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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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16/16

フリージア・マイナスセブン

 予定時間を十分だけ残して講師が質問を受付始めると、前の方に座っていた男が挙手をした。男は黒いスーツを着ていた。僕は最後列に座っていたために、男の後姿しか観察することが出来なかった。後ろだし席が離れていたからよく見えなかったが、多分、男が着ているスーツは、スラックスに折り目がきちんと入っていて、埃もついていなくて、僕が着ているような半年はクリーニングに出していないツープライスショップで買ったスーツなんかではなくて、世情に疎い僕ですら聞いたことがあるようなブランドのスーツに違いない。知り合いの山崎の部屋にはズボンプレッサがあった。僕はそれを蹴り倒したくなったことを思い出す。スタッフがマイクを持って起立している男に近寄り手にしていたマイクを渡した。

「貴重なお話、ありがとうございました」なにが、貴重なお話だ。お為ごかしもいい加減にしろ。「私はいま仕事の棚卸しをしているのですが、棚卸しに際して上手いやり方であるとか、コツといったようなものはあるでしょうか?」

 歯切れの良い、恐らくは事前に考えていた質問なのだろう。しかし、僕には、棚卸し、という言葉の意味とか、その言葉の指し示す方向性のようなものを明瞭に捉えることが出来なかった。男の質問が終わってから殆ど間を空けずに、講師が男から返却されたマイクを手に持ち回答をする。ジャミングしたような音が、僕の耳を鼓膜を苛む。

「棚卸しと申しましても、例えば自分は営業でどれだけの利益を上げたであるとか、そういった結果だけを書き連ねるよりもですね、そこに至るまでのプロセスに着目されたほうが良いです。企業はそういったプロセスの再現性を重視するわけですね。つまり結果だけであれば、それぞれ各企業の状況によって変わってくるでしょう? それよりも結果を生み出したプロセスに着目して棚卸しをされてはいかがでしょうか。結果、結果と申しますが、そういった営業成績のような結果が見えにくい業種もあります。そういた、場合は、ですね。自分が仕事をしていて、波のようなものがあると思います。良かった時期、悪かった時期。その悪かった時期から良かった時期への、グラフにすると、こう、ぐっと、線が上がっていくプロセスというのがあるはずです。ぜひ、そういった部分をアピールして職歴の棚卸しをされると、企業側へのアピールが出来ると思います。こういった答えでよろしいでしょうか?」

 男は「ありがとうございます」と言い、ビジネスマナーの教本にでも書いてあるようなお辞儀をして、それからゴールシーンをスローモーションで流したときみたいな苛々をおぼえるような緩慢さで着席した。それを潮に、というよりもそれ以上の質問は出てこず、講師からの締めの言葉があって、講演会は終了した。

 講師が立っていた雛壇と、僕から向かって左手に会場のスタッフが二人座っているテーブル。それらを前にしてパイプ椅子が一列に二十脚以上はあるだろう。整列させられた椅子の列が僕の座っている最後列まで、二十列くらいあるだろうか。合計で四百人は着席出来るスペース。座りきれなかった人たちが空いている場所で立ち聞きをしていたようだ。最後列に座っていた僕は聴講していた人々がそれぞれの場所から出口へ向かう人込みが多くなる前に会場から出た。

 採用する気も無いくせに、少なくとも僕が採用される見込みなんて殆どない企業どもががブースを構えているホールを、出口まで一直線に歩いた。

 息がつまりそうな会場を出る。

 出口に脇に、アフリカに住む奴らなら十キロ先でも読めるような大きな看板で、ここが合同企業説明会であることを示していた。確か、そういった場所だったな、と僕は呼吸を放棄したくなる。なにをしにわざわざこんな場所まで来たのか、分かったものじゃない。判りたくもない。解ろうともしない。分ってたまるか。自嘲の笑みを浮かたまま、会場を出てから案内板にしたがって盲目的に東京駅まで歩く。こんな、場所に一分でも一秒でも、時計の針が動くその瞬間でさえも、足を踏み止めていたくない。地下の通路を、ただ、右足と左足を交互に動かすことだけに集中する。

 明るすぎて地下にいるのを忘れてしまうくらいの通路、幾つかの曲がり角を矢印に従う羊みたいにしたがって進むと、東京駅の構内へ出る。

 足を止める。

 コートのポケットに手を入れたまま、マフラーに顔の半分を埋めて、被っていたニット帽に視線を隠すようにしながら、周囲を見渡す。

 サラリーマンたちが、無駄に立派な腕時計を気にしながら角ばった鞄を一定のリズムで一定のリズムであることが正しい社会的なリズムであるかのように振りながら、足早に行き交っている。

