フリージア・マイナススリー
瀕死って感じよね、フリージアは僕に手を貸して立ち上がらせながら、まるで労わる素振りもなく言う。
「そんなに酷い怪我?」
「怪我っていうよりも、眼つきが、かな」
「眼つき?」
「ああ、僕はもう終わりだ全部お終いだ助けてくれ神様、ばんざーい、で崖から飛び降りる直前、みたいな感じ」
フリージアは僕に肩を貸しながら片手で祈るようなポーズをする。
「……神なんて信じてない」
もし神がいたなら、僕はこんなところで怪我をして女の子に同情されもせずに肩をかりて歩いていることなんてなかっただろうに。
「神は死んだってやつ? まあ、そうね、神様っていうのはわたしも嫌い」
とりあえず縋っておけば後は自分のことなんて万事オーケーみたいな簡単な気休めみたいなところがねと、フリージアは姿の見えない神様を蔑む。僕はフリージアに担がれる恰好で、力なく歩き出す。そうか、こうして他人の肩を借りて歩くっていうことも出来るのかと思う。
僕が気を失っていた細い路地を抜ける。フリージアが何処へ向かっているのかは知らなかった。あらためて問いただす気もなかった。彼女に舵を切らせたまま、僕はただの動力を失った船になる。右目にいつもと違う違和感を感じる。というよりも、目蓋が完全に閉じてしまって、開くことができない。僕に残った左目は、辛うじて残った神経を伝わって視界情報を僕の脳に送る。目の前の突き当たりに、新宿区役所がある。すると僕は、気を失う以前からそれほど場所を移さずに、あのサラリーマンたちに殴打されていたようだった。
新宿区役所に突き当たり、フリージアは僕を右へと導く。途中で、体重が有り余った黒人が聞き取ることが難しい日本語で声をかけてきた。フリージアは一顧だにせず、僕はもともと反応することができない。女の子に担がれて歩いている怪我だらけの僕を貶しているのだろう、と言葉の調子から感じる。
区役所通りに出て、ミスタードーナツの脇にある小道へ入った。靖国通りはまだ夜の喧騒を湛えている。人通りは激しく、彼ら彼女らの夜というのはこれから始まるか、あるいは終わらないかのどちらかだろう。フリージアの呼気が僕の耳朶にふきかかる。少しだけ、くすぐったい。これだけの怪我をして――実際のところ未だ客観的には自分の怪我の状況を理解出来ていないけれど感覚からして骨の一本や二本は折れているかもしれない――いるというのに、女の子の吐息を感じる神経が残っていることに僕は苦笑いを堪え切れなかった。
「笑ってるの? 痛すぎてまた気がおかしくなったとか」
「もともとおかしくなってる」
「煙草切らしてるんだけど、あなた持ってない? 軽くてもいいよ」
「煙草吸わないから」
僕は首を振ろうとしたが、首筋に釘を打ち込まれたような痛みで、蟻の行列くらいしか首は動かなかった。着いた着いたとフリージアが踊るような声を出す。そこは戦後に建てられたみたいな低層の建物が連なって、それがフォークの先みたいにして列をなしている一画だった。飲み屋街らしく、店の前を通る度に艶っぽいライトを小道に投げかけている店内から、男女の区別が付けづらいような嬌声が聞こえてきたり、ジャズの音楽が漏れ聴こえたりしてくる。ところどころの店の前に客引きの女性が立っている。不断ならば通る人間を店内へと誘うのだろう。しかし女の子と、肩を担がれて血を流しているような二人組みを誘うようなことはどうもしないらしい。その代わり、フリージアに親しげな声をかけてくる。
「あら、フーちゃん、新しい男?」
フーちゃん? おそらくフリージアのことだろう。
「うーん、どっちかって言うと売れ残って値引きされた中古品かな? 百円でどうぞーって感じの」
