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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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13/15

あなたとだから

 涼やかなベルの音が、五月にしては季節外れの熱気を店内へと運ぶ。カウンタの中でコーヒーを淹れていた二宮凛子が入り口を振り返ると、常連の多比良雄三が「おはようさん」と挨拶をしながら、毎朝座るカウンタの右端の席へと向かってくるところだった。凛子は、こちらも常連である先客との会話を止めて多比良へ声をかけた。

「おはようございます。お薦めとトーストでいいですか?」

「頼むわ。暑いなあ。今日は。うちの野菜が腐っちまうよ」

「多比良さんのところのお野菜が駄目になったら、うちも料理出せなくなっちゃうから困るわ、しっかりしてくださいね。葛城くん、トーストお願い」

 凛子はカウンタの中にいる男に声をかけて、自らは挽くコーヒー豆をミルへと入れる。

「今日も、の間違いじゃないですか?」

「相変わらず減らず口だけは一丁前だな、本屋。お前は昔からそうだ」

 本屋と呼ばれたのは多比良とひとつ席を空けて座っている、先ほどまで凛子と会話をしていた書店店主の月尾である。

「事実でしょう? なんでもかんでもそうやって難癖付けるってことは、年の証拠ですよ。もう六十五でしたっけ」

「六十四だよ。世話になってる商店街の長老の年齢ぐらい覚えておけってんだ……そういや凛ちゃん、今日は店長いないの?」

 雄三は月尾との会話を無理やり打ち切って凛子へと水を向けた。年齢の話になると会話の方向を変えたがるのが常であったので、月尾は何も言わずに煙草に火を点ける。

「今日はお休みをね、いただいてるの」

「へえ、珍しいね」

「忘れたんですか? 店長は毎年この時期休みじゃないですか。ご母堂の命日だからって実家に帰ってたはずだよね、確か」

 月尾はことさら呆れたふうを装った。

「はい、そうなんです。ご迷惑おかけします」

「その子は臨時?」

 月尾がカウンタの中でぎこちなくトーストを切り分けている葛城へ視線を移しながら言った。その言葉に葛城が振り向き無言で会釈をする。

「もう……愛想がなくてごめんなさい。今日だけですから」

 不機嫌そうな表情を葛城に向けてから、凛子は客の二人へ謝った。

「いいよいいよ、この店は凛ちゃんが可愛きゃそれでいいんだ。あとは何もいらねえや。コーヒーが不味くっても凛ちゃんがいればこそ来るってもんよ」多比良は嘯いた。「そういや店長話してたなあ、九十過ぎて大往生だ。五月五日だっけ、柏餅詰まらせて死んじまったんだよな。めでたい日にめでたいもん食って死にゃあ、まあ本人も悔いがねえだろうよ」

「あんたも不謹慎だな」

「いいんだよ、こっちだっていつ死ぬかわかったもんじゃねえんだからよ。三途の河に片足突っ込んで毎日生きてるようなもんさ。言っちゃあ半分はお仲間だぜ。俺は正月の餅を喉に詰まらせて死ぬ予定だからな」

「それはそれは」と言って、月尾は煙草の火を消してから目を細くして多比良を見遣る。「あんたが死んだら、嫁さんは大喜びするでしょうね」

 月尾の言葉を聞いて眉をしかめた多比良は「……ちっ、じゃあまだ死ねねえじゃねえか」と毒づいた。多比良の経営している八百屋「やおはち」の客の間では、多比良と多比良の息子に嫁いできた嫁の仲の悪さは有名な話である。買い物へ来て二人の丁々発止の喧嘩を目にしない日のほうが少ないくらいと評判であった。嫁は嫁で近所の主婦友達に「あの爺さんが死んでくれたら店ももっとうまく出来るのにねえ」などと流布している。そして実際のところは然程深刻に憎みあっているわけでもない、というのも周知のことであった。

「そういや、さっきなに話してた? けっこう深刻そうな顔してたじゃないか」

「僕はいつも深刻ですよ。あんたが年中不真面目なだけだ」

「よく言うぜ。どうせ斜め向かいに出店してきた古本屋の所為で売り上げが落ちたっつう愚痴でもこぼしてたんだろうが」

「違いますよ。だいたいあんな全国チェーンの陳腐な古本屋と僕の店じゃあ客層が違うから、商売やってく上では全く関係ないんだ」

「朝から喧嘩しないでください。違うの、わたしの彼氏のことで話してたの」

 若干むきになりかけた月尾を窘めるように凛子が間に入る。

「へええ、凛ちゃん彼氏なんかいたのか」

 多比良は仰け反りながら言った。

「あら、悪かったかしら?」

「俺があと三十歳若かったら先に唾つけてたんだけどな」

「ありがと」と凛子は微笑む。

「あと四十歳の間違いでしょう? それにあんたが若くたって凛ちゃんは相手にしませんよ、分を弁えたほうが良い」

 言った月尾へ「黙ってろ、小僧」と応じて睨み合った二人の間へ、凛子が多比良のコーヒーとトーストを「いい加減にしないと店から放りだしますから」と言って差し出した。それを潮に多比良がコーヒーに口をつけ、月尾は再び煙草の火を点けて紫煙を店内に燻らせる。しばらく会話の止んだ店内には葛城が黙々と洗い物をする音だけが響いていた。

