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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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21/69

フリージア・マイナスツー

 悪夢だろうと、それが淫靡な夢であったとしても、夢から醒めることは現実を迎え入れることと同義だ。人間は、いや人間に限らず犬や猫やライオンや尾長鳥や、たとえシーラカンスであっても眠っているときに夢を見ているのだとしたら、夢というのは醒めたときに否応なく入り込んでくる、現実へのリハビリなのかもしれない。さあ、これからお前が迎えるべきリアルは、この夢よりも、さらに悪夢に近いのだと。

 しかし、その日の僕は、夢を見なかった。

 だから現実を受け入れる準備なんて出来てなかった。

 リアリティなんていらないと思った。

 僕は息苦しくなる。そして目を覚ます。見たことのない天井。目にした事のない天井の染み。触れたことのない毛布の柔らかさ。いつも寝ている布団よりもベッドは高い位置で僕を眠らせる。枕はどこかへ逃げてしまったか、それとも初めからなかったのか。

 僕の隣には、フリージアがいる。

 確固たる存在を示すことで、昨晩、僕のいままで生きてきた人生の軌道から外れてしまった、出来事の連なりを、フリージアは僕にフラッシュバックさせる。彼女はまだ眠っている。髪が頬に落ちる。躰の右側を下に、自身で腕枕をするように、膝を曲げて胸元で抱え込むようしてフリージアは、僕の耳には心地のよい寝息をたてている。そして、フリージアは、毛布に包まれた、その躰に、一糸すらまとっていない。僕も裸のままだった。僕が上半身を起こすと、ベッドが軋む。部屋の中にはベッドとサイドテーブルと、それから窓際に置かれている熱帯雨林にでも繁茂していそうな観葉植物が、床が抜けそうなくらいに重厚な花瓶から遠い熱帯雨林への望郷の念を漂わせている。灯りは点いていないがブラインドの隙間から漏れてくる光で十全に視界が確保されている。その光は、明け方の暁ではなく、日中の、健全な人々ならば身体を動かしてくなるような、生態的に活動を促す、光だ。つまり僕にとってみれば一番浴びたくない光だ。

 ベッドが軋んだ音でフリージアが喉を鳴らす、猫のように。そして指先で目をこする。左目だけを薄く開けて、焦点を僕にあわせたように見えた。

「きみが橋の向こう側にいて、手を振ってたよ」

「僕が」

「そう。木とか沢山生えてる山の中で、橋の下は、川が流れてるんだけど、そこまで二百メートルくらい、あるの。きみは、手を振りながら、橋をわたしがいるこちら側に渡ってくるんだけど、橋がとても古い、江戸時代からあるみたいな吊り橋でね。きみが吊り橋の真ん中くらいにきたときに、橋を吊ってるロープがみしみしみしって切れ始めて、それで、しばらくきみは橋の真ん中で、様子をみてたみたいにじいっとしていたのだけど、そのままじゃ駄目だと思ったんだろうね。焦っていたのだと思う。だから、わたしの方へ走り出そうとして、はじめの一歩目を踏み出そうとしたらその足が橋の板を踏み抜いちゃうの。それで、きみは、二百メートル下の川に落ちて、見えなくなっちゃった。どうしてきみは、落ちゃったのかな」

「それは、僕が聞きたいよ」

 フリージアは眠そうに目を擦りながら、躰を起こす。布団を埃が舞うくらいの勢いで跳ね除ける。「トイレ」とだけ言い残して、寝室を出ていく。僕は、そんな彼女の仕草を、まだ半分は眠っている瞳に映している。いま見えるフリージアは、裸のままで、躰のどこも腐ってなくて、皮膚は剥がれていないし肉は削げ落ちていないし、骨だって露出してない。僕は自分の手を、ブラインドの隙間を縫って入り込んでくる陽光にかざしてみる。そこにもきちんと皮膚と肉があり、僕も腐ってない。

 しかし、僕は知っている。

 この躰が、既に腐敗して、もはや生きていくに足る肉体ではない、ということを。


 フリージアは、夕方ごろに家を出る。代々木上原から新宿まで移動して、そこで夜通し風俗嬢として働く。他人に躰を売る。僕は出勤前の彼女に食事をつくる。キッチンは、あらゆる調理器具と道具があり、無いものといえば、料理をする人間だけだった。

