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いまは緑色の芝生  作者: 三号


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10/16

ヘンペルのカラスは夜空で視えない

 僕の名前は後で紹介されるものとして僕としての僕はいま持て余す程に暇があるというわけでもなく、僕でない僕であったとしたら寝ることと歩き回ること以外をしているようには観察されていないとしても、それはそれで立派な生き様なのだ。

「僕、僕って君はうるさいなあ。自意識が芽生えたばかりの中学生かね」

 聡子は少しだけ呆れて僕を振り返った。普段はおろしている前髪をヘアピンでとめているので、振り返って僕を見ることの邪魔にはならなかったようだ。

「あれ、聞こえてた」

 無意識で口に出していたらしい。僕は右の前足を三度舐めて濡らしてから顔を洗う。

「雨でも降るの?」

「猫が顔を洗うと雨が降る、っていう諺の確立を計算したことはないけど」

 聡子の疑問を受け流して僕は彼女の背中で背伸びをする。背伸びを終えて堪えきれなかった欠伸をしたところで、聡子は僕から目を逸らした。というよりも寝転がっている聡子の前に立てられた四角い板のようなもの、これはタブレットと呼ぶらしいが、それに向き合った。

「ユキカゲは良いなあ、毎日寝っ転がって偶に部屋の中をうろちょろして、私があげるご飯を食べているだけで日々が穏やかに過ぎていくのだもの」

 ユキカゲというのが僕の名前である。この名前は聡子が名付けたものではなく、以前のもっと以前でかなり前な何度目かの僕が面倒をみてあげていた人間に名付けられたものだ。名付けられるまでの僕には名前というものがなくて、ただ「猫」とだけ呼ばれていた気がする。遠い昔の事で鮮明に思い出すことはできないのだけれど。

「聡子は何をしている?」

 先ほどまでの聡子は椅子に座り机の上に並べられた紙の束と格闘していたが、今は胸元にクッションを置いて床に俯きで寝そべっている。

「お勉強時間が終わったので、今はスーパーお絵かきタイムだよ、創作活動に勤しんでいるのが見てわからない?」

「猫にそんな事情は分からないよ」

「言うに事欠いて君が普通の猫を真似てもだめだよ」

 猫にもいろいろと種類があって三毛猫だとかハチワレだとか黒猫だとか、柄だけではなくて人間によって猫は細かく種類分けされているようだ。だけど僕はどこにも属していなくて、もしかしたら見た目的にはどこかに属しているのかもしれないけれど、人間は僕のことを「化け猫」と呼んでいた。

 他の猫よりも少し長生きしてしまったので、うっかりと化けてしまったらしい。化け猫になったのがいつのことかまでは憶えていない。

 化け猫になった僕はそれまでもしてきたように色んな人間の世話を焼いている。聡子の前に世話をしていた人間は二人でやたらと広い部屋のマンションに住んでいた。僕の世話も空しく最後には二人とも骸骨になったまま交尾をしたり、お互いの肉を食べ合ったりしていなくなってしまった。嘘じゃないよ、本当の話。大丈夫、怖くない怖くない。

「スーパーお絵かきタイムとやらで何をしているのさ」

「しているんじゃなくて、つくってるの。漫画よ漫画。私が描くことで新しい世界をつくるのよ」

「凄いな新しい世界をつくれるなんて、化け猫の僕よりも凄いよ」

 そもそも世界というのが何かは判らないけれど、きっとあのタブレットに細い棒を擦ってできる何かをつくっているのだろうと思う。人間というのはつくづく不思議なことをするものだと感心した。

「たださあ、行き詰まっててさあ、どうにもこうにも先に進めないのよ」

 目の前のタブレット以外に、聡子は床にいくつもの本を散らかしている。開いている一冊の本には様々な動きをしている人間の姿が書かれていた。どうやら聡子はそれを参考にしているらしかった。

「聡子は何を描きたいの」

「私はねえ、流行りの異世界転生を越えた新たなジャンルを生み出したいの。異世界転生ならぬ異世界創造! 妄想を拗らせてつくった世界で根暗女子が男を何人も侍らせて乳繰り合いながら巨悪を倒すのよ、ああもう最高、壮大なスケールで描かれる新ジャンルよ!」

 気宇壮大な聡子は僕へ力説するが、あまり何を言っているのか分からない。ただ、聡子がつくりたいものがあるのに上手くいってないということは、何かしらの障害があるのだろう。

「で、どうして行き詰まってるの」

 極めて優しい化け猫であるところの僕は聡子に話を促す。

「足りない……圧倒的に画力が足りない。嗚呼……神さま……どうして人間はこうも複雑な構造をしているのでしょうか。腕やら脚やらくねくねしてて難しい、指なんてどうやって上手い人は書いているのだ、私は問いたい」

「誰に?」

「漫画の神さまよ、化け猫なら知ってるんじゃない?」

「知らないよ」

 つまり聡子はつくりたい確固とした世界観を持っているが絵で表現する技術が不足していることに嘆いているらしい。なるほど、真剣な悩みである。かといって借りたいであろう猫の手を貸したところで解決は出来ぬであろうし、化け猫とはいえ絵が巧くなる呪いやら魔術などは持ち合わせていない。

「うーん、ユキカゲならすらすらと書けるのになあ……」

 ぶつくさと言いながら聡子はタブレットに棒を走らせる。いくらか雑ではあるが、タブレットには猫であり化け猫であるところの僕が行儀よく座っている姿が描かれていく。線を描き終えると茶色の縞柄に色を付けていった。見る見るうちに僕のイラストがタブレットに現れる。

「なんだ、上手じゃないか」

「ユキカゲなら、っていうか猫なら苦もなく描けるんだけどなあ……やっぱり猫が好きでずっと見てるからかな」

「つまり、そういうことじゃない?」

「というと?」

 僕は聡子の背中から降りて、彼女の正面にタブレットに描かれた姿と同じ姿勢で座った。

「僕が観察している限りにおいてだけど、聡子は人間が嫌いなのじゃないかな。人嫌いだからなのか友達と遊んでいるところを僕は見たことがない。つくりたい世界があっても人間そのものに興味がないから生きている人間を観察しないし、人間の姿も描けない」

 クッションに重い物が落ちて空気が抜ける音がした。

「凄いわねユキカゲ、さすが化け猫ね。あなたクロスカウンターの使い手だったのね、致命傷だわ」

 聡子は胸元に敷いていたクッションに顔を埋めていた。

 しばらくして、クッションを介してくぐもった笑い声が聞こえてくる。

「ふふふふ……そうかそうだね……興味がないものが描けない……なら、全て猫にしてしまえば良い!」

 勢いよく立ち上がった聡子はタブレットを掻っ攫うと机に飛んでいき一心不乱に細い棒を動かし始めた。僕が「どうしたの?」と声をかけても反応しない。全て猫、というと聡子がつくろうとしている世界の登場人物を全て猫にする、ということだろうか。その場合、登場猫物になるのかな。まあ、彼女が好きでやっていることなので止めはしないけど、苦手なことから逃げて絵が上達するのだろうか、という疑問が残らないこともない。

 ともあれ、聡子が元気になって良かったと胸をなでおろした。

 化け猫である僕はいつまでの同じ人間の世話を焼き続けることはできないので、いつかは聡子の前からも姿を消さなければいけない。だけれども、もうしばらくは、そう、聡子が必死につくりあげている世界が完成するまでは、彼女の部屋に留まっても良いかもしれないと思う。

 机に向かい創作活動とやらに励んでいる聡子を横目に、僕はいつもの寝床である出窓の前まで歩いていって、今日何度目かの昼寝をすることにした。

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