新しいも古いもないだろうに、よりによって中古品。もっとも品物として勘定されているだけでも有り難いのかもしれない。それから二人くらいの客引きに声をかけられた後、フリージアは通りにある飲み屋の一つに入った。俯いていた所為で、どういった外構えなのかを見ることは出来なかった。
木の扉を軋ませて店内に入ると、気温が十度くらい上昇したような熱気に包まれる。熱気と、ニコチンの甘い匂いと、世の中のアルコールを全部凝縮したみたいな香りと、それから粉っぽい化粧が混ざった空気が僕の鼻腔を刺激して、僕は背中を揺らせて咽びかえる。俯いていた僕の視界に、誰かの爪先が入ってくる。真っ白な、そこだけ消毒してしまったような、細長い靴に、白いストッキング。
「ちょっとフー、なに、これ」
「拾った」
掠れたような低い、それでも女性らしい声音にフリージアが答えた。拾ったって……お前なあと、消毒された靴の女が呆れたように溜息交じりに言う。おそらく僕を観察しているような間が空く。その、間延びしたわりに緊迫感のある空気に耐えられずに僕は痛みを堪えて顔を上げる。すると、そこには、カウンタに凭れかかり腕を組んでいる看護婦、いや今は看護師というのだったか、とにかくそういった白衣を着て三角巾みたいな帽子を被っている、椎名林檎がプロモーションビデオで着ていたようなスタイルの女性が、僕を観察していた。ここは、病院? 小さな、煙草とアルコールと化粧の匂いに満ちている小さな個人病院。あまりに想像外の状況に僕は絶句する。
「あの……」
「おお、喋れるのかこの汚物は」
看護婦は組んでいた腕をほどき、片手を顎にあてて上半身をかがめるようにして僕の顔を覗き込む。
「にしたって、他のお客もいるんだから、ここに連れてくんなっつうの、馬鹿娘。拾い物は交番へっていうのが世界の常識だろうが。脳みそが五割くらい足りてないんじゃないの?」
「えー? だって、ミキ姉のところが一番近かったし」
「近かったし、じゃないよ」
軽く蹴ろうとした看護婦の足をフリージアは巧妙に避ける。二人のやりとりに取り残されていた僕はそれでも必死に、
「……えっと……ここは病院……ですか?」
と訊ねた。それを聞いた「ミキ姉」とフリージアに呼ばれた女性は、高笑いをする。しかし、高笑いをしながら、明日にでも全世界を巻き込んだ核戦争が起こってしまえばいいとでも言い出しかねない不機嫌な表情だ。
「こんなところに病院があってたまるかよ、この無知蒙昧なスーパーヘテロダイン」
スーパーヘテロダインの意味は良く解らなかった。それでも、僕は残り少なくなった思考を回転させて考える。つまり、ここは「そういった趣向の飲み屋」なのだろう。そういえばミキ姉以外にも何人か、同様の恰好をしてる女性がいた。それぞれが興味深そうに、あるいは迷惑そうな顔で僕を眺めている。つかず離れず、自分にはた迷惑な火の粉が飛んでこないような距離感を保っている。
ふんまあいいや奥に放り込んでおけば、ミキ姉の言葉に従ったフリージアが僕を店の奥にある、二畳くらいの休憩室のような場所へ連れて行く。そこの床に僕を寝かせて、脇に座り込んだフリージアが僕に微笑む。どうして彼女は僕なんかに微笑みかけるのだろう。そして飲み物がいるかと訊いてきたので、僕が水が欲しいと口にしてフリージアが部屋から出て行った足音を最後に、安堵と苦痛が折半された感覚に包まれながら、記憶が途切れた。
僕は、ある場所に立っている。
取り巻く周囲には、僕を中心としているかのように、二メートルくらいのビルが立ち並んでいる。ビル、ではなく、もしかしたら長方形の模造紙にに窓硝子を描いただけの薄っぺらい、ビルの絵だったかもしれない。それらがほとんど隙間なく、僕から放射状に広がっている。