「ちょっと相談してたの」カウンタの中に戻りながら凛子が一時のしじまを止めた。「相談って言うほどのものじゃないかもしれないけど……彼氏がこれからのことで迷ってたから、ほら、大人の人の意見ってわたしたちだと気づかないこと教えてくれたりするでしょう?」

「凛ちゃん、そりゃあ駄目だ。こいつは本屋なんてやってるうちに三十過ぎても頭んなかガキのまま止っちまってるんだから」

「六十過ぎて子供、よりは随分とましだと思いますがね」

「馬鹿か、六十過ぎたらガキだとか大人とか超えちまうんだよ。人間の格が違うっての。だから相談ごとならこいつじゃなくて俺にしなきゃあ駄目だよ」

「そうねえ、じゃあ聞いてくれ……ちょっとやめてよ」と、凛子は葛城がいる後ろを向いた。それから、不思議そうな顔で眺めているカウンタの二人へ凛子は照れ笑いをした。「あ、ごめんなさい。えっと、そうねえ、どこから話そうかしら」

「僕に話してたところから爺さんに聞かせてあげたほうが解り易いよ」

 と月尾が水を向ける。

「うん……まず……わたしの付き合ってる彼氏が、いるんです、よね。その彼が、今度わたしと一緒に住もうって持ちかけてきたの」

「不届き者じゃねえか。結婚もしてないのに一緒に住むなんてよ」

「やっぱり古いなあ、あんたも。同棲くらい今の時代じゃあ当たり前ですよ、ねえ、凛ちゃん」

「そうね、わたしもそこはあんまり気にしてないんだけど……」凛子は言いよどんだ。「今の彼、不規則な時間の仕事してるしお給料安いし半分アルバイトみたいなものだし、このままじゃ一緒に住めないからって仕事変えようとしてるの。少ないけどお金も貯めて、わたしも少しお金出して広い部屋を借りよう、って」

「へえ、偉いじゃないか」

「そうかあ? 少ない給料から貯金なんてみみっちいことしねえでパチンコでも競馬でもして一気にばあって儲けてよ、さあ部屋は借りたぞ一緒に住もうぜ、ってほうが男らしくていいじゃねえか」

「そんなにうまく行くわけないでしょうが」

「うん、賭け事をしないのは良いことだと思うんだけどね」ちょっと困ったような、それでいて安堵するような表情を凛子は浮かべた。

「じゃあ一緒に住めばいいじゃないか。それとも同棲するほど彼のことが好きではないとか?」

「好きじゃない」と、言ってふと凛子は呼吸を止めた。「……なんてことはないんだけど。でも彼ね、仕事変える変えるって言って、じゃあ何がしたいのって聞いてもやりたい仕事なんてない、今よりお金が貰える仕事ならなんでもいい、なんて言うのよ」

「仕事なんてそんなもんだぜ、選り好みして女子供を食わせられねえっつうのは男として最低だな、最低。俺だって好き好んで八百屋なんてやってるんじゃねえからなあ」

「そうですか? あんたの場合は好きでやってるようにしか見えないけど」

「うん、それにね。彼は仕事じゃないけど、なりたい職業みたいなのがあるらしくって。あれ、なんて言ったかしら……」心持ち首を傾げて凛子は葛城を見た。「ねえ、葛城くん、あれって、ほら文章書く人ってなんて言うの?」

 とっくに食器を洗い終わり、手持ち無沙汰でシンクの前で背を向けていた葛城は「作家」とひと言だけ無愛想に応えた。

「そうそう、作家ね。小説家とかそういうのじゃないかしら。とにかく夢っていうのかな、将来的には文章を書いていたいらしいのね」

「なんでえ、作家先生になりたいんか。気宇壮大だなおい」

「なろうと願ってなれるものではないとは思うけどね。そうか、とにかく凛ちゃんと一緒に住みたい、その為には現在の職業を変える必要もあるし収入を増やす必要だってある。だけどその前に将来的な展望も持ってるからそれにも手を付けたい、と」

「おいおい、あれもこれもって贅沢じゃねえのかよ。一気にやろうとしたら無理だろうが」

「でしょう? しかも、それぞれやらなくちゃいけないことは沢山あるはずなのに、全然やろうとしないのよ。そろそろ転職活動始めようか何をやるからこれをやらなくちゃって言ってばっかりで動かないの」