「料理なんて、したことないよ。わたしが何をつくっても、多分、とても食べられたものじゃないよ」

 フリージアは僕の耳元でささやく。彼女が作らないのは良いとしても、僕が食べたくなる。そして、一人も二人も、作る分にはさして影響しないから、当然のことながら、僕はフリージアの食事も用意する。用意する、といってもせいぜいがトーストを焼いたりスープを作ったり、レトルトに産毛が生えたようなものだ。それでもフリージアは喜んでくれた。

「自分の家で、食事が出来るなんて、夢見たい」

 自慢じゃないけどわたし包丁も握ったことないのよね、フリージアはリビングダイニングに設えられた、一メートル四方のパイン材で造られていて表面には白いタイルが清潔にモザイクしているテーブルの上に両肘を着いて、重ねた両手の上に顎を乗せて、そして片目をすうと細くしながら食事の準備をしている僕を観察している。そして、出された食事を、とてもじゃないけど美味しそうにとはお世辞にも言えない、むしろテレビドラマで人を殺してしまった後の犯人のような表情で「美味しいね」と僕に言う。フリージアの言葉に僕は頷く。

 彼女は食事を終えると、簡単に洋服を選んで、それから出勤する。僕はそれを、玄関の框で見送る。彼女を見送った後は、僕はフリージアの部屋でたったひとりの夜を過ごす。部屋には彼女の薫りが残っている。立錐の余地もなく、フリージアの残像が見えるような気がすた。それぞれの場所で、それぞれの仕草のフリージアが、半透明で向こう側の景色を透かしながら、まるで美術館に飾られたホログラムみたいにして、部屋の中に投影されている。その頃、彼女は、僕以外であることは確実な男たちに、躰を舐められ愛撫され、そして男たちを愛撫し、躰を売っている。僕はそのことを考えないわけにはいかない。ただ、いつしか、そういった妄想に悩まされることもなくなる。僕が僕であり、こうして彼女の部屋で彼女の幻影を視ているのと同じように、彼女は男たちに躰を売っている。

 夜が更けてくれば、僕の躰は次第に腐りだす。彼女の躰からも腐臭が漂いはじめるころだろう。フリージアが仕事を終えて部屋へ戻ってくると、僕らはお互いに、お互いの躰が腐っていることを確認して、安堵する。

 このようにして、僕は、フリージアとの生活を、続けることになる。僕とフリージアが愛し合っていただとか、袖触れ合うもなんとやらといった情が絡んだ結果、ではなかったと思う。僕と彼女との間には、一ミリの愛情もなかったし、一ミクロンの友情もなかっただろうし、一マイクロの同情すら存在していなかっただろう。かつて、僕にもあった、ただそこに存在するという紐帯で結ばれた家族なるものとも、また違ったつながりを、僕は求めたい。フリージアは、僕の話をそれほど興味深く聴かなかったし、僕も彼女との会話を愉しんでいたわけでもない。僕とフリージアは、一緒の部屋に住んで、食事をして、歯を磨いて、シャワーを浴びて、フリージアはドライヤで髪の毛を乾かして、僕は髭を剃って、排泄してセックスをして眠って、そうしてフリージアは自分の躰を売りに出て行き僕は彼女を見送るのだった。

 そればかりの繰り返し、山も谷も、生活の彩りもしめやかな愛情表現も、ない。僕とフリージアは、たまたまそこに居て、たまたま一緒に住んでいる、というだけの関係に、僕はすっかりと馴染んでしまった。こういった僕の物言いは、考えようによっては不謹慎なのかもしれない。なんといっても僕はフリージアの部屋に押しかけて居座ってしまったようなものだ。そういえば、僕の借りていた部屋はどうなったのだろう。家賃を払わず、連絡もつかず、といった状況のままであれば、契約は当然のことながら解除されているだろうし、僕のわずかながらの家財道具も撤去のうえ廃棄されていることだろう。まあ、良いかなと思う。それほど大事なものがあったわけではない。却って、そこに住んでいた僕、あの日にフリージアを出会わずに以降もその部屋で住んでいる未来を選択した僕、という存在を抹消してしまうには、都合が良いのだとも思う。