目の前にあるビルの絵が描かれた模造紙に僕は触れようとする。しかし、目の前にあるはずのそれに、僕は触れることが叶わない。
距離的には、絶対に手の届くところにあるはずなのに、触れない。
触れなければ、もっと、近づけばいい。
僕は足を踏み出す。そうすると、目の前の模造紙は、パタムと音を立てて向こう側に倒れてしまう。それを皮切りに、僕を中心として連なっていたビルが描かれている模造紙の群れは、強風が吹きすさんだかのようにして、倒れてしまう。
やがて、僕は、周囲になにも林立することのない、果てのない白い荒野へ、たった一人だけで立ち尽くす。
僕は心からフリージアに会いたい。
荒野の、どこか数キロ先にある、端が捲れる。それは一箇所だけでなく、荒野の端という端が捲れ返り、手拭が蜜柑を包むように僕を包もうとせり上がる。やがて、僕は、そうして包まれることを良しとする。包まれてしまえばいいじゃないか。何かに包まれている限りは、誰にも触れられることがない。そして、僕も誰をも触れられないのだから。
そいつは、グラウンドに引かれた白線で、人間の輪郭を白線で形作られている。そのくせに、造詣は中途半端で、目と口が、おざなりに描かれているだけだ。
白線のままのそいつは、引かれていたグラウンドから立ち上がる。
もうじき僕は、そいつに食べられてしまうのだろうという焦りを感じる。僕は山の稜線の向こうに上半身だけを覗かせているそいつから、必死になって逃げようとする。
名前も忘れてしまったような、小学校のときに恋焦がれた彼女は、車に乗ったまま、僕から急速に離れていく。僕は取り残される。
僕はひとりで柿の木に昇っている。柿の木は枝が折れやすい。僕は慎重に手をかけ瘤に足の乗せて昇っていく。もう少しで、熟れた柿に手が届きそうになる。
柿を掴もうと伸ばした手の先に、彼方の公園で友達が集まっている。数人の友達は、それぞれがプレゼントを手に持ち、輪を作っている。
そうだ、今日は、特別な日だったのだな。
でも僕はどうして柿の木になんか登ってるのだろう。そうだ、友達からお前はあの木に登っててよちょっとの間でいいから木に登っててと言われて、仕方がなく柿の木に登っているのだ。
別に、柿が欲しかったわけじゃない。食べたかったわけじゃない。僕だって、友達と一緒にプレゼントを持ってきたのだ。だから、僕もあの輪に入りたい。
しかし、僕がいる場所は、友達たちから離れすぎていた。手も届かない、僕の声は向こう側まで伝わらない。
それなのに、友達たちがさざめいている歓声だけは、こちら側の、僕の鼓膜まで届いてしまう。
ねえねえ、ほら、みんな、僕も仲間に入れてくれよ。そう僕が口にしようとした刹那。
遠くで愉しそうに笑いあっていた友達たちが、一斉に僕を振り返る。その複数の視線は、僕をとても哀しくさせる。ごめんなさい、ごめんなさい。と僕は繰り返しあやまる。誰に? 謝ってるの? 枝折れる。僕は一直線に、落下する。落下し続けていく。
神経が麻痺してしまうような痛覚に驚いて、僕は覚醒する。そして、痛いと口にしそうになり、それも痺れるような顔面に広がった激痛から、言葉が口の中で消えてしまう。薄目を明けると、フリージアが横になっている僕の顔を覗き込むようにしている。彼女の右手はピンセットらしきものを摘むようにして持っている。ピンセットの先端には、水分を十全に含んだ綿のようなコットン。そのコットンで、フリージアは僕の顔を、ぺたぺたと軽くはたいている。熊の人形を与えられた子供が、その人形を突きまわしているかのように見えたことだろう。そして、彼女が僕の皮膚を水分を含んだコットンで突くたびに、千枚通しで刺されたように、痛む、なんてものじゃない。これは、消毒液? 僕は、あまりの痛さに、痛いとも言えず、くぐもった呻きを漏らした。
