表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いまは緑色の芝生  作者: 三号


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/67

フリージア・マイナスファイブ

 フリージアは僕の手をひいてカーテンの向こう側へ連れていく。そこは行き止まりがすぐに迫った狭い廊下で、左右には僕とフリージアが入ってきたのと同じように無地のカーテンがいくつの小部屋を廊下から隔てている。そのうちの一つの小部屋へと促されるままに僕は足を踏み入れる。部屋は簡素なつくりで、目に付くものといえば壁際に置かれたベッドと、ベッドの上に載せられたシーツと枕。それから部屋の片隅にキャビネットがあり、その手前に洗濯物を入れるような籠が行儀良く座っている。調度品だけ眺めれば、安手のカプセルホテルに産毛が生えたような設えだが、明確な違いとして、ベッドがある側の壁には、高さ一メートルくらいの鏡が壁いっぱいにひろがっている。そこには不恰好な、場にそぐわない表情をした僕と、フリージアが映し出されていた。僕の視線の行く先に気が付いたのか、フリージアは鏡越しに僕へと微笑む。どうやら不機嫌な表情だけしか出来ない、ということではないらしい。

「お客さん、初めてだったっけ、うちのお店」

「うん、まあ、そういうことになるかな」

「ふうん、まあ、いいや。店長にバレなきゃ、いいわけだし。わたしはどうでもいいよ。名前は? なんての?」

 どうやら僕の安易な虚言は見透かされていたらしい。僕は自分で生まれてから一度たりとも気に入ったことのない苗字を告げた。僕の苗字は、どう読もうとも素直に発音出来るものではなくて、初対面の人間から正しく呼ばれたことが一度もない。フリージアはワンピースのポケットから名刺らしきものを取り出し、そこへ何かを書き込んで、「はい、これ」と言い、僕へと手渡した。そこには僕の名前と、それからフリージアのおざなりな挨拶が文章になって書かれていた。

 服を脱がせようとしたフリージアを遮り自分で服を脱いで、籠の中のバスタオルと交換する。それからバスタオルを腰に巻いている間に、フリージアはワンピースを絹が林檎とすれるような音をたてて脱ぎ、それから下着を脱いで、僕と同じようにバスタオルを取ると胸元から巻いた。

「じゃ、シャワー、浴びよか」

 誰もいないといいけどねと言い、フリージアは閉まっているカーテンから顔だけを廊下に突き出し、「いまのうちいまのうち」と僕を手招きする。廊下には誰もいなかった。どのカーテンの向こう側からも、誰の声も聞こえてこなかった。天井からは小さな音量で邦楽が流れている。僕はフリージアの後を追ってシャワー室へ入る。そこでバスタオルを取り、同じように裸になったフリージアと浴室に入った。

 まずこれと、フリージアに苦い薬液を薄められたようなコップを手渡されて僕はそれを口に含む。十秒くらい口の中をゆすいでから、浴室の床に吐き出す。フリージアはそれをシャワーのお湯で流す。流されていく僕の口から出たものは、まるで僕の口の中が切り刻まれた後のような血の色をしているように僕には映った。それからフリージアの手で首筋から肩口、身体の正面と背中、それから足と指先の順で洗われていく。

「お客さん、いいお尻してる」

「え? そう? そんなこと言われてことないけど」

「わたし好きなんだ」

「何が?」

「だから、男の人のお尻。この前なんかさ、電車乗ってて、すっごい形のいいお尻した男の人がいたから、痴漢しそうになっちゃったの。わたし、女だから、痴女か、あは。変なの」

 変わった趣味だねと言った僕は、全身を洗い終えたフリージアにシャワーで石鹸を洗い流された。「先に出てて」と言うフリージアにしたがって浴室からでて身体を拭き、再びバスタオルを腰に巻く。しばらくして出てきたフリージアがまたカーテンの外へ顔を覗かせて、ちょっと待っててという言葉の通りに少しだけ待って、それからまた先ほどに出てきた小部屋へ戻る。天井のスピーカーからはスピッツの曲が、場違いな場所で愛を必死に伝えている。