 いつもどおり、フリージアの出勤を見送り、そうしてテレビを点けっ放しにして、僕がリビングのソファに腰を深く沈めていると、チャイムが鳴った。僕がフリージアの部屋に住みはじめてから、チャイムが鳴ったのは初めてのことだった。僕は、一瞬だけ、出ようかどうか迷う。しかし、正式に僕がこの部屋に住んでいるわけではないし、届け物であればまた後日に届けにくるだろうと楽観的に考え、しばらくチャイムが鳴るにまかせていた。しかし、その夜の静けさを不躾に破ろうとしているチャイムは、いつになっても鳴り止むことがなかった。一分たっても、二分たっても、チャイムは鳴り続けていた。そのうちに、チャイムだけでなく、扉を力任せに殴る音の連なりが、はじまる。どぐん、どぐん、どぐん。そして。

 ――誰か、そこにいるのはわかってるんだ。

 観念して出て来い、と男の罵声が僕の耳に無理やり土足で入り込んでくる。観念して出て来いとは、また随分と時代がかったもの言いだと、僕は少しだけ呆れる。仕方なく、ソファから立ち上がり、玄関の外を映している室内モニタを確認する。モニタの向こう側では、黒いスーツを着こなして、きちんとした身なりをしている、三十前後の男が扉を叩いている。その後ろ、男とは半歩の距離を置いて、モニタ越しで解るほどに高級そうなスーツを着こなしている、それこそスーツを着てやっているとでも言い出しかねない風貌の男が、漫然として立っている。後方に立っている男の頭頂部には残り少なくなった毛髪を懸命に撫で付けているように見える。扉を叩いている男も、そして後方で立っている男も、僕の知り合いであるはずがなかった、否。

 この、頭頂部の禿げている男は、どこかで視たことが、ある。

 気まぐれに沸き起こってきたデジャヴに、僕はモニタに釘付けになる。しかし、どれほど注視しようとも、彼が僕が生きてきた中のどの場面で現れた人物であるのか、当て推量さえもつかない。それでも、必ず、どこかでこの男を視たことがある、という確信に突き動かされて、僕はモニタの中の男を凝視し続ける。扉を叩いている男は、その動きを止めようとする気配はない。そのうちに、近所の住人たちが何事かと野次馬になって集まるかもしれない。それは、少しだけ困るが、むしろ困るのは向こう側なはずだ。ふと、モニタの中にいる二人の男の映像が歪む。目を一度閉じて、そしてもう一度モニタという枠の中にいる男たちを確認する。すると、二人の男は、先ほどよりも、肉付きがよくなっているように、観ぜられた。その肉付きは、扉を叩いている男よりも、後方に立っている男の方が、より豊満であるような感じがした。肌からは油が滴り落ちそうな。血色のよい男の肌はやがて膨張し始める。いや、肌が膨張しているのではなく、これは、男の躰に着いている肉が増えている。ところどころの部位が蠕動する。躰の部分部分が、台風直下の海洋のように、波打つ。そうして、男は巨大な肉塊に、顔と手と足が着いた、饅頭のようになる。

 これは、僕と逆ではないか。

 僕とフリージアは躰が腐り、肉が崩れ落ちていく。

 男は肉体が膨張していく。

 胃からせり上がるものを感じ、僕は身をかがめた。そうして、ワックスで磨かれたフローリングの床に嘔吐する。なんだ、こいつは、何者なのだ。僕とフリージアから削げ落ちた肉が、この男の躰のうちに取り込まれ、波をうち、男が豚のようになっていくのを、僕は眺めているだけしかできないのか。いや、もはや視ることすら、厭わしい。この、男は人間じゃない。したがって、この、男は僕の視るべき人間じゃない。それでも、モニタから視点を逸らすことが出来ず、手探りで近くにあるものを探す。そこに、花の刺さっていない花瓶があった。その細くなっている部分を掴み、僕は底部をモニタへ叩きつける。液晶のモニタは、不細工な残像を残して、暗くなる。ブラックアウト。花瓶には二本か三本のひびが入る。画面の男たちは消えたが、それでも扉を殴打し続ける音は止まない。それを黙らせるために、僕はひびの入った花瓶を床に勢い良く落とす。花瓶は、疎らな大きさと小ささと、不条理な角度と体積で、床に四散する。扉を叩く音は消えない。僕には花瓶が割れたときの音が聴こえなかった。扉を叩く音は止まない。音は、やがて一定のリズムになる。


