呪い
使用人が慧真を起こしに来たのは夜中であった。何事かと着替えて出ていくと裏門に客が有ると言う。
「花街の女郎部屋の番頭と女将です。忌み子のことで話があるそうで。」
用心のため刀を差し、幾人か人を呼んで裏門に回った。
提灯の明かりの下で体の大きな男と老女が立っていた。男は小脇に簀巻きにされた人間を抱えている。
「李慧真様、夜分にお呼び立てして申し訳ありません。」
女将は深々と頭を下げた。老女は花街で組合の長をしている朱梨花と名乗った。形式上頭を下げはしたが油断のならない鋭い目つきをしている。
「こんな話は昼間にはできませんので。」
彼女の合図で男は荷物のように抱えていた筵を慧真の前に転がした。筵の間から白い腕が見える。胸騒ぎがして慌てて筵を剥がすと気を失った文寧子がそこにいた。殴られたのか、顔には赤黒い痣ができていた。
「ここ3カ月ほどですかねぇ、困るんですよ。銅3枚なんて安い値段で勝手に体を売られちゃこっちの商売が成り立たない。調べてみれば李様の遠縁の方だとか。衣食住に困っていないからといってこちらの法を無視して良い理由にはならないでしょう。」
老女は滔々と語った。日暮れから数刻、毎日現れるわけでも場所が決まっているわけでもないせいで捕まえるのが遅くなったと言う。
「それとも、お困りなら私共で引き取りましょうか。ずいぶん慣れているようで、評判も悪くありませんでしたからねぇ。」
顔を寄せて声を潜める女の言葉で、背中に冷たい汗が伝った。怒りが沸騰し、殴りつけそうになる拳を理性で抑えた。
「手出しは無用だ。李家のことは李家で始末する。」
使用人に金を持ってこさせ、梨花に渡した。
「迷惑をかけてすまなかった。このことは誰にも言うな。」
「そうですか。気が変わったらいつでも朱梨花をお尋ねください。」
ねっとりとした嫌な微笑みを残して老女と大男は闇に消えた。
「やはり売女の子は売女ね。汚らわしい。」
後ろから声がして、振り向くと母が寝間着のまま立っていた。
「母上、彼のことは私が、」
「お前がどうするというの!愛人にでもするつもり!?」
掴みかかってくる母を抱きしめる。
「落ち着いてください。夜は冷えますから、部屋に戻って、温かい茶を飲んで、寝てください。今夜のことは忘れて。」
「あの淫売は旦那様を奪って、飽き足らず息子まで…。」
「母様、慧真はここにいます。奪われてなどいにいでしょう。仙女などいません。仙力など夢物語だと知っています。」
なおもぶつぶつと呟く母を信用のおける使用人に任せて慧真は文寧子を見下ろした。花街で文寧子が何をしていたのか分からないほどうぶではなかった。
慧真は文寧子の腕を掴みながら筵の外側から腹を蹴った。外だけ叩くように蹴ったから痛みはしないはずだ、恐らく。文寧子は呻いた。慧真は李家の長であればこうするであろうという行動原理に従っている。
「これの始末は私がする。今夜のことは言外無用だ。屋敷に戻れ。」
使用人達は無言で従った。
恥をかかされたからだろうか、違う。文寧子の頬を軽く叩くと彼は薄目を明けた。裏切られたと感じたからか、何故?襟首を掴んで小屋の壁に押し付けると彼は苦しそうに顔を歪める。頭の何処かで冷静さを保ちながら質問した。
「金が欲しかったか。」
掴んでいた襟を離すと文寧子はずるずると力なく床にに丸まった。
「食事は足りていただろう。」
慧真は蹲る文寧子に近寄るが、彼は怯えて後ずさる。こんなに腹が立つのはどうしてだろう。
「では男が欲しかったのか。」
小屋の隅に追い詰めて、慧真は不思議な思いで文寧子を見つめていた。彼は応えなかった。
「本当に?」
短髪を掴んで無理やり顔を上げさせると文寧子は涙でぐしゃぐしゃになっていた。夜に会いに行けばいつも小屋の前にいた。あれは客を取った後だったのか。
「あ、あと912人、」
「なんだ?」
「呪が解けるんです。男の人と気を練ると呪が、仙女の呪が、」
止める間もなく慧真は文寧子を殴りつけていた。
「仙女の呪など迷信だ!君はもっと聡明な人だと思っていたが、間違っていたようだな。」
でも、となお文寧子は言い募った。
「母が教えてくれたんです。千人の男の人の気で呪が解けるって、陽の光を浴びても平気になるって…」
「あんなのは子供でもわかるお伽噺だろう!君の母親は仙女なんかじゃない。子供の君を商売に加担させるために嘘を吹き込んだんだ。」
文寧子はゆっくり体を持ち上げた。番頭と慧真に殴られて半目になった瞳からはもう涙は出ていない。
「では、なぜ私の体はこんな風なのですか。」
言葉が胸を打った。
「全てが嘘なら、私は一生陽の光を浴びることは叶わないのですか。」
教えてください、慧真。抉られるように胸が痛む。無垢な者に真実を教えることはこんなにも残酷か。
父が死に、今度は母が病みついた。父の場合は明確な病名があったが、母の場合は気鬱だろう。連れ合いを亡くし、妄想に囚われ、常に伏せっている様子は哀れだった。
家督を継ぎ、書類に判子を押し、様々な権利を譲り受けた。葬儀に仕事にと忙しくしている間は西の小屋のことを忘れられる。あの一件から慧真は裏門に見張りを付け、万が一にも文寧子が外に出られないようにした。彼は門の出っ張りに器用に足をかけては門を乗り越え外に出ていたらしい。
傷薬を小屋の前に置いたが、顔を合わせることは躊躇われた。そうこうしているうちに冬を越えられず父が死に、慧真は頭の中を書類で埋め尽くした。
春が来て、気晴らしに弓の練習をした。どこかに文寧子がいるような気がして、振り向いても何も見えない。矢を何本か外した。
仙力について調べたりもした。昔々あるところに、から始まるような子ども向けのお伽噺、はたまた古本屋で売っていた怪しげな奇怪本に仙力のことが載っていた。空想上の出来事をそれらしく現実社会に繋げ、恐怖心を煽って本を売ろうとしているのだ。巷での評価は幽霊や狐と同じような分類で、人々は面白おかしく仙女の呪を口にしていたに過ぎない。奇怪本には確かに仙女の力は閨房術で練られると書いてあった。だが、それは成人向けに描かれた男女の睦ごとを閨房術と偽っているだけだった。そこまで読み解いて慧真は仙力について調べるのを止めた。
何もかもが虚しい。月を眺めて2人で庭を歩いた時間が懐かしかった。