする。だけど、君は、きっと私に牛乳を与えたくなる。きっとね。そういうものなの」


 僕はユキカゲへ反論しようとする。しかし、ユキカゲは、ついと僕から顔を背けると、背筋を伸ばし、大名行列でも引き連れているような威厳を漂わせて、細く開けられた窓からベランダへ出て行ってしまう。しばらくして僕がベランダに出ると、ユキカゲは、既に居なかった。ユキカゲが戻ってこなかったらどうしようか、と少しの間だけ僕は不安になる。でも、それはそれで仕方の無いことだと、諦める。やがて、僕はフリージアの躰を舐めたときの味覚を反芻し始める。それは甘美な、猫なんて獣には到底不可能な、遊戯なのだろう。


 六月の夜は、白むのが早い。電車の始発がそろそろ動き始めるころだろう。もうじき、フリージアが部屋へ戻ってくる。彼女を待ちわびて、床へ大の字になったまま天井を眺めていた僕の顔に、ユキカゲが覆いかぶさってきた。

「天井を視ていたの?」

「天井を」

「視えた?」

「ええ、床に寝転がってる僕と同じ姿勢の、同じ恰好で、同じ顔をして、同じように骨と腐った肉が引っ付いただけの僕が、天井へ大の字になって、必死に、両手と両足を食い込ませるみたいにして、本当はいまにも苦しすぎて握力なんてひとかけらもなくて手を離してしまいたいのだろうに、それでもにたにた嗤いながら、しがみ付いてましたね」

 それは結構、と呟いて、ユキカゲは僕の隣に丸くなり、そうして二人でフリージアの帰りを待った。


 これは、極めて巧妙に仕込まれた、サーカスだ。


 ところどころ錆びている鉄格子の檻の中に僕は連れ込まれる。否応なしに、右手をぐいと捕まれ、放り投げるようにして檻の中へ収監されてしまう。誰が僕を引いていたのか、確認する暇もなく、その明るさもなく、やがて暗闇が反転したみたいな照明が僕を射抜く。半円形のステージの真ん中に、僕は檻に入れられたまま、存在する。檻の周囲には、それらの向こう側になにがあるのか見渡せないほどにぎっしりと、まるで小さなダンボールに積み込まれた安物で偽者のテディベアみたいにして、全裸の人々が群れている。老若も男女も、彼ら彼女らが日本人であるのかどうかすらも解らないほどに、近く密接してちょっとした契機があれば結合してしまうほどに近く、群れている。否、群れているというよりも、流動している。人々は、一様に、肥え太り、いまにも毛穴から脂が滴り落ちてきそうなほどに、いや良く観察してみれば、それぞれの人々の毛穴からは脂がにじみ出ている。なにより異様であるのは、人々の口は口でなく、鳥類が持っているような嘴であることだ。人々は、その嘴を、檻の隙間から僕の腐りかけた躰を啄ばもうとでもいうのか、我先に我先にと差し込む。折り重なり、前列を追い越そうと檻の上部からも嘴を差し込もうとする人々は、やがて僕が入った檻すらも覆い隠し、彼らの塊の一部としてしまう。四方八方の檻の隙間から差し込まれる嘴は、時を移さずして僕の躰を啄ばむ。躰を、頭髪の剥がれ落ちた頭蓋に残った肉の残土を。二の腕の肉を、筋を、食み出した大腸を、まだ動いている心臓を血管から引き剥がし、そうして啄ばまれた僕の欠片たちは、人々の臓腑に取り込まれる。僕の一部を取り込んだ彼らは、一様に、それぞれが、贅肉の蠕動をはじめ、そうしてさらに肥え、太り、人間としての原型を辛うじてとどめた、肉塊となり、弾け、後方へ飛ばされ、そして次に嘴を差し込もうとしている人々に場所を譲る。僕は叫べない。舌も声帯も全てが啄ばまれ、亡骸でもなく遺骨でもない、檻の中にさえ存在することが「許されていない」ものであったかのように、消えてしまう。炎があったなら、人々を燃やし、消し去り、消し炭にして、僕を守ることが出来たのだろうか。


「ナッポリターン」

 大盛りの皿いっぱいに盛られたスパゲッティを両手に持って、フリージアはダイニングへ入ってくる。料理をしたことがないフリージアに教えた料理(そもそもスパゲッティを茹でて、レトルトの具を混ぜたものを料理と呼んでも差し支えないのならば)は、僕が彼女に教えた二つ目の料理だった。一つ目の野菜炒めは、彼女に「炒める」という概念が無かったために挫折した。