 僕は、地下鉄の先頭車両に乗っている。シートには座っていない。立ったまま運転席への扉の横に凭れかかる。運転席は暗く、そこに人がいるかどうか窺い知れない。前方のガラス窓から地下鉄の電車が進む方向を見通すことが出来る。こうしてみると、地下鉄というのは、僕らが歩いている地面よりもはるか下にある、暗い洞窟のようでもあり、地下に張り巡らされた蟻の巣にも喩えられるようなトンネルの中を進んでいるのだと実感する。僕らはいつも地下鉄のホームと車窓の外を黒い横線が走り去っていく様子しか知らない。だから、これが本当に地下を進行しているもなのかどうか、確信が持てない。だけど、こうして、車両の行く先を見据えてみることで、自分が地面の遥か下に埋まっているのだとようやく解る。

 いくつかの駅のホームが、洞窟の中に点々と、休憩所の灯りのように、瞬いている。そうなのだ、この場所では、灯りこそが異端児なのであり、常態は、あくまで闇の領域なのだ。

 車両の進むレールの上に、まだ生まれたばかりのような赤ちゃんが敷かれている。その赤ちゃんは、一人でも二人でもなく、それこそ数えるのが不可能な無量大数として、二本のレールの上に、横にして、延々と、車両が進む先のさらに先まで、まるで市場に並べられた魚のようにして敷き詰められている。それぞれの赤ちゃんは、肌着すら身に着けておらす、無垢な、やや肉付きのよい躰をしていて、車両の中にいるからなのかどうか、誰も鳴き声をあげている様子は見受けられなかった。僕は、先頭車両が灯すライトに映し出されたそれらを、わずか一瞬で読み取ってしまう。いや、読み取れてしまった。

 やがて、車両が持ち上がるような、感覚を感じる。

 僕は目を遣っている先頭車両の窓硝子は、即座に血飛沫によって染められる。血だけではなく、ところどころの硝子に肉片の一部、あるいはもう少し大きな手であるとかまだ毛髪が生え揃っていない頭部の残骸であるとか内臓の一部だと思われる細長くてピンク色をしているものだとかが、次々と張り付いていく。それらは、車両とトンネルの隙間を縫うようにして、後方へと流れていく。車両の扉や横の窓硝子にも、血と肉片が、流れ星が擦ったあとのように、綺麗な赤色と茶色の中間色で、染めていく。赤ちゃんたちの轢死体の残骸は、レールの上に並べられた数だけ、正確に、車両がひき潰し押し潰し轢断していく。電車はまるで、それが実務的な作業のひとつであるかのように、速度を緩めることもなく、寧ろ速めるかのようにして、暗い、地下の造られた、赤ちゃんを轢き殺しながら、洞窟の中を滑走する。

 止めてくれ、いますぐ止めてやってくれと、僕は客席と運転席を隔てる硝子越しに運転手をなじる。硝子一枚隔てているとはいえ、それを通しても聞き取れるほどの声で僕は叫んでいたから、運転手に聞こえないはずがなかった。運転手は帽子も制服も黒いくせに、車両を動かすレバーを握っている手にはめられている手袋だけがやけに白くて目に付いた。僕は、もういちど、あらん限りの大声で、電車を止めてくれ赤ちゃんをこんなに轢き殺して良い道理なんて、あるわけがないと、運転手へ言う。そして、硝子を、ひびが入ってしまわなかったのが不思議なくらいの力で、叩く。ようやく、運転手の肩が震え、そうしてから運転手は、緩慢な動作で振り返った。徐々に、運転手の顔があらわになる。

 運転手は、僕と同じ顔をしていた。毎日、鏡で見飽きている、僕の顔がそこにあった。

 そうだった、何を勘違いしていたのだろう、僕という人間は。僕こそが、いま生まれて間もないであろう赤ちゃんたちを轢き殺している殺人列車の、僕こそが運転手なのだ。口元に笑みがこぼれる。口角から、涎が溢れ、顎と首筋を通って襟の中に滑り込んでいく。その間も電車は絶えることなく、途絶えさせる気もないように、赤ちゃんたちを血と肉片へと轢いていく。レールの、遥か彼方、車両のライトが灯している先までも、赤ちゃんたちは並べられ、じいとしている。それは古代の王が死した際に、墳墓へ並びながら殉死していった人々の群れのようだ。次の駅には、もう着くことはない。僕は、電車を運転しながら、延々と永遠に連綿と続く未来の限り、車輪で赤ちゃんたちを轢殺していく。ちょうど、都合よく、まだ据わっていない頚で切断された、赤ちゃんの頭部が、散逸してしまいつつある四肢の欠片み混ざって、頚の切断面からから細長い紐状のなにかをぶら下げながら、車両のフロント硝子へと飛んでくる。その赤ちゃんの生首は、硝子へぶつかると、生首自体が細かい分子へと変換されてしまったように、硝子をすり抜けて、車両を運転している僕のレバーを握る、その手の、あるべき場所に、ジャンベの低音のような音をたてて、落ちてきた。その生首は、僕の顔をして、そして、僕の声帯をつかって、僕を非難する。なぜ、殺したのかと。


 絶叫する、僕を、助けてくれるのは、誰?