 ベッドに腰掛けたフリージアの隣に座り、僕はフリージアを抱き寄せてキスをする。女の身体に飢えていた僕は、フリージアの身体をそのまま押し倒しベッドへと横たわらせ、そうしてもう一度軽くキスをしてから、ちら、と鏡を見る。そこには貧相な身体をした男が、必死になって女の身体へと舌を這わしている姿が映っている。僕にはお似合いの、仕草だ。こうして、卑しく、貧しく、汚らしく、鏡に映っている僕のとおりの僕が、いまここに存在しているわけだ。

 フリージアの吐息に混じって、少しだけ声が漏れる。彼女の身体はとても薄い生理食塩水の味がした。僕はもっと濃い味を求めて、必死にフリージアの身体を食べる。首筋から鎖骨、そうして乳房と乳首を食べる。左右の乳首を強めに噛む。すると、もっと濃い塩味になる。フリージアの肌は、まるで剃刀で丁寧に剃られたあとのように、産毛一つ生えていない。僕はその肌の表面に、カタツムリが通った痕のように舌と唾液の痕跡を残す。乳房から鳩尾、そらから臍。徐々に味が深まり、僕の口は、口だけがまるで別の生き物になってしまったかのように、一心不乱にフリージアの身体を食べ続ける。

 しばらくしてフリージアの身体を密着させたまま滑りながら、フリージアの上に上がっていく。息遣いが荒くなった、それともそういった演技をしているフリージアが、目だけは正直になにも感じていないことを示しながら「ぎゃくしゅー」と言葉をこぼす。今度は僕がベッドへ横になる。僕の前にフリージアは膝をついて座り、そうして上体をかがめる。フリージアの手はとても冷たい。


 ふと、鏡を見遣った。


 僕、ではない、僕がそこには映っていた。


 いやそれは、人間ですらないかもしれない。鏡に映っている僕のようなものは、身体は赤土のような色をして、色だけじゃなく皮膚も赤土のようにぼろぼろと剥がれ落ち、そして肉もところどころ崩れているために、骨がのぞいているところすらある。剥がれ落ちた皮膚と、崩れ落ちた肉は、ベッドの上に重なり合うように盛られていく。鏡の向こうの僕の周囲に盛られていったそれらは、やがて蠕動をはじめ、次第に別の形を作り出す。小さな、子供の頃にあそんだキン消しくらいの大きさで人型に作られた皮膚と肉の塊は、両手両足をばらばらに動かして奇怪なダンスを踊り始める。鏡の向こうで起こる現象に目を奪われていた僕に、鏡の中の腐っていく僕が視線を差し向ける。そして「彼」は、僕を見て。


 嗤ったのだ。


 目を疑う暇すらなく、頭の中にある脳みそがすべて漂泊されてしまったような、狂った感覚というものを、僕ははじめて体感する。フリージアを両手で思い切り突き飛ばす。フリージアはベッドの上を回転し、壁に当たってからベッドのから落ちてしまう。

「いったあい!」

 ちょっと何するのよいきなり酷いじゃないのと、フリージアは非難がましい言葉を僕に浴びせるが、僕はそれどころではない。鏡の中の僕は、それでもフリージアとお互いを愛撫し合いながら、僕の事を嗤っている。高らかに、嗤っている。黙れ黙れ嗤うなと僕は鏡に殴りかかろうとするが、その手をフリージアに取り押さえられ、そのままの勢いで僕も床へと落下する。背中を床に叩きつけられる。かろうじてフリージアの上になることは避けられたようだった。フリージアは握ったままの僕の腕を放そうとしない。僕は床に寝転がったまま、目を閉じている。目を開くのが怖い。震えている、身体が震えているようだ。怖いから、恐怖、直視することが出来ないものへの畏怖。フリージアは僕の震える腕を放さない。