「私は洋食は好きじゃないね」

 ユキカゲは舶来種のくせに、ついとそっぽを向いてダイニングから出て行ってしまう。フリージアは「この裏切り者め」とユキカゲの背中に悔し紛れの言葉を投げかけるが、ユキカゲは見向きもしない。

「可愛げないよね」

「いつまで預かってるの? ユキカゲ」

 頬肉が削げ落ちて頬張ったものが見えてしまうフリージアは、頬の隙間からスパゲッティを幾本か食み出させながら「さて、いつまでだろう。そういえば訊いてなかった」と言う。

「それじゃあ預かっているというよりも、譲り受けたんじゃないの?」

「ううん、それならそれで、いいよ」

 隣の部屋からユキカゲが「いい加減な女だね」とため息混じりに呟く。彼女の口の端に、ソースがついていた。僕はテーブル越しにそれを拭ってやる。そのままフリージアの口腔へ腕を差し込む。舌を触る。フリージアは初め嫌がっていたが、やがて大人しく舌を差し出す。そのまま喉に指先を入れ、さらに食道を通り、彼女の臓腑を触れるようになると、僕の腕は肘の辺りまで彼女の中へと入り込む。僕は隙間だらけの彼女の体内を弄り、やがて心臓を掴み、揉み、鷲づかみにしたままの状態で、しばらく停止する。彼女の心臓は鼓動している。確かに動いている。定期的に、ではなく、間歇的に、大きく跳ね、それからしばらく停まる。僕はフリージアの心臓を握る。

「ああ、気持ちいいね、それ」

「僕らは、すくなくとも僕は、奪い返さないといけないものがある」

「なにそれ」

「啄ばまれた、肉だよ」

「それは、誰、から、奪い返すの?」

 僕の腕を飲み込んだまま、それでも全く苦しそうな表情を見せず、フリージアは応えてくれる。僕の言葉に応える。

「見れば、わかる。奴らは、すべからく、異常に肥満している」

「ふううん」

「奴らの」

「肉を削いで、捲り、剥いて、切り取り、剥がし、焼き、焦がし、脂が滴る肉を、そして食べる。そうなのね」

「そうだ」

「食べたら、わたしたちの腐った躰は、血肉を取り戻すのね」

「そうだ」

 隣の部屋でユキカゲが背伸びした。僕はフリージアの体内から腕を引き抜いた。食べかけのナポリタンを床へ巻き散らかした。その上、僕とフリージアは全裸のまま戯れる。

「それは、いつ」

「いつだっていい、今日だって明日だって。奴らが逃げることはない」

「わたしも連れて行ってよ」

「もちろん」

「わたしから逃げたりしては、駄目よ」

「もちろん」

「こういう気持ちをなんて言うか知ってる」

「知らないでもない」

「愛してるっていうらしいよ」

「僕が知っているのと違うね」

「君が知ってるのはなに」

「教えられない。もしかしたら知らないのかもしれない」


「でも、血肉を取り戻したわたしを、君はきっと愛せないよ」


「私はね、預けられてるわけじゃないんだ」ユキカゲは僕の胡坐をかいた足の間に収まっている。

「やっぱり貰われて」

「それも、違うね。そもそも私は、誰かに飼われていたわけじゃない。普通に、と言ったら可笑しいかもしれないが、あんたら人間が言うところの野良猫だった。まったく気ままなね。それを、彼女にどっかのペットショップに連れて行かれて、毛並みを整えられて、ここに来た」

「カフェのオーナに飼われていたわけじゃない」

「そんな人間知らないね」

「じゃあ、フリージアが嘘を吐いている」

「そういうことになるね」

「どうして」

「どうしてだって? そんなこと、私が知るものか」


 後ろから照らす夕日を、僕は直接に見ることが出来やしない。ならば、僕の目の前に鏡を置いて、反射する夕日に目を細めて、みよう。すると視えてくるものがある。薄目を開けた視線の先には、僕がまだ幼かったころの姿が視える。僕は五階建ての団地の、五階に住んでいた。父と母と姉と弟と一緒だった。僕はベランダの手摺りを跨いで、そこに座る。やがて両足とも、外側に向けて、手摺りを掴んでる手を離してしまえば、僕は五階から落ちてしまう姿勢になる。部屋の中からは母親が心配そうな顔をして、片時も目を離さない。そうじゃなくて、僕を抱えて、部屋の中に連れ戻して欲しかったのだ。そうでなければ、そのまま突き飛ばして、五階から落として欲しかったのだ。ただ見ているだけだなんて姑息な真似はしないで欲しかったのだ。僕に嘘を吐いたフリージアは隣で寝ている。僕はそっと、あくまで軽く、彼女の首を絞めてみる。寝ているはずのフリージアは、微笑む。

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