フリージア・マイナスフォー
物事には順序というものがある。結果があれば原因がある。過程というものを粒さに調査していけば、着地点へ至るまで演繹的な事例を理解することが出来るだろう。例えば、僕の財布の中には、一円玉が二枚と十円玉が三枚しかなくて、具体的には三十二円しかなくて、銀行の残高も千円もない。そしていま僕は新宿の歌舞伎町から少し外れたところにいて、明大前の部屋へ戻るために電車にもバスにもタクシーにも乗ることが出来ない。まあ、四十分くらい歩けば着くことは着くけれど、そんな気力もない。という結果があるとして。二ヶ月前に派遣社員としての契約を打ち切られて、就職活動をしてもうまく事が運ばず、そうして貯金が目減りしていったなかで、最後の二万円を風俗に使ってしまえば、こういう結果に辿り着くのだ。
「ファッションヘルス天女の誘惑」から出て、僕はあてもなく歩いていた。比喩でも人生に迷ったわけでもなく、本当にあてが無かった。僕は、これからどうしたら良いのか自分でも途方にくれてしまい、仕方なく、やることといえば、足を動かすことくらいで、それでもどこかへ向かったとしても事態が好転する可能性なんて、一かけらも無いのだ。
くそ、どうして、僕が、僕だけが。
アルコールに塗れたサラリーマンの群れが、僕とすれ違う。それぞれが、スーツを着て、磨かれた靴を履き、四角い鞄を手にしている。ありきたりの、判で押したような勤め人の姿だ。だけど、そういった奴らが、ひと月に三十万円も四十万円も、大したことをしてないくせに銀行へ振り込まれ、半年に一度はそれに倍するボーナスを貰ってる。なんとか手当てだとかいって、それに加えて数万円も貰っているだろう。僕と、奴らと、何が違うというのだ。ほんの少し、運が良かったせいで、ツキに恵まれたおかげで、奴らはのうのうと生活している。結婚をして、子供を生んで、家庭を作って、そうして家を買って車を買って、貯蓄をして、何不自由なく子供を育てて、僕には手の届かない「幸せな人生」ってやつを謳歌している。僕は最後の二万円を風俗に使って、後は緩慢に死んでいくだけ。
死んでいくだけ? そうか。僕に残されたのは、もう、何も、することがないし、生きていくための金もない。すべて燃えてしまった後のキャンプファイアの薪みたいなものだ。都合よく使われて使えなくなったら捨てられて炭になって不要になって、この社会というものから捨てられるのを待つだけ、なのか?
ガードレールに腰掛ける。そうして、上を向く。そこにあるのは夜空とかじゃなくて、ビルとビルの間に嵌められたパズルのピースだ。電飾が、本来持っていたはずの黒を薄めてしまっている。そのパズルのピースを僕は注視し続ける。星なんて見えない。もし、そこに星があったとしても、絶対に僕には見えない。やつらには見えるけど、僕には見えないものがある。僕は永遠に星を見ることは叶わないのだ。やがて僕の視界の中で、パズルのピースが歪み始める。いや、歪んでいるのはパズルのピースだけじゃない。夜空の色に塗られたピースの周囲を形作るいくつものビルを含めて、僕の視界の全てが、歪む。夜空パズルのピースの一点を中心にして、それは歪むというよりも、その中心を円心として回転を始めたかのようになる。ビルのコンクリートや電飾や電飾から発せられている光やら窓硝子を通して映る蛍光灯の明るさやらが、ピースの中心点に振舞わされるようにして、徐々に細くなり、流されていくのだ。しばらくすると、それぞれの建物も人も灯りも空気の埃も僕の視界に入っているものは全て、掻き混ぜられごちゃごちゃにされ、次第にパズルピースの中心点に吸い込まれていく。そう、これは、渦に巻き込まれているのだ。景色が、僕が見据えている現実というものが、あの夜空の振りをしているパズルピースの一点に吸い込まれていく。ブラックホールみたいにして、その中心点の向こう側にある、僕が視認出来る現実というもの意外のどこかの世界へと葬り去られていく。
ああ、僕もそこに混ぜ込まれたい。この、安定を欠いた、僕にとっての現実というものが巻き込まれていく先へ、行かなくてはならないのだ。溶け込んで、その他の物質も粒子とか光とかなんやかんやと僕は混ざり合って、あの中心点の先へと辿り着くことが出来なきゃ駄目だ。そうならなければ駄目だ。僕は手をかざす。しかし、僕の手は、右手は、景色に溶け込むこともなく、夜空パズルのピースの中心点へ向かっている渦に巻き込まれることはなく、そこには右手が右手として、厳然として存在している。代わりに左手をかざす。左手も、そこにある。僕には、あの渦に巻き込まれて、中心点の向こう側へとなだれ込む権利がないとでも言うのか? 僕はもう、ここにある、現実には不要なのだ。僕には何も出来ないのだ。僕は何もさせてもらえないのだ。僕は何も貰うことが出来ないのだ僕はここで生活していくことがこれ以上は出来やしないのだ。だから、もう、いいだろう。いい加減に、諦めたらいいじゃないか。
物事には順序というものがある。
――あのねえ、来てもらっても、こちらも暇じゃないし。
結果があれば原因がある。
――君には期待してたんだがね。途中入社とはいえ、きちんとした大学を卒業して、真面目なようでもあったし、十分に期待していたのだよ。だが、これはなんだ? 営業成績はあがらないしな。同僚に金を貸して、それを持ち逃げされて、その同僚の行く先を社長に直接電話で聞いてどうするよ、そんなことがまかり通るとでも思ってたのか考えてたのかおい聞いてるのかどうなんだ! 自分から辞めることにするのか、クビだよクビ! 将来のことを考えたらだね、自己都合にしておいたほうが良いな。その辺、考えておきなさい。いいよ、もう出て行けよ!