「あはは、起きた、起きた?」
笑い事じゃないだろう。
「ねえねえ、ちょと、じっとしてて。いま消毒してるから、すごいの、顔中腫れちゃってるし、お店であったのと別人みたいになってるよ、あなた」
喋りながらも、フリージアはコットンで僕の顔を突きまわす。これは看病されているというよりもむしろ、玩具にされているという感覚がする。
「うん、よし、とりあえずこんなものか」
と一人で納得したフリージアは、僕の視界の隅でごそごそと何かを手にすると「ていっ」と僕の腫れあがっている顔に乗せた。ガーゼだと思う。薬局で売られているような、三十センチ四方はあるガーゼをそのまま僕の顔に乗せたのだ。
「あれ? おかしいな。ちょいミキ姉。これってさ、このままテープでぐるぐる巻きにしちゃえば、いいのかな?」
「勝手にしろよ。ミイラにでもマミィでもミッキィにでもしちまいな」
どうやらフリージアはミキ姉の言葉には忠実に従うことにしているらしく、フリージアは片手を僕の頭の後ろへ入れてこころもち持ち上げると、「えい」という掛け声の後で、粘着質のテープが気持ちよく剥がされていく音をたてて、僕の頭を回っていった。そして、僕は顔面に巨大なガーゼを張り付かせたまま、寝かされた。
「あは、なにこれ変なの」
変なら外して欲しい、と思う。でも、僕はそのままおとなしく寝ている。なんだか、全て、為すがままにされているのに、不快ではない。不思議だ。フリージアとミキ姉は、僕に何も尋ねない。どうして、こんな怪我をしているのか、なぜあんな場所で気を失っていたのかといった、穿鑿をしてこない。それが心地よい。
「で、どうするの、これ。拾ってきたんだから責任もってお前が処理しろよな」
「……あの」
僕は顔中にかぶさられたガーゼの向こうへ届くように、声を出した。
フリージアは「おおう、吃驚したよ」と言う。
ミキ姉は「ふん、なに?」と鼻から息を洩らすように言う。
「あまり、厄介になるのも迷惑だろうと思いますが、その、迷惑ついでと言ってはなんですが」
「迷惑についでもなにもないな」
「お金、を、その、なんというか、貸してください……帰る電車賃がなくて」
そうなのだ、このときの僕の財布には、部屋に帰るための金もない。もっとも部屋に帰ったところで返せるあてがあるわけでもなし、銀行が開いたとしても絶望的な金額しか残されていないのだけれど、それでもこの場で恥をしのんで百円でも二百円でも借りたほうが、怪我だらけのこの身体のままで歩いて帰るよりかはまし、というものだ。もっとも、もう捨てる恥もない。自分の中にある羞恥心やら自尊心といったものは残っていない。部屋に帰って、そのまま死んでしまえば、借りた金を返す心配もしなくていいだろう。
「ふうん、で、いくら貸して欲しいの」
気まずい沈黙が前方に進むのを横着したかのような時間のあとに、ミキ姉が処置なし、といった具合にため息交じりに言う。僕はキリのいいところで、五百円貸してくださいと頼む。
「ああ、いいよ。五百円で厄介払いできるっていうなら、お安い御用だ。貸すもなにも、五百円くらいくれてやるよ。その代り、二度とここに来るなよ。フーにも近づくな」
僕は首を上下に振る。
「よし、じゃあ、ちょっと待ってな」
ガーゼに覆われて見えないが、ミキ姉が立ち上がって場を外す足音が聞こえた。しかし完全に足音が消え去る前にフリージアが、ちょっと待ってとミキ姉を呼ぶ。はた、と足音が止まる。
「ほら、あたしが拾ってきたんだし、あたしんち連れて帰ってもいいかな、ミキ姉。あは、そんな怖い顔しないでよう」
何がどうなってこうなったのか。他人に説明すれば信じてもらえないだろうし、そもそも上手く説明出来るとも思えないが、僕はフリージアに連れられていま、代々木上原にいる。
