転がるガールと三つ首の竜
都営新宿線の神保町駅で同じ都営線の三田線へ乗り換える。乗り換え時間は今の時間帯なら少なく見積もっても四分ある。新宿線から三田線へ乗り換えるには階段を降りて通路を三十メートルくらい歩く。三田線の発車時刻が迫っていると、三十メートルある通路を走る必要が出てくる。まあ、差し迫って時間に追われているわけでもないから、ゆっくりとでいいよね。そう考えながら高円寺千絵は本八幡行の新宿線の電車から降りた。
千絵が降りた車両の新宿寄りにある別の乗降口で、不自然な人の流れが目に付いた。乗降口に少しだけの人だかりが出来ている。千絵も釣られて覗いてみると、千絵が乗っていたのと同じ車両の中で男性がひとり倒れていた。まるで、そこに我が家のベッドがあるかのように、ごく自然に倒れていた。濃紺の制服を着た駅員が二人こちらに向かってくる。それから人の集まりを掻き分けるようにして車内へ入り、男性の脇に腰をかがめた。
眼鏡をかけた男性は千絵の父親くらいの年齢だろうか。薄くなりつつある頭部と、捩れたネクタイと、それから皺と埃の中に仕事へのプライドのようなものを一緒くたにしてしまった鞄が男性が倒れている足元に無造作な恰好で置かれている。千絵が観察している限りでは、男性は動く様子がなかった。あまり見ているのも野次馬根性的な嫌らしさがあると感じて千絵はその場を後にした。
もしかしたら、あの男性は死んでいた、のかもしれない。或いは単純な病気か気分が悪かっただけなのかもしれない。それでも、自分が乗っていた車両で、人が倒れていたというのに、その事実に全く気が付かなかった自分に千絵は軽い失望を感じた。
千絵はいつも電車に乗っている時間を読書に充てている。一応はポータブルミュージックプレイヤも鞄に入っているが聞くことは殆どない。プレイヤへ収められている曲数もここ半年は変わっていなかった。あの、耳へ直接鳴り響いてくる音楽、というものがどうしても千絵には好きになれない。それよりも、本を読んでいる方が、いま自分が電車に乗っていることを忘れさせてくれる。会ったこともない隣に座っている乗客が性犯罪者かもしれないし、目の前で吊革に捕まっている人物がたった数時間前に人を殺してきた殺人鬼かもしれない、そういった有象無象の、または得体の知れない世間、社会を形成する他人への恐怖に黙して耐えるためには、小説でも読んで自分の意識を現実の外へ持っていくくらいしか上手い方法が千絵には思い浮かべられなかった。だから、男性が同じ車両で倒れた事実にも、気が付かなかった。これは無理やりの自己欺瞞だろうか。
新宿線のホームから階段を降りている途中で列車が発車する、カモノハシの集団が鳴くような音が聴こえた。すると、死人、それともなければ病人は車両から運び出されて、電車はいくらかの遅れを生み出しただけで、表面的には何食わぬ飄々とした顔つきで運転を続けるのだろう。たった一人の異常事態で社会全体を支えるシステムが揺らぐことはありえない。それは人情が無いであるとか、暖かさがないといった実しやかな批判の的にはなりえない。システム、或いは共同体という社会を構築するための機構は自身が創出された必要性を過去に置き忘れて、存在そのものが目的化されることが一般的だ。一般的という言葉に語弊があるならば、まあそんなもんだよ世の中って、という言葉に置き換えてもいい。
「やあやあチエチエ。朝から火星人と金星人のクウォータみたいな歩き方をしてるね。もっと、しゃきっと歩かないとだめだよ」
千絵が三田線のホームへ向かう地下道を両脇の広告看板を目にしながらゆっくりと歩いていると、声をかけてきたのは同級生の大塚真鶴だ。彼女の後ろを歩いているのはボーイフレンドの東中野仲埜だった。いまどきボーイフレンドなどと呼ぶだろうか? しかし真鶴は彼氏や恋人などとは一度も呼んだことがないのだから、彼女の中では彼氏や恋人とボーイフレンドの間にはもしかしたら明確な線引きがされていて、東中野はそのちょっとした本人も気が付いていない境界線をいまだに(もう付き合い始めて三年は経っているはずだ)越えることが出来ない、のだろう。
「火星人とも金星人とも会ったことがないんだけど?」
「あっれー? ほら、ゴジラに出てきたさあ、あの首が三本あって、ドラクエⅢのヤマタノオロチみたいなのなんだっけ」
「キングギドラ」
東中野が、ぼそりという擬音がしっくりするような言い方で答えた。
「それよそれ、キングギドラを操ってたのって、金星人じゃなかったっけ?」
「違う。キングギドラを操ってたんじゃなくて滅ぼされたのが金星。ちなみに三日間で。操られていたというなら、怪獣大戦争のときのエックス星人のことだと思う。怪獣総進撃ではキラアク星人の持ち駒みたいな扱いだ。いずれにせよ、一貫して敵役に抜擢されているあたりが興味深い。きっと、何度殺されても足りないくらい地球が憎いんだろう。もしかしたら白亜紀あたりに地球へ来た宇宙人がサンプルで持ち帰った恐竜が、宇宙人によって遺伝子操作された結果がキングギドラなのかもしれない。その宇宙人によって、遺伝的に地球への憎しみを植え付けられていた可能性も否定できない。政府が国民へ特定の国を憎悪するように教育してる国みたいにね。なるほど、キングギドラとそういった国々の人には、ある一定の敵を想定して憎ませられている共通点があるという仮説も成り立つわけだ」
