よわむしブーゲンビリア
前期最後の講義である四限の国際法を睡眠時間に充てて過ごした柿原忠志は、いつも通りに七号館を出て溜まり場のある学食へ足を運ぶ。
歩きながら携帯電話で話をしていると、白い正方形の建物が目の前に迫ってきた。忠志の通っている大学は東京都下、八王子市の東南に位置する多摩丘陵自然公園の中という立地にある。その立地の所為で周囲にあるのは動物園だけというこの大学の学食は、補完的意味合いがあるのか四階建ての建物が全て学食だった。
併設する中央図書館と全く同じ大きさであり、通称「ヒルトップ」と呼ばれているこの白い箱型の建物は、学食と呼ぶには些か憚れるような施設である。会話の終わった携帯電話をショルダバックの中に押し込み、自動ドアからヒルトップへ入る。忠志が所属している広告研究会サークルの溜まり場は、その学食の一階にある。
「あれ、他の連中は?」
溜まり場といっても学食の一角に過ぎないが、そこには桃井依子一人しか座っていなかった。
同じフロアを見回しても、前期の最終日だけあって学生は片手で数える程しか居ない。尤も人が少ない理由はそれだけでは無く、昨年の四月にヒルトップの三階へ大手ハンバーガーチェーンが出店してから、一階食堂に来る学生の数は減少したとも言われているのではあるが。
「居ないわよ、わたしだけ」
忠志を一瞥して素っ気なく答えると、依子は珈琲カップが端に置いてあるテーブルに広げたノートへ、視線を戻した。因みに忠志は、依子のノートに関しては以前に一度見せてもらった事があるが、その内容が皆目見当がつかなかった経験がある。
「ふーん、俺だけだね、真面目なのは」
「そうだね。四年生にもなって必修科目に出なきゃいけないのは、君くらいだからね」
忠志を見もせずに依子は話す。現役で入学した忠志に対して、依子は二浪をしている。忠志にしてみれば、彼女ほど勉学に真面目な人間が何故二浪もしたのか気になる事ではあったが、個人的な事情があると考えると安易に聞けるものではなかった。
その所為か、入学して間もなく知り合ってから現在に至るまで、常に依子は忠志を年下扱いしている。その事は忠志にとって決して面白い事ではなかった。
「じゃあ、依子さんは何してるのさ」
椅子の脚がリノリウムの床に擦れる耳障りな音を立てながら、決して座り心地が良いとはお世辞にも言えない椅子を引くと、忠志は依子の向かいに座った。
「わたしは、ほら、マスタに進むから。お勉強です」
そこでようやく、依子は忠志に視線を戻す。依子は大学院に進む、という話は前から聞いていた。忠志にしてみれば、これ以上勉強をする気には全くなれなかったし、そこまで学問に対して真摯な姿勢は持てなかった。実際、勉学に関して忠志は依子に全く及ばないどころか試験の度に手助けしてもらった事が数知れずあるので、頭があがらないどころか足を向けて眠れないのだった。
「そういう君は、就職、決まったの?」
「まだ」
「ちゃんと就職活動、してる?」
痛いところを突かれてしまった。忠志は大学卒業後は就職予定だったが、まだ就職先の内定は取得していない。と言うよりも始めの一、二社を受けて芳しい成果が得られなかった為に、就職活動自体が嫌になって以来、就職活動はしていてなかった。
「依子さんには、関係ない事だと思うけど」
「あ、喧嘩腰だ。やだやだ」
「俺の問題だから、関係ないじゃん」
忠志は少し感情的になる。
「まあ、そうかしらね。君の問題ね。それは失礼しました」
ボールペンを右手の指先で起用に回しながら、依子は左手に乗せた顔で微笑んでいた。
発券機に五百円硬貨を入れて、もり蕎麦のお釣り二百九十円を受け取る。厨房の前に作られているカウンタに食券とトレイを乗せて、麺が茹で上がるのを待つ間にプラスチックのコップに冷水を注ぎ、割り箸ではなく塗り箸をもってくる。其の頃にはトレイに蕎麦が載せられている。
入学以来この三年半の間に繰り返してきたこの一連の動きの中で、忠志は依子に対して今日伝える内容を考えていた。尤も何を話すのかは決まっているし、まとめる程の事ではないから、どう切り出せば良いかを考えていたのだが。
人があまり集まっていないからか、並べられたテーブルと椅子はそれほど乱れていなかった。
一階の学食フロアはヒルトップにある他の階と比べて一際天井が高い。贅沢なほど広い空間で聞こえる音は厨房から聞こえる調理の音だけであり、学生達の声は全くといって良いほど聞こえない。
トレーを手に歩きつつ溜まり場のテーブルに戻るまで、忠志は依子の事を一度も見なかった。見られている、と感じていたのだが、思い違いも甚だしいと忠志は我ながら感じる。心の中で苦笑しつつ、忠志は昼食をテーブルに置いた。
「それで、なに? 何か話があるんでしょ?」
依子はノートから顔を半ば上げると、片目を細めて忠志を睨む。いきなりの言葉であり、しかも胸の内を見透かされたに等しい忠志は、椅子に座りかけ中腰の姿勢のまま固まってしまった。忠志のその様子を見て、依子の口元だけは笑う。
「な、な何が?」
「バレバレなんだよね、君って。様子ですぐに分かる」
依子は相変わらず片目を細めたままだった。しかし瞳の表情は、笑いを堪えている様に見えなくも無い。
忠志はこの表情を、今までに幾度と無く見てきた。恐らくこの表情にかぎらず、同学年の中では依子の表情を一番知っているのは自分である、と忠志は自画自賛している。尤も、それは何ら根拠の無い自身、或いは願望であったり、他の同級生達に負けたくないという気持ちの現われかもしれない。
「様子って? 別にいつもと変わらないでしょ」
「わざわざココに来る前に電話で、わたしが一人かどうか確認したのは、何ででしょうね」
講義のあった教室から出てすぐに、依子に電話をして誰も居ないことを確認していた忠志ではあったが、今となってはその判断が正しかったかどうか、と問われれば首を捻らざるを得ない。
忠志は話すべき内容を頭の中で、一、二秒の間に反復して思い出す。そして、改まって居住まいを正すかのように椅子に座り、依子に向き直った。
「えっと、今日は話がですね、その、あって……」
「なに? 相変わらずはっきりしないよね、君って」
依子は置いてあった珈琲を手に取ると、薄いピンク色の口紅が塗られた口元へゆっくりと運んだ。
外から差し込む光は依子に陰影をもたらし、依子の斜め後ろでは彼女自身の影も同じ動きをしている。その影に一瞬だけ眼を向けて、忠志は気持ちをもう一度落ち着ける。しかし忠志にとって話すべき相手は依子の影ではなく、彼女自身だった。
「はっきり言って欲しい?」
「んー、言われたいような、言われたくないような」
依子は視線をガラス張りの窓から見える中庭に、一瞬だけ逸らした。外の通路では疎らな学生達が友人達と話しながら、ウォークマンの音楽に気をとられながら、下を向いて何かを考えながら、行き交っている姿が見える。そして依子は視線を戻すと、忠志を横目で見つめながら、顔を少しだけ上げて珈琲カップを傾ける。
依子の珈琲が誰かを待っていた為にすっかり冷めてしまっている事を、この時の忠志が気付く筈もなかった。