顔面を覆っていたガーゼを剥がしてもらい、傷がある部分にだけ貼ってもらった。
それでも、どう贔屓目にみても、百歩譲って印象を良くしようと足掻いてみても、ところどころ破かれた洋服と、そこに染み付いた血と、それから隙間風を防ぐようにガーゼを何箇所も貼られた僕の風貌は人目につく。新宿駅へ向かう間も、小田急線に乗り込んだあとの車内でも、人の目が刺さるように痛かった。いや、むしろ、この風貌で警察官に声をかけられなかったことを僥倖とすべきかもしれない。「そういえばさあ」フリージアは僕と手を繋ぎ、僕を引っ張りながら代々木上原の路地を歩いている。
「きみ、なんであんなところに血まみれで倒れてた、わけ?」
今更ながらに訊ねてくる。それは訊ねて欲しくなかったことだ。訊かれて、素直に答えられるものではないし、僕が答えを知っているというわけでもない。
「どっかのヤクザに絡まられたとか、中国人とか韓国人とか、多いから、あの辺、気をつけたほうがいいよ。気をつけてても、殺されちゃうときは殺されちゃうんだけどねー。あたしのさ、店にいた、マヨちゃん、あ、この子、ご飯でもなんでもマヨネーズかけちゃう超マヨーラーだったからマヨちゃんなんだけどさ、彼女なんてお店に来たお客さんの、あそこをさ、ちょっと馬鹿にしたらそいつがたまたま中国人マフィアと繋がっててさー。次の日にね、近くのビルで、階段の踊り場で、ずたずたにされて殺されてたのよ。だから、きみも、気をつけたほうがいいよ」
「僕は、多分、そんな人たちとは関わらないと思う」
僕は普通の一般人だと、僕はフリージアの後ろ姿に声をかける。彼女は、普通の一般人さんとかは、あんなところで血まみれになって倒れてなんかいないものよ、と返答する。フリージアは僕の腕を引いて、僕が怪我をしてることなんて忘れてしまったかのように、ずんずんと進んでいく。いくつかの角を曲がって、それから細かい路地を抜けて、車がすれ違えるかどうかの道路を渡る。そうして、僕の目の前に、二十階建てくらいの、ひとまずエレベータがなければ上にはあがりたくもなくなるような、高層のマンションへと辿り着く。フリージアは、そのまま歩を緩めることもなく、自動ドアの前にある、見たことも無い機械にカードを挿入した。自動ドアが開く。それからもうひとつ、自動ドアを抜ける。そこは左手が守衛室になっている。マンションのエントランスだ。エントランスの正面には、カバが水浴びしたくなるような噴水というか、滝が流れて下に池が出来ている、オブジェのようなものがある。自動ドアで外と仕切られている所為で、湿気を強く感じる。
「これさー、はっきりいって、邪魔なのよね。蒸し蒸しするの、ここ通るたびに。今度、この滝の水止めろって管理会社に言ってやるんだ」
「冬場とか乾燥してるときには、ありがたいんじゃない?」
「そうね、梅雨とか夏とか真夏とか残暑とか、もー湿気とか要らないってときには、ありがたくないよね、全然」
エレベーターは十五階へと僕とフリージアを運ぶ。扉が開き、閑静な、歩くたびに足音が気になってしまう廊下を抜けて、フリージアは部屋の扉を開いた。フリージアは先に入る。靴を適当に脱ぎ散らかして、僕を顧みることもなく、彼女はさっさと、奥へ進んでしまう。痛んだ身体をいたわるようにして、僕は靴を脱ぐ。そうして、左右に幾つかの扉がある廊下の突き当たりの、さっきフリージアが入っていった扉を開く。そこは、僕の住んでいるアパートの一階部分を全部合わせても余ってしまくらいの面積の、多分、リビングと呼ばれるものだったと、思う。そのリビングから、また幾つかの扉がある。
「……これは凄い広いね。広すぎる。部屋とかいくつあるの?」