 お前ら、死ねよ。

 わたしは丸の内で働いてるのよと背筋を伸ばしながらご丁寧にハイヒールの踵を鳴らて女たちが闊歩している。

 お前らも、死ね。

 東京駅の構内は、僕にとってひどく場違いな場所のように感じられた。ここは汚れとか埃とか自分に対しての負い目だとか、身体が痒くなるような焦燥感とは無縁な場所だ。

 舌打ちをする。

 上手く鳴らない。

 もう一度、構内に響くようにして、舌を打つ。どいつもこいつも、偉そうな顔をして歩きやがって。お前らがどれだけ僕よりも優れているっていうんだ。ふざけるな。いつか、殺してやる。

 まるで、飛行機が乱気流に突入したときみたいに不安定な、気分だ。心臓が左胸に固定して存在することが信じられない。心臓が僕の身体の中で暴れまわって、爪先で鼓動していたり、腿で血液の循環を行っていたり、肩で動脈と静脈が交差しているかのような。脈が止まってしまったような気がして、僕は自分の手首に人差し指と中指を当てる。

 ――トクムン、トクムン、トットク。

 動いている。

 止ってない。

 止ってしまえばいいのにと、何度願ったことだろう。

 それから、僕の身体の中が、蟻の大群で埋まってしまったように、心がざわめく。最近、というよりも、ここ半年、こういったアンバランスな気持ちが、収まらない。嫌がらせみたいにして、僕を攻撃してくる。苛むのは僕自身だというのに、それが止む気配すら感じられない。もしかしたら、一生、僕は不安定でざらざらして落ち着きのない気持ちのままで生きていかなければいけないのかもしれない。きっと、そうなのだろう。僕には安定だとか平穏であるとか、そういった遠くから眺めた地平線の近くの海原みたいなものとは、無関係で惨めな人生しかこの先、待っていないのだ。

 東京メトロの百九十円の切符を買う。百九十円あれば、西友の五十五円の缶コーヒーが三本も買えておつりがくるじゃないかこんなことにこんな場所で無意味なことをして移動してまで支払う価値のある百九十円なのだろうかと自問するが、歩いて部屋まで帰るには遠くまで来すぎていたから、そこは諦めなければならなかった。

 まったく、移動するだけで金がかかる。部屋に閉じこもっていれば、こんな金を使う必要なんてなかったのにと、僕は臍をかんだ。地下鉄で新宿駅へ向かい、そこで京王線に乗り換える。こんどは百三十円の出費だ。くそ。特急が行ってしまった後だったから、各駅停車に乗って三駅目の明大前で降りる。駅から僕の部屋までは、一旦駅前に出て、それからガード下をくぐり線路脇を歩いて、それから踏み切りを渡り甲州街道へ向かう少し手前で左折してしばらくの場所にある。徒歩で十分。走って七分、頑張って走れば五分の距離だ。

 途中でコンビニエンスストアへ寄ろうとしたが、財布の中身を検討した結果、立ち寄らずに部屋に帰った。部屋の扉を開けたころには、既に日が暮れかかっていた。携帯電話で時間を確認すると、午後五時を過ぎていた。もっとも、いまの僕に時間など気にする必要なんて、ライオンにチーズカマボコくらい必要無いのだけれど。

 僕が住んでいるのは、木造モルタル造りのアパート。その名も、「宝海荘」だ。宝の海はきっと僕が住む前の住民たちによって根こそぎ持ち去られてしまったようだ。既に築何年なのだろう、そんなことを考えることすら馬鹿馬鹿しくなるくらいに薄汚れている。室内は、和式トイレと土壁の六畳間。建てられた当初は風呂がなかったはずだ。台所には、後付けであることを隠しもしないようにして、海水浴場にあるようなユニットバスがむき出しのまま設置されている。

 鍵も閉めず、玄関で靴を脱いで、鞄をその辺りに放り投げ、そのまま畳の部屋で寝転ぶ。ちょうど顔の横にあったティッシュを丸めて、ベニヤ板を貼り付けただけの天井に向かって投げた。しかしティッシュは天井へ届く前に失速して、あろうことか僕の顔面へと、力なく落ちてきた。僕は口から息を吐き出し、ティッシュをどけた。

 腐った牛乳と安物の焼酎を混ぜたような匂いがした。

 あれは、何に使ったティッシュだったのだろうか。そんなことも、自分がほんの少しの過去に何をしたかさえ、僕にはわからない。そして、僕には、いま現在の僕の状況、という至極簡単なことすらも、わかりやしない。さっぱり、判らないのだ。

 理解不能。判別不能。エラーエラー。

 すぐにシャットダウンしてください。

 いますぐ再起動しますか?