「今日、フリージアが仕事に行ったあと、あやしい二人連れの男が、来たよ」

 フリージアの身体を愛撫しながら僕は不審な二人連れのことを報告した。彼女は下半身だけ服と下着を脱いで、ベッドに寝ている。細くて長い指をもったフリージアの両手は僕の頭を、髪の毛に指先を埋めるようにして鷲づかみにしている。彼女は、僕だどれだけ念を入れて愛撫しても、聞き耳を立てれば聴こえる程度に息を荒くするだけで、決して喘いだりしない。その、僕にってみればどんな音楽よりも心地いい吐息に混じらせるように、フリージアは、どんな二人だったのと、僕にだけ訊ねてくれる。

「一人は、大声出してドアを叩いてた男は、三十歳くらいの男で、ちょっと派手なネクタイをして、顔つきが馬みたいな男だった。そいつの後ろに突っ立ってたのは、黒い高級そうなスーツを着て、ポケットに手を突っ込んで、禿げ頭を残った髪の毛で必死になって隠そうとしてるやつ」

「ふうん、きみっていまいち観察力っていうのが、ないよね」

 フリージアは両足を絡めて、僕を締めつける。

「いや、それだけじゃなくて。僕はモニタでしかそいつらを視てないんだけど、ずっと視ているうちに、その後ろで立ってた男が、ぶくぶく太りはじめてさ。そりゃもう、しぼらなくても毛穴から油が滴ってくるんじゃないか、っていうくらい、肉っていうか脂肪が増えていって。なんだか、よくわからないんだけど、最後には力士の二倍くらいの体重になってて」

「それで、気持ち悪くなって、インターホンのモニタを壊しちゃった、のよね」

「悪かったと思ってる」

「うそうそ、そんなこと全然思ってないくせに。別に、いいのよ、わたしの部屋には誰も来るはずないし、来るとしたらミキ姉くらいだけど、ミキ姉だったら前もって携帯に電話してくるしね」

 僕は、友達はいないのかと彼女に問う。別に要らないもの、とフリージアは素っ気なく言い捨てた。彼女の物言いは各駅停車しか停まらない駅を通過する特急列車みたいだった。

「でも友達じゃないにしても、ちょっと危ない雰囲気だったけどね」

「危ないの? どうして?」

「あくまで主観だけど」

「わたしに何かする、っていうことは絶対にないと思うな。危害を加えられるとしたら、きみにかもしれない」

 フリージアの下半身から、上半身を丁寧に舌で這い回りながら、最終的にフリージアへキスをしようとする。しかし、彼女は顔を背けて、キスを許してくれなかった。

「あの調子だと、殺されかねない感じだった。それに、僕は、どうしても思い出せないんだけど、あの後ろに立ってた男には、見覚えがある気がするんだ」

「ふうん」

 僕からの愛撫を避けるようにして、フリージアは起き上がる。そして、ベッドから足を下ろす。しばらく足先でスリッパを探しているような素振りをする。それから彼女は、

「たぶん、それはパパだと思う」

 と呟きながら、立ち上がった。

「パパ? 愛人の?」

 僕の言葉が終わるか終わらないかの境界線上で、フリージアは躰を曲げて笑い始める。肩を震わせて、右手を壁に着いている。彼女以外、世界中の人間が全て死に絶えて、あとに残された彼女はもう、笑っているしか現状を表現しようがない、といったように笑っている。

「ばっかみたい」

 フリージアは僕を振り返る。揺れた髪の毛はところどころ、僕の唾液で湿っている。彼女の髪は、クリームシチューの味がする。彼女の耳たぶは砂糖とミルクを入れすぎた冷めている紅茶の味がする。

「パパってね、違うよ。お父さんって意味。実の、一応血が繋がってるはずの、父親、だよ」

 フリージアの左目の眼球は、サクマドロップのオレンジとマスカットが混濁した味がする。

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