仙女
苦しくて目が覚めた。喉が腫れ、熱が出ているせいだ。文寧子は寝床から這いずり出て瓶の水を呑もうとした。上半身を持ち上げると視界の隅に何か置いてあるのがわかった。暗闇に目を凝らせばそれは水差しと切った桃であった。慧真だ。水を飲み干し、一つだけ桃を口の中に押し込んだ。甘くて涙が出た。
また体が痒くなる予感がして包帯の上から爪を立てようとして止めた。搔いちゃ駄目だ、と言った慧真の言葉を思い出す。夜風に当たれば少しましになると経験上知っていた。壁伝いに歩いて外に出ると晩夏の涼やかな風が体に当たった。着物を脱いで包帯を取る。月の光だけが文寧子を癒やしてくれる。いや、慧真もか。
母は仙女であった。謀られ、罪をなすりつけられた結果今の暮らしがあると彼女は言った。今は気を練っているのよ、と機嫌良い時の母はそう教えてくれた。仙女は閨房術で気を練る。だからたくさん相手をして気を溜めて、こんなところからは逃げ出すのだ。
昔は母は仙女として人々を癒やし、桃のみを食して生きていたらしい。きらびやかな着物、簪、髪飾りについて母は目を輝かせて語った。頬が痩け、髪はボサボサで饐えた臭いを放っていても、そんなときの彼女は美しかった。
文寧子も気を練る練習をした。性器を舐めるのは顎が疲れて嫌だったが、上手くできると客は銅3枚の他におまけで1枚くれることもあった。
気まぐれに母は文寧子を可愛がり、気まぐれに殴った。客に殴られることもあったが、崩れ落ちる文寧子を見て母は笑っていた。外に逃げる気力もなくて、倒れたままでいる文寧子に客は竹かごを被せて大人しくしていろと言った。竹かごの隙間から閨房術を学んだ。
本当はお金なんか取らないのよ、仙女の術は広く民に与えられるべきなんだから。でもねぇ、お金を取らないと女将さんが怒るのよ。母は困ったように文寧子の頭を撫でた。
銅1枚で食べられる饅頭が文寧子と母の取り分だった。あとの金は女将さんが持っていってしまう。でも女将さんのお陰で小屋に居られる。昼に寝て、夜に起きて客を取る。文寧子と母の生活はそんなふうだった。
文寧子にも仙力が有るらしい。女に産む予定だったそうだ。それが、他の仙女に恨まれ呪いをかけられた。だから文寧子は男で産まれ、陽の光に当たると化ける。そう教わってきた。
慧真を盗み見ていると呪いを解きたいという気持ちが頭を擡げてくる。彼は逞しい体で弓を引き、射る、汗が散る。巧みに馬を乗りこなす、あの嬉しそうな顔。陽の光は彼のためにあると文寧子は思っていた。
名前をくれた。会いに来てくれた。そして、化け物になった自分を助けてくれた。
呪いを解きたいと強く願う。
季節は夏から秋に変化した。文寧子の体の傷は癒えたが、奥様に見つかるのを恐れて昼間は小屋の中で潜むように暮らした。とはいえ寝ていれば陽の光を浴びずに済む。
母は文寧子に呪いの解き方を教えてくれていたが、実践するのには準備がいる。心の準備も含め。
慧真はあまり顔を出さなくなった。彼もまた奥様の目を気にしているのだろう。
夜の庭を散歩したことをぼんやりと思い出す。慧真は最近昼間仕事に行っていて忙しそうだ。家督を継ぐ準備をしているらしい。慧真からは陽の光の匂いがする。彼の隣を歩いても体が変化しなかったのは私が彼に許されているからだろうか。
なんの食べ物が好きか、好きな色は、そんな話をしておけばよかったのに慧真が来ると緊張して上手く言葉が出てこない。慧真の方もお喋りではないので、結局2人で黙って庭を歩くだけだった。
夕刻に虫の声が聞こえる。文寧子が陽の光を浴びても平気になったら慧真は喜ぶだろうか。ふと、そんなことを思った。