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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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12/15

猫じゃらしの枝分かれ

「ねえ、大変なの。サンカクが死んじゃったのよ」

 妻から電話がかかってきたのは、私が仕事に飽いてフロアの隅に隔離された喫煙所から花曇りの空を見上げているときだった。

 背広の内ポケットにある携帯電話を取り出して聞こえてきたのは妻の日頃聞きなれないような放心気味の声であり、その妻から伝えられたことについては私も信じられないような気持ちだった。

「どうして……だって、今朝はあんなに元気だったじゃないか」

「それがね急に、お皿の前でばったり倒れてて。すぐ前までシカクと遊んでて煩かったの。急に静かになったからおかしいとは思ったんだけど」

 サンカクとシカクは私の家で飼っている猫である。いや、飼っているというよりも、私は家族の一員として生活をしているつもりだった。私と妻、小学三年生の娘の陽子と今年小学校へあがったばかりの息子の太一、そしてサンカクとシカク。私たちは六人家族だったのだ。

「いまね、お医者さんのところにいるんだけど、あるんだって、すっごく稀になんだけどね。たとえば、人間でいえば心筋梗塞みたいな感じで、本当に突然死んじゃうのって」

「だからって……」

 私は言葉を継ぐことが出来ずにいた。携帯電話を握り締めながら固まったままの中間管理職。幸い喫煙所には私以外に誰もいなかった。

 ペットが飼いたい、と息子が言い出したのは二年前のことだ。私も妻も、ペットを飼うことは悪くないと考えていた。そんなとき目に付いたのが、近所にある喫茶店の表に張り出されていた飼い主募集の張り紙だった。そこにはまだ生まれて間もない、おそらく自分が何ものであるかすら理解していないであろう円らな瞳の猫が二匹いた。

 当初は二匹とも貰い受けるつもりはなかった。しかし太一が「一匹だけ連れてったら可哀相」と言った言葉に促されたのかどうか、結局のところ私と妻は二匹とも貰い受けた。そして、それは間違った判断だとは思わず、むしろ私たちにとっても新しく家族となったサンカクとシカクにしても、正しい選択だったと確信していた。

 我が家に新しく来た家族のサンカクとシカク。二匹は外見が似ていたが、性格は全く異なっていた。

 非常に人懐っこく、家族は勿論のこと我が家へ遊びに来た誰彼構わず懐いてしまうサンカク。対照的に臆病で、家族の中でも妻と陽子にしか懐くことがなく、客が来ると奥へ引っ込んだまま姿を現さないシカク。

 しかし、性格的には異なるサンカクとシカクだったが、それでも二匹でいるときはお互いがお互いを求めているかのようにじゃれ合い、戯れていた。そんなサンカクとシカクを眺めているだけで、私は幸せな気分になることが出来たのだ。

 その、サンカクが、死んだ。

 私が今朝に出勤する前に構って欲しげに寄ってきて、私が咽喉の下を撫でてやり、それから食事中の私の膝の上へ乗っかってきて私が苦笑していると、「そんなところに乗ってたらパパがご飯食べられないでしょ」と、妻に叱られたばかりのサンカクが死んだ。

「……だからね」携帯電話越しに妻が何かを語っていた。「わたし、どうしたらいいかわかんなくて。お医者さんが言うには市内にペットの葬儀とか火葬とかしてくれるお寺があるから紹介してくれるっていうんだけど、どうしたらいいかな。こっちから行ってもいいし、引取りにも来てくれるんだそうよ」

「ああ……ちょっと待ってくれ」

 私は耳に入っていたが理解していなかった妻の言葉を自分の中でまとめた。こういった、会話にタイムラグが生じるのは、私の場合珍しいことだ。

「とにかく、そうだな、いや、家できちんとお別れをしよう。陽子と太一にも見せたほうが良いだろうな。それから引き取りに来てもらっても遅いことはないと思うよ」

「そうね、二人にも生き物は死ぬんだっていうの教えた方がいいわね」

 私にとってみれば、そういった教育論的なものの言い方は馴染めなかった。単純に、自分たちが知らない間に家族が死んでどこかへ行ってしまうのは哀しいことだろうと考えただけだった。

「今日は定時であがるから。それまでは頼むよ」

 なるべく早く帰ってきてください、という妻の言葉を残して私は通話を切った。すると同時に、同じ課で私の直接の部下にあたる駒木根が喫煙所へ入ってきた。

「どうしたんすか課長、深刻な顔してますけど。なんか取引がおじゃんになったとかですか?」

「いや、そうじゃない。そうじゃなくてね」

 プライベートな出来事を部下に話すものではないといった思惑ではなく、単純に言葉が出てこなかった。そういえば、彼、駒木根は幾度か我が家に遊びに来たこともある仲であり、サンカクはやはり彼にも良く懐いていたことを思い出した。