過程というものを粒さに調査していけば。
――ここいるよりは、スキルアップに繋がるから、そちらへ推薦しておいたよ。これからはスキルがモノを言う時代だよ、自分で資格をとって勉強しなけりゃ駄目だよ。まあ、次の職場でも、頑張って。
着地点へ至るまで演繹的な事例を理解することが出来るだろう。
――これねえ、ずうっと派遣でやってきたの? 職場転々として? ほら、派遣の人は即戦力になってくれればいいけどさ、おたく、そういうわけじゃないんでしょ? いくら資格もってますっていっても、現場は違うから。社員教育するこちら側としてはさ、そりゃさ、大卒の新社会人を採用したいっていうのも、わかってくれるよねえ。まあ、残念だけど、今回はこれで。
星も夜空もパズルのピースも住宅ローンの看板も道路に吐かれてる吐瀉物も巨大スクリーンもハンバーガーも空気も埃もネクタイもワイシャツも鞄も金髪も階段も横断歩道も全部が全部、巫山戯てる。馬鹿にしてるのだ。僕を嘲っているのだ。僕を押しつぶすためだけに、こいつらは、ここにあるのだ。どけ、どけよ。お前ら全部、邪魔だ五月蝿いよ死ねよどうせ僕が死ぬならお前らも全部死んでしまえよ。僕はさっきすれ違ったサラリーマンの一群を追いかける。途中でキャバクラ嬢らしき二人組みの肩にあたる痛い馬鹿くそどっかいけと耳朶にがなるお前らがどけよと僕は唾を吐きかけるきたなああいと売女は道を空ける僕は通り過ぎざまに売女に蹴りを入れてそのまま駆け抜けるスーツ姿の後ろ姿が五人やつらだやつらみたいな普通な顔をして働いてるふりしてそれで僕からあらゆるものを搾取してそうして僕を殺そうとしてるやつらだやつらを殺すまでは僕は死んでやらない死んでやるものか僕はやつらの一番後ろにいたやつの背中に向けて身体を捻って勢いに載せたパンチをお見舞いしてやったのだざまあみやがれくそばかやろう。
目を覚ました僕は、見慣れない路地にいた。いた、というよりも電柱に寄りかかって座っていた。ここは、何処だ? 細い路地、都会の隙間に挟まったみたいなところ、繁華街の灯りが届かない代わりに、小さな電灯の光が僕を照らしているようだった。そうか、と記憶を手繰る。僕は、あのサラリーマンに突っかかって、返り討ちにあったのだ、確か。多勢に無勢どころじゃなくて、最初の一撃を加えた後、彼らの一人に取り押さえられて、僕は彼らにこの路地まで引っ張られて、何度殴られただろう、蹴られて、踏みつけられたのも憶えてる。くそ。口元を拭う。袖が真っ赤になる。血を流してる。畜生、畜生。僕は立ち上がろうとするが、足に力が入らない。それ以前に、腹が痛い。腸が千切れてしまったように、痛覚が悲鳴を上げてる。それほど人通りはない路地だが、それでもぱらぱらと人が通りすぎていく。僕は顔を上げることが出来ず、通り過ぎていく人たちの交差する足元だけが見える。そのうちの一人が「あの、大丈夫ですか? 血が出てますけど? 警察呼びますか、救急車とか」だなんて声をかけてきたから僕は「放っておいてくれって、放っておけって言っただろうが! さっさと行けよ!」と叫ぶ。親切にも声をかけた人は、「なに、この人、気違いじゃない?」と小声を残して去っていく。もう、この場所で人生終わらせてもいいかな、などと少し頭をよぎる。ここで眠ってしまえば、二度と目を覚ますことなんてないのではないか、という誘惑に駆られる。僕は再び目を瞑る。聴こえてくるのは、数分に一度の足音だけ。足音は僕の近くで一旦緩まるが、その後は足早に過ぎ去っていく。その足音を聞きながら、十二人まで数えて、さあそろそろ眠りに落ちるかなというときに、ひとつの足音が僕の近くで止る。
「あれ? もしかして、さっきのお客さん、死んでるの?」
聞き覚えのある声音に僕は目を開く。いつ聞いた? それほど遠くない。というか、今日聞いたような気がする。お客さん? そして鈍痛が残る頭を働かせる。首筋と頭に走る痛みを必死に堪えて、顔を上げる。目の前に立って、僕に手を伸ばしかけていたのは、フリージアだった。フリージアは「やっぱり変な人だ」と言い、それから「変な人はわりと嫌いじゃないよ」と続けた。僕はフリージアの体温があまり感じられない手をとった。