「成り立たない、全然成り立たないよ。むしろ成り立たせたくない」
真鶴が東中野へ突っ込みをいれたときにちょうど高島平行の電車が到着するアナウンスがあった。三人は春日駅で降りた時に改札へ上がる階段に近い乗降口の前に並んだ。千絵の横に立った東中野は腕を組んで、しばらく首を傾げてから千絵へ「成り立たないかな?」と同意を求めてきた。
「うーん、成り立つ成り立たないの前に、キングギドラって、誰?」
真鶴が、芝居がかったように、大袈裟に驚く。
「えっえええー! 千絵知らないの知らないの? おっかしいなあ、ゴジラシリーズに出てくる怪獣は日本人の基礎知識だと長年思ってたんだけど、その認識を改める必要があるかしら」
「改めて、ね、きれいさっぱり改めてくれると、わたし、嬉しい」
「じゃあさ、タッチで和也が死ぬ、っていうのはいまさらネタバレにはならないわよねえ?」
「わあ、そうなんだ」
「なんてことかしら、日本のゆとり教育の弊害がこんなところへ顕著に示されてしまうだなんて、あたしはどうしたらいいの? 泣けばいいの? 怒ればいいの? 笑えばいいの?」
「笑えばいいと思うよ」
「あ、そこはちゃんと知ってるわけね。安心、安心」
なにが安心なのだろうかと知恵は訝ったが、また下手なことを言うと話が変な方へ寄り道してしまうから黙っていた。寄り道するくらいならまだましだが、縒れて捩れて二重螺旋のような会話に発展してしまうことが、真鶴の場合には多い。多いどころではなく、真鶴や東中野と話していると、二人が果たして正しい日本語を使って会話しているのかどうか怪しくなることが偶にある。たぶん途中でラトビア語に切り替わっていたとしても、千絵にはそれと気が付かなかっただろう。
風圧を感じる。高島平行の電車がホームへ入ってきた。千絵の黒髪が揺れて、隣に立っている東中野の肩に触れる。千絵の髪は背中のちょうど肩甲骨あたりまで伸びていた。来月あたり美容院へ行こうか、と千絵は揺れる髪を、まるで他人の髪のように眺めながら、来月の予定を思い起こす。第二週の土曜日は確か丸一日空いていた。よし、その日に予約を入れておこう。ホームへゆるやかに進入してきた電車は、徐々にスピードを緩め、やがて停車した。缶ビールのプルタブを開けたときのような音がして扉が開く。降りる人たちを避けるように両脇へ寄って、それから真鶴、千絵、東中野の順番で電車に乗る。三人が乗ってから空いている席を探している間に扉が閉まり、ホームの風景が動き出したと錯覚するようにして発車した。通勤ラッシュの時間帯を過ぎていたので乗客はそれほど詰め込まれていない。それでも三人が並んで座れる場所はなく、千絵と真鶴が座り、二人の前に東中野が立っている位置関係になった。
千絵は車両の中を見渡す。さきほどの、車内に倒れていた男性の記憶が頭をよぎる。いま、この車両に、倒れている人がいるかどうかを確認する。大丈夫、いない、わたしが気づいていないわけじゃない、と自分を納得させるようにする。真鶴と東中野は黙っている。車内で非常識な会話をしない常識は持ち合わせているのだ。千絵は電車の中で会話をする人たちや、化粧ポーチから千絵も見たことがないような化粧道具を出して必死に自分を化かそう装おうとしている人たちの気持ち、というのが上手く後追い出来ない。どうして自分のプライベートを、見も知らない人たちの前に曝け出すことを躊躇しないのだろうといつも不思議になってしまう。自分には、出来ない。それが正しいとか間違っているとか、道徳的にどうとかではなくて、単純に千絵には出来ないことに分類されている。
千絵は、数分前にみた車内に倒れている男性の記憶を拭うことが出来ない。今とは違う路線の違う車両で、状況としては電車に乗っているという共通項しかないのに、どうしても車内に誰かが倒れているようなデジャヴを起こしてしまう。しかし現実には倒れている人はいない。自分は気が付かなかった。本を読むことに集中していたとはいえ、人が倒れていることに気が付かなかったのだ。真鶴や東中野はどうだろう、気が付くだろうか。
他人が倒れていることを気が付かないのであれば、自分が倒れてしまえばいい。
千絵は立ち上がり、膝の上においたお気に入りの鞄を網棚の上に載せ、そのまま座らず、一歩踏み出し、空いている東中野の隣に立つ。ひといき、ふたいき、そして腰を落とし、まず体育座りのような恰好になる。心持ち体重を右側、東中野の反対側へずらし、そうして。
――ごろおん。
横になって倒れる。膝を抱えたまま。動いている電車の進行方向へ進む力に逆らうようにして、転がる。そうした千絵は、ああ、自分がいま倒れていて、自分はそれに気が付いていると、確認をする。
見逃してなんかない、気が付かないなんてことはない。
車両の床に、体育座りをしたままで横になり、くつくつと千絵は喉を鳴らす。周囲の乗客は興味半分、行動を誰何するような瞳を千絵へ差し向けるが、千絵はそれに捉われない。東中野が見下ろし真鶴は素っ頓狂な表情だ。千絵は二人を横目で見上げたまま、改めてくつくつと笑う。
「どうしたの? 急に転んで、笑い出して。頭のネジが三本くらい吹っ飛んだんじゃない?」真鶴は千絵に手を差し伸べて言う。「わたし、頭にネジなんて、ないよ」千絵は真鶴の手をとった反動で起き上がる。東中野は呆れたように「面白そうなことするね」と呟いた。