「君は知っていたよな。家のサンカク」

「ええ、あの小さくて可愛くて、やたらと元気のいい猫」

「サンカクが死んだって、いまさっき、妻から電話がかかってきてね」

「え? だってこの前に私が伺ったときは元気だったじゃないですか。なんでまた」

 駒木根は煙草に火をつけるのもそこそこに私に詰め寄ってきた。まるで私に非があるかのように。

「いや、急にらしい。そういうことがあるそうだ」

 そうですかあ淋しくなるなあ、と駒木根は呟いた。そうなのだ、淋しくなるのだろう。私も家族も、なによりシカクが。

 妻から電話がかかってきたのはちょうど昼休みの少し前だった。それから昼食はひとり、ビルの外にある蕎麦屋で済ませ、あまった休憩時間はデスクから見える込み入った都心の景色を眺め、それから午後になっても私は一向に仕事をする気分にはならなかった。そもそも、何をやってよいのかすらわからなくなってしまっていた。腕を組んで気が抜けたような様子を見かねたのか、駒木根が私のデスクへと近寄ってきて「課長、今日はもういいんじゃないですか」と言った。

「幸い今日は仕事も立て込んでないし、そんな調子じゃ何をやっても手につかないでしょう。早く帰って猫にお別れしてきてあげたほうが」

「……そうか」と、部下に気を使われる気恥ずかしさを隠しながら、私は彼の言葉に甘えることにして職場を辞した。通勤ラッシュとは全く別の乗り物だと勘違いしてしまうくらい空いている電車を乗り継ぎ家の最寄り駅に着いたのは午後の三時。それから駅前のフラワーショップでサンカクへの手向けの花を買って家に着いたときには四時にさしかかろうとしていた。私が玄関の扉を開け、陽子か太一が帰ってきたのだろうと玄関へ出てきた妻にひとしきり驚かれたあと私は、サンカクが眠るように死んでしまっているダンボール箱が置かれた客間へ向かった。

「なんだか信じられないの。今朝まであんなに元気だったのに」

「そういうものさ」

 何がそういうものなのか、自分ですらわからずに口にした言葉だったが、それについて妻も詳しくは訊いてこなかった。ダンボール箱の中には目を閉じて、こうなって初めてお行儀が良くなったようなサンカクが、妻の用意した花といつも遊んでいたおもちゃに囲まれて眠っていた。私もそこへ自分で買ってきた花をそっと入れた。

 花というのは何だろう、なぜ死者に花を手向けるのだろう。淋しさを紛らわす為だろうか、どちらの淋しさ? これから死んでしまうものの? それとも残された私たちの? おそらくはどちらともなのだろう。

 私は陽子と太一はまだ帰ってないのかと訊いた。妻はもうそろそろ帰ってくる時間だけど、と忙しなく窓から身を乗り出すようにして外を見遣った。

 そんな妻がなぜか痛ましく視線を逸らすと、リビングと客間の間、襖の陰からシカクが私たちを覗いていた。まるで親同士の相談事を恐る恐る覗き見る子供のような視線だった。私と目が合うとシカクは身を翻し奥へと逃げてしまった。只ならぬ気配を感じたのか。シカクはサンカクがもう動かないことを知っていたのだろうか。いや、知っていただろう。だけど私と同じように、どうしてよいのか判らないのだ。

 帰ってきたわ、と妻が言った。陽子と太一のどちらが、とは言葉に付いていなかった。

 玄関の開く音が聞こえた。「ただいま」の声が聞こえ、帰ってきたのは太一であることを知った。玄関からすぐの客間にいつもと違う空気が漂っていることを勘付いたのか太一はそのまま客間へ入ってきた。そこへいつもはいない私がいることに少しだけ目を見開いた。そして私と妻の間に置かれている難破船のようなダンボールに目を向けた。

「サンカクが死んだよ」

 とだけ私は伝えた。誰かが死んだことを伝えるのは私にとって初めてだった。何もかも初めてのことばかりだった。私の言葉に誘われるようにしてダンボール箱の傍まで来た太一は、開いているダンボール箱の中を見た。そして身を凍らせたように、私には観ぜられた。

「なんで?」

 と言った太一は、しばらくそのままの姿勢でサンカクを見ていた。その問いに私も妻も答えられなかった。沈黙がしばらく続いた後、「ゲームやっていい?」と訊いてきた太一へ「いいよ」と私は答えた。妻は私に責めるような目配せをした。私は静かに首を振った。太一はサンカクから逃げるようにして私たちに背を向けると部屋から出て行った。それから明らかに時間を置いて、階段を昇る音が聞こえた。

「こんなときにゲームだなんて。貴方もどうしていいなんて言うのよ」

 妻は私を苛むように言った。今日は誰かに責められたり苛まれたりしてるばかりだ。私はまた首を振る。

「大人は哀しければお酒を飲むことが出来るけどね」

 死んでしまった猫も、まだ死んでない猫も人間の子供も、お酒を飲むことは出来ないよな、とは言わなかった。

 また襖の陰からシカクがこちらを覗いていた。今度は私と目があっても逃げることはなかった。ふと、シカクが玄関の方へ顔を向けてから正確に二秒後、再び玄関の扉が開いた。陽子が帰ってきた。太一と同じように、客間へ入ってきて、それからダンボール箱の中にいるサンカクを見た。陽子に懐いていたシカクが彼女へ寄り添うようにしている。心配ないよ、怖がる事はないよ、とでも言っているようだった。