 多比良が食べ終わったトーストの皿を「ごちそうさん」と言ってカウンターの上に載せた。それを葛城が持ってゆくのを凛子は横目で見ている。

「あれだよ、現実に足をとられて次に動けないという典型的な例じゃないのか。確かにやらなくてはいけないことは理解している。だけどいまある現実から抜け出すこと自体が億劫であるとか、あるいは……」

「小難しいこと言うなよ本屋。びびってるだけだろうが」

「そうとも言いますがね」

「びびってる、ねえ……そういうものかしら」

「僕はその彼氏と会話したことが無いから詳しいことは解らないけどね。現実っていうのは意外と居心地がいいものなんだ。いまが辛いとか苦しいとか嘆いてみても、実際のところ辛さも苦しさだって全て予測が出来てしまうものなんだよ。だから身構えることが出来る。つまり過去から続く現在というのは、経験してきた過去に依存することが可能だ。同時に自分が描く夢というもの居心地がいい。そこでは邪魔をするものなんていない。いまのところ手が届かない遠い未来というのは現実が関与する余地が無いからね。一番辛いのは手の届く将来で、現実が多いに関与する割りには蓄積された過去がそこまでは及ばなくて、どういった辛さ苦しさが出てくるのか予測が出来ない状況を指すのだと僕は考えてしまうけどね」

「じゃあどうしたらいいと思います?」

 凛子は座っている二人へ等分に視線を注いでいる。

「彼氏さんもよお、贅沢言ってねえでよ、いっこいっこ片付けてきゃいいのさ。凛ちゃんと一緒に住むのか、仕事を変えるのか、作家先生になるのか。人間いっぺんに出来ることなんて限られてらあ」

「そうだね。優先順位、というわけではないけどまずはいま何が出来るのかを考えたほうが良さそうだ。いまアクションをすぐに起こせるもの、それを為すべきだろうね」

「なるほどね」少し天井へ顔を向けて、凛子は一息ついた。「まずは仕事を変えるのが先かしら」

「話を聞いてるかぎり、そうだと思うよ。それが全ての前提条件になっている気がする。あとは、動き出すきっかけだろうね」

「きっかけ?」

「あるいは強い動機かな。そうしなければならない、っていう。例えば凛ちゃんは一緒に住もうっていう提案について同意したの?」

「ううん、まだ」

「だから彼氏も踏ん切りがつかないのじゃないかな。例え転職をしたとしてもどうなるかわからない未来については、いまひとつ踏み出せないのじゃないかな」

「切羽詰れば死に物狂いでやるっつうことよ。追い込め追い込め」

 多比良が矍鑠と笑いながら言う。

「でもそれって、勝手な話じゃありませんか? 向こうの都合で向こうの希望のための行動のきっかけをわたしに求めるなんて、甘えてますよ」

「確かに、甘えてるね。でもまあ、人間ってある一面では誰かに甘えないと生きていけないものだと思うけど。それが男であれ女であれ、または子供だとしても大人になってもね」

 月尾がそこまで言ったとき、店内にあるレトロな黒電話がけたたましい音をかき鳴らした。葛城がカウンタから出て受話器をとる。二言三言会話をした後に「多比良さんに、そろそろ戻ってこいって……女の人が」とだけ多比良へ伝えた。

「おっといけねえ、嫁にでかい顔されちゃあ叶わねえから俺は戻るぜ」

「じゃ僕も、ごちそうさま」

 二人は席から立ち、そして会計を済ませて店を出て行った。多比良は九時に開店した店先で例のだみ声を張り上げることだろう。月尾は本屋の奥で不機嫌そうな表情で座りながら、何かのついでといった様子でいつものように店番をすることになるだろう。

 月尾は帰り際に「その彼氏さんによろしく。せいぜい、いま君に出来ることをしなさい。まあ言わなくても知ってるだろうけど、言われて始めて理解出来ることもあるものだよ。あと、何をやるにしても愛想はもう少し良くしたほうがいい」と言葉を残して出て行った。

 凛子と葛城以外に誰もいなくなった店内に、スピーカーからテンポの良いジャズが流れている。

「ねえ、聞いてた?」

「耳栓でもしてないかぎり聞こえたんじゃないかな」

「その喋り方、やめてよね。それと、わたしがお客さんと話してるときに足を蹴るのも、やめてよね」

「多分、あの本屋さんは気が付いてた」

「結構あなどれないのよ、あの人。だからアドバイスは聞き入れたほうがいいわね。それにあの人から愛想を良くしたほうがいいって言われるなんて、君も相当なものよ」

「じゃあ、やれることから、ぼちぼちやりますか」と言って、葛城は布巾を手にして客席へ出た。そしてカップをカウンタから上げ、テーブルを拭き始める。それを眺めながら凛子は「随分と手近なところから始めるものね」と微笑んだ。窓ガラスから透けて日の光が店内に差し込み、階段を客があがってくる音が聞こえて、やがてまた涼やかなベルの音が鳴る。

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