「六部屋、かな」
呆れた、数だ。マンションで、部屋が六部屋ある物件なんて、いままで寡聞にして拙く貧しい僕の人生の中で聞いたことも見たことも触れたことも想像したことすらない。フリージアはファッションヘルスの仕事だけで、そんなに稼いでいるのだろうか。それとも、ほかに副業をしているとか。僕が問いを発する前に、フリージアは僕の疑問を溶かす。
「パパがね、お金だけはあるのよ。お金、だけ、はね。はは、だけだけ」
パパ。愛人契約。そんな言葉が僕の頭を掠めた。少なくとも、つい数時間前までの僕には接点の無い言葉だった。何となく、自分で行動を起こすこともなく、流されるままにこの場所まで来てしまったけれど、僕はいったい、何をしているんだ。どうして、風俗嬢と、彼女の部屋で、普通に会話をしているんだ。いま、この場所に立っている僕は何者だ。絶対に、僕自身ではない。僕はこんなところにいてはいけない。僕は怪我なんかしちゃいけない。これはもう、僕なんかではない。では、いま、思考している、この実体は、誰だというのだろう。こうして、他人と会話をしていると、僕は浮遊した感覚に支配される。口を動かして舌をまわして声帯を震わせているのは、僕ではなく、僕の中に入り込んだ、僕のカタチをした亡霊みたいなやつが、会話をするのだ。そんなことを言う必要はない、会話なんて無駄だ。そんなことを知りつつ、僕ではない僕は、会話をしてしまう。いつも、そうだ、僕はそんなことを言う人間なんかじゃないんだ、と五秒後には本当の自分が悲鳴をあげる。黙れ、お前は喋るんじゃない口を開くな、と。
じゃーん、と言いながらフリージアはカーテンを開く。カーテンは黄色で、名前も知らない花の模様がプリントされていて、この部屋、少なくともリビングにはカーテンにプリントされた以外の花がなかった。フリージアが開いたカーテンの向こう側は、しばらく低層住宅が続いたあと、新宿都心のビル郡や、ドコモタワーなどが、暗さの弱まっている夜空に、燦然と自身の誇りや栄華や金満ぶりを誇示し、足下に僕らのような、何も持たない人間を従えている夜景が広がっていた。つまるところ、僕はそれらに、支配され、踏み潰され、磨り潰され、汚水に流されて、溝の中で腐ってしまうのだ。窓に張り付き、夜景を眺めていたフリージアに、僕は後ろから抱きついた。そのままスカートをたくし上げ、下着を脱がし、そうして彼女を窓に張り付かせたままの恰好で後ろから犯した。夜景が映っている窓硝子は、鏡のように室内にいる僕とフリージアを鮮明に映し出している。僕の身体は、また赤土みたいにして、泥に塗れて、肌が剥がれ、肉が崩れ落ちていく。骨があらわになっていく。やがて頭髪が抜け落ち、眼窩から眼球が神経に繋がれながら垂れて落ち、やがて神経がぷつりと切れて、眼球は床に落ちる。頭頂部には頭骨の表面に薄い皮と焼け野原のような髪の毛が残っている。眼窩の奥は暗すぎて見えない。やがて身体中の肉が崩れ落ち溶けてしまう。鏡に映し出されているのは、フリージアを犯している、骸骨だ。
「ああ、やっぱりね」
フリージアは窓硝子に頬をあずけている。
「きみは、骨だけの人になってしまったんだね。でもね、いま、ようく見てみて」
彼女は窓硝子に両手をついて顔を窓から離した。僕は、その時、ようやく、気が付く。新宿の夜景に透けている僕ら二人が、二人ともが、僕だけでなくフリージアさえも。皮も骨も肉も内臓も今日食べた食事も糞尿もすべて溶けてしまった、骨だけの人形になってしまったことに。この、二人の骸骨は、奇妙な、穴だらけの軽石と、フライドチキンを食べ終えた後の骨が、たまたま当たったときのような奇抜で心地良くてリズムのある音楽を鳴らして、懸命に、セックスをしているのだった。