「なんでよ」

 と陽子は言った。今日、何度目の「なんで」だろうか。私も妻も、また答えることが出来なかった。世の中には答えられないし、答を望まれていない問いというものが存在するのだ。

 陽子はシカクを懐に抱えて頭を撫でながら二階にある自分の部屋へあがっていった。太一も陽子も、ふたりとも涙を見せていなかった。「最近の子っていうのは、ドライなのかしらね」と妻がこぼした。

「泣かないからってドライってわけじゃないだろう」

「そうかしら。わたしが子供の頃に買ってた犬が死んだときなんて大泣きしたものよ。マメって犬でね、普通の雑種で、いつもは外の犬小屋につながれてて、まあ親は番犬として飼ってたつもりなんだろうけど優しすぎて誰にも吼えないから番犬としては役に立たなかったわ」妻はそこにマメが見えるかのように部屋のある一点を凝視していた。「マメが可哀相だから部屋へ入れてあげたら、って親に頼んだんだけど、汚いからって怒られたの、逆に私が。理不尽だって子供ながらに厭になった」

「その話は昔に聴いたことがあるよ。確か、マメは君の手を噛むのが好きだったんだろう?」

「ええ、そうなの。いつも手が傷だらけだったわ」

 陽子も太一もしばらく二階から降りてこなかった。寺から引き取りに来る時間は十七時半ということだった。どうして決まってるのかと妻に問うと、他のとろこも回ってきて家に来るんだってと妻が言った。まるで宅配便の収集みたいだった。毎日どこかで、誰かのペットが死んで、それを集めて回っているのだろう。妻がマメを家の中に入れようとお願いして怒られたときのように、酷く理不尽な気持ちが私の中で沸き起こってきた。

 さらに妻が言うには、ペットを火葬に付すのにも値段が決まっているそうだ。小さな動物やサンカクくらいの猫なら一万円、それ以上は大きさに合わせて二万円だったり四万円であったりするのだという。別に命は平等なのだから違う値段にするのは良くない、と憤ったわけではない。私くらいの年齢になると、人間や動物の命が遍く平等であるなんて幻想を信じては生きていけないのだ。ただ、単純に、命というものを値段で振り分けることが出来るのか、と違和感を感じただけだった。おそらく、その違和感はもっとビビッドになれば憤りに繋がるのだろう。

 寺から引き取りに来たのは、ありふれた白くて無地のワンボックスカーだった。車体に寺の名前や電話番号でもあるかと期待していた、と冗談を言うと妻は怒った。死んだサンカクが入ったダンボールには花やおもちゃ、それから陽子や太一があとから入れた雑多なもので溢れかえっていたために完全に閉めることが出来なかった。ワンボックスカーの後部には他にもダンボールやプラスチックの箱や籐の籠が、それこそ宅急便の荷物のように積まれていた。後部の扉を開けると少し獣の匂いがした。

「少し淋しい霊柩車だけど、我慢してくれな」

 と言って私は引き取りに来た寺の人間だかアルバイトだかわからない人間にサンカクを手渡した。家の門の前には私と妻、陽子と太一、そしてシカクが陽子に抱えられて、つまりサンカクが居なくなったあとの我が家の家族全員が二度と戻らないサンカクを見送った。陽子は淋しそうに涙を零していた。太一はようやくサンカクが死んだことを理解したのか、声を上げて泣いていた。妻でさえも涙を堪えていた。どうしたことか私は泣けてこなかった。シカクは陽子の胸の中で不思議そうに周囲を見回している。

 個別の埋葬は断っていた。サンカクは火葬に付されたあと、寺のペット用共同墓地に葬られると聞いていた。

 その夜、我が家の食卓は酷く静かで、物音をたてたり喋ることが禁止されてしまった小学校の給食みたいだった。食べ終わると陽子と太一は何も言わずに部屋へ引き上げてしまった。私は「まるでお通夜みたいだな」と妻へ同意を求める。妻は口に出して同意しない代わりに、私がとっておきにしていたウイスキィとグラスを取り出してテーブルに置いた。

 リビングと廊下の、子供たちが出て行ったあと開けっ放しになっていた扉の隙間からシカクがこちらを窺っている。私が気が付かない振りをしてウイスキィを呷っていると、一歩一歩、まるで吊り橋を渡る臆病な子供みたいな足取りでリビングへ入ってくる。私はサンカクにそうしていたように、身体を心持ちテーブルから離しシカクが膝の上に乗られるようにしてやった。シカクは、サンカクの真似をするようにして私の膝の上に乗ってきた。私はグラスを置いてシカクの背中をそっと撫でてやる。

「あら、珍しいのね。いままで貴方に懐いたこと無いのに」

「淋しいのさ。きっとシカク自身はどうしてだか解らないけど、淋しくて悲しくて、だけどそれをどうやって紛らわせたらいいのか知らないんだ。そういうときは誰かと一緒にいなければいけないんだ」

 私はシカクが膝の上で眠りにつくまで、妻とウイスキィを飲み続けた。

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