 振るえが収まるまで、数分の間、僕はフリージアに腕を握られたまま、縮こまっていた。目を開いたときには、少し照明が落とされていた。フリージアがライトスタンドの灯りを消したらしい。僕は身体を起こす。ベッドに手をついて、鏡を見る。そこには僕が、いま僕がしている姿のままの僕が映っていた。皮膚も肉も赤土色ではなく、剥がれても崩れ落ちてもいない。僕は安堵の息を漏らす。

「鏡が、どうしたの」

 フリージアの問いかけ。僕は上手く答えることが出来ない。鏡を見たまま。鏡に映っているフリージアも、瞳を僕と同じ方向へ向けている。僕は言い募る言葉が喉元までせりあがり、それが迂闊に漏れてしまいそうになるのを必死に押さえつける。馬鹿なことを言う、妄想だ、幻覚だと言われるに、決まっている。現にいまここにある鏡には何も映ってはいないではないか、と。しかし僕は、いま自分が体験したことを言葉にしないと、それが身体の中へ蓄積されてしまい、現実化してしまうような恐怖に捕らわれる。

「その鏡に、僕じゃない僕が映ってた」

 そしてフリージアへ、訴える。

「鏡の中の僕は身体が赤土みたいにぼろぼろで皮膚も肉もぼろぼろで、腐ったみたいな身体をしてるくせに、君と身体を重ねてるんだ。僕が鏡を見ても、そいつはずっと君の身体を舐めてて、しばらくして、僕を見て、僕を嗤ったんだ」

 お互いに、裸で床に座っている。僕はフリージアを見られない。信じてくれるだなんて、考えても無い。ただ、言葉にしたいことだけを、言葉にする。

「そいつは、腐ってたんだ。そいつは僕かもしれないんだ。僕が腐ってるのかもしれない。僕は腐ってる? いま、どんなふうに見えてる?」

 そこでようやく、僕は顔を上げる。

「ううん、言ってることはよく解んないんだけど。なんとなく、解るような気がする」

 フリージアは両足を曲げて床に座り、両手を着いている。その腐っていない身体の上に、フリージアの小首を傾げている顔がある。これは現実だろう。

「わたしも、たまに、あるよ。鏡見てると不思議な気持ちになるっていうのかな。鏡の向こう側に別の世界があるような、鏡に映ってる自分が別人になっちゃったような、感じ、ね。」

 でも突き飛ばされたのは痛かったよと、フリージアは小言を僕に言う。僕はごめんと言い、頭を下げて謝る。

「で、どうするの。まだ続ける?」

「そんな気分じゃなくなった。本当にごめん」

「あは、謝らないでよ。お金払ってるの、そっちだし。変な人だね」

 そうそう聴いてよとフリージアは続ける。

「変な人っていえばさ、この前来たお客さんが、童貞だったみたいなんだけど。そのお客さんに素股をしてあげてたらさ、いきなり泣き出すの。それで、入ってる入ってるよおとか叫びだすのね。うっわ、こいつ恥ずかしいとか呆れながら、結局最後までいかないで、入ってた入ってたとかぶつぶつ、終わってからも念仏みたいに唱えてんの。ははは、それく比べたら、変な人じゃないよ、あなた。かなり変わってるけどね、モア、ザン、変わってる人なんてお店にいくらでも来るからさあ。慣れてんの」

 フリージアは心配そうな顔を変えていなかったから、僕の事を慰めようとしているのが少しだけわかった。

 僕はまだ何かにおびえていたのかもしれない。

 それから二人でまたシャワーを浴びて、服に着替えて、時間が来るまでベッドに腰を降ろして、二人で黙っていた。僕には話すことがなかったし、フリージアは煙草を三本吸っていた。それから十分前を知らせる目覚まし時計のベルがなり、頃合いをみてフリージアは僕を出口まで連れて行く。出口のカーテン手前で、フリージアは僕の肩口を叩く。顔を僕へ向けてあげ、僕はそこにキスをする。どの客にもしていることだろう。それから「また来てね」と手を振りながらのフリージアの言葉を背にして僕は出口へ向かう。先ほどのカウンターの中にはまだ坊主がいた。スリッパから靴に履き替えて僕は店を出る。こうして僕の全財産だった二万円は消えてしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