 イエス、ノー。

 もちろんノーだ。

 僕はどうして、いまにも倒壊しそうなアパートの一室で、折り目が消えて、肩口にフケが目立ち、ところどころほつれている、そうであったとしても僕にとっては一張羅のスーツを着て畳の上に寝転がり天井へ視線を這わせ、吹き飛ばしたはずのティッシュは顔のすぐ脇にあって、そこから腐った牛乳と安物の焼酎の鼻が二百度くらい曲がってしまうような匂いがして、それを興味深げに嗅いでるのか、認識できやしない。

 僕は、なにもかも、認識できないから、そんなものは、あるかどうか知らないけれど、もしあるならそんな物は、あるがままそのままごっそりざっくり綺麗さっぱり根こそぎドグドオオンズムズムと全て消えてしまえばいいと、願いながら、意識を失うようにして寝入った。寝る以外にすることが無かった。

 目を覚ました頃、カーテンを閉めていない窓からは陽の光が絶えて、代わりに、アパートの裏に建てられている大家の家の玄関の灯りと、東京の中途半端な夜が差し込んでいた。部屋の家賃はいまどき珍しく、月末に、大家へ直接手渡している。そうすると、大家は家賃支払い用紙に判子を押してから、いつも決まって必ずキャンディをくれる。応対するのはいつも婆さんで、爺さんは玄関から覗ける電気もついてない部屋の奥で、暗がりの中で車椅子に乗って、生きてるんだか死んでるんだか、いや、そこにいるからには生きているんだろうけど、そんなことを超越してしまったような存在感で、じいっとしている。こちらを見ているのかどうなのかすら判別できない。爺さんが死ぬのは遠くないことのようだ。二ヶ月くらい前の深夜、救急車を呼んで婆さんが大騒ぎしていて迷惑をした。いっそうのこと、さっさと死んでくれればいいと思う。それで、大家の家もこのアパートも取り壊されてしまえば良い。

 僕は畳の上でしばらく胡坐をかいて、それから暗闇に目が慣れるのを待って部屋の灯りを点けた。二度、三度点滅した蛍光灯が部屋を明るくさせたころ、僕の耳に、いつもの「声」が聞こえてくる。

 時計を見る。午後十一時、今日は思ったよりも早いじゃないか。

 僕は独り言を漏らす。そして左隣の部屋と僕の部屋を隔てる壁へにじり寄った。身体を壁に預けるようにして座った。耳を壁に、間に空気も何も入らないように、壁と一体化させるようにして密着させる。土壁の、僕の心臓みたいな肌触りを耳朶に感じる。少し耳を動かすと、さらさらと土壁から砂が畳に落ちる。僕はそれを気にせず、さらに耳を壁に密着させる、僕は壁になる、そうして、やがて僕の耳は、意識としては壁を通り越してしまう。耳だけが、僕の身体から離れていく。僕の耳だけは、隣の部屋の住人になる。

 隣の部屋には、僕と同年代の男が住んでいるはずだった。幾度か顔を合わせたことがある。僕が引っ越してきたときには既に住んでいたのだろう。親しい間柄ではない、挨拶を交わしたこともない、そもそもアパートの前で顔を合わせることがあっても、僕はすぐに下を向いてしまうから、満足に顔すら見たことがないから、隣の男が日本人なのか、パキスタン人なのか、それともエム七十八星雲からやって来て地球を守るという名目のもとで街を破壊しまくる迷惑な宇宙人が正体を隠している姿なのかすらも知らない。

 それでも不思議なことに、だいたいの年齢と性別くらいは推測出来てしまうものなのだ。僕は彼のことを「ヒダリ」と名づけていた。

 僕の鼓膜は、女の喘ぎ声を聞き取る。女のことを僕はアエギと名付けていた。アエギの喘ぎ声が聞こえ始めたころは、男がデリヘルでも呼んで愉しんでるのかと思ったけど、この無遠慮で無節操で、官能的っていうよりも五百年前のアフリカ大陸に群れをなしている肉食動物の交尾みたいな嬌声をアパートの他の住民が十分に迷惑に感じられるようなボリュームで響かせることが幾度となくあるようになってから、どうやらヒダリに恋人が出来たようだと悟った。

 くそう、ヒダリのくせに恋人などとは、と口惜しがったのは二回目くらいまでだった。

 壁に耳を張り付かせてそのまま、やがて耳が壁の向こうから戻ってくるのを待つ。耳は僕の意思で戻ってくることはない。僕はそれをじっと待つだけ。やがて、耳がこちらの部屋へ戻ってくる。僕は膝を抱えて土壁にもたれる。

 膝と膝の間に顔をつっこむ。

 部屋は暗いままだ。

 暗いほうがいい。

 暗くて黒くて、塗りつぶしてしまったような色が、僕は好きなのだと言い聞かせる。

 丸められたティッシュは腐った牛乳と安物の焼酎がカクテルされた臭いがする。僕は、僕が何をしたのか、記憶に留めない。記憶する意識を投げ捨てて、踏みつけて、蹴り飛ばしてしまう。丸められたティッシュは腐った牛乳と安物の焼酎がカクテルされた臭いがする。山間に落ちるのは夕日、遠い海原と、黒い海面を照らす灯台の灯り、照らされないように逃げる、逃げよう、逃げなければ、ここから、逃げなければ、いや、その意識さえも意思さえも思考さえも、そこからさえも逃げなければいけない。丸められたティッシュは腐った牛乳と安物の焼酎がカクテルされた臭いがする。

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