罰
乗馬の最中、弓の稽古中、慧真は視線を感じ、その度に文寧子の存在を背中で知った。木の上か草の陰にいるのだろうが、敢えて探すことはしなかった。探して、他の誰かに見咎められるのを避けたかった。
時折夜中に会いに行った。文寧子は大抵外に出て月をぼうっと眺めていた。
「日中は何をしているんだ。」
「寝ているか、人目につかないように散策をするか、それくらいです。」
「弓の稽古を見るのは楽しいか?」
文寧子はちょっと表情を変えた。驚きだろうか。
「すみません。気が散るなら止めます。」
「いや、構わない。」
彼は視線を落として何か言いたそうに両手を合わせ、指を組み替えた。しなやかな動きであった。
「あまりに美しいので、つい。」
今度は慧真の方が驚く番だった。
「弓を射る貴方の姿勢や、的の真ん中を矢が貫くところ、空気を貫く音が、美しいと私は思うのです。」
家来の誰もそんなことは言わない。
「他の方々も練習されていますが、貴方ほど美しい人は他にいません。」
文寧子は視線を上げて慧真に微笑んだ。薄い唇の端が綺麗につり上がった。
奇妙な声で目覚めた。うめき声のような、くぐもった叫びのような。常起きる時間よりも早い。太陽が昇ってくる途中の薄暗い早朝に、慧真は衣を着替えた。部屋の外に出て、使用人をつかまえた。
「この音はなんだ。」
彼は口籠った。
「その、忌み子が悪さをしたので…。」
途中まで聞いて庭に駆け出した。叫びは庭の方から途切れることなく聞こえ続けていた。
太い松の木に文寧子は縛り付けられていた。陽の光に晒された彼の顔は赤く腫れ上がり、着物の下も恐らく同じ状況になっている。手の届く範囲は爪を使って掻きむしられ血が出ている。顔は左右に振って樹の幹で擦ったのだろう木のクズと血が混ざり合って頬に張り付いていた。彼は猿轡の端からよだれを垂らし、絶え間なく苦しみの声を上げていた。
「文寧子!」
慧真の声に反応してこちらを向いた目は充血し、正気の顔ではない。化け物とは誰が言ったのか、これはただ傷つけられた一人の青年だ。兎に角これ以上日に当たらぬようにしてやらねばと上着を脱いで被せ、縛り付けられている縄を小刀で切った。
手足が自由になると彼は手が届かず掻けなかった皮膚に手を伸ばし、苦しそうに地面に転がった。その過程で猿轡が外れ、口からは言葉ではない声が漏れる。
辛うじて痒い、痒いという言葉が聞き取れた。上着ごと抱きしめて西の小屋に向かった。暴れる男を担ぐのは一苦労だったが、なんとか小屋に連れ込んだ。血と木屑を落としてやらねばならない。瓶に貯めてあった水を頭からかけてやると少し楽になったようで、動きが緩慢になった。
それでも皮膚を掻く手を止めないので両手を掴んだ。凄い力で暴れるので全身を使って寝床に押し倒す。
「文寧子、痒いだろうが、搔いちゃだめだ。」
嫌だ、助けて、と言っているように聞こえる。叫び続けた喉は傷ついてもう掠れ声しか出ていない。
「我慢してくれ。もう一度冷たい水をかけてやる。大人しくしていたら軟膏を持ってくる。そうしたら楽になるから。」
動きが止まったのでそっと体を起こすと顔や体に赤いできものができて腫れ上がり、全体に熱を持った文寧子の様子がよく見えた。
手拭いを瓶の水に浸して頬を拭うと固まった血が溶けてすぐに手拭いが赤く染まった。全身を拭うと文寧子は慧真の腕を痛いくらい掴んだ。
「な、軟膏を、」
「わかった。直ぐ持って来るから待ってろ。」
傷に効く軟膏は剣の練習で怪我をする慧真のために部屋に常備されていた。ついでに綺麗な布もあるだけ持っていく。
小屋の中で文寧子は大人しくしていたが、腫れ上がった顔や体、それを掻きむしった体は痛々しかった。もう一度水で拭いてから軟膏を塗り、布を裂いて体全体に巻いた。
近くにあった皿に水を張り、飲ましてから布団をかける。
「寝た方が良い。起きたら何か食べ物を持ってくる。」
腫れぼったい瞼の奥の瞳は理性を取り戻したようだった。ありがとうという掠れた声を最後に文寧子は意識を手放した。
文寧子の暮らす小屋は机と寝床しかない質素なものだった。壁は彼の描いたものと思われる花や草の素描で埋め尽くされていたが、中に1枚女性の姿が在った。母親だろうか、文寧子にどこか面差しの似た女性が美しく着飾って微笑んでいる。何かの花を模したのであろう髪飾りが印象的だった。
罰を与えたのは母だった。近ごろ文寧子が西の小屋付近を離れ、母屋に近づいていることに対しての罰だった。
「あまりに惨い仕打ちではないですか、母上。」
「アレの味方をするのですか?お前も見たでしょう、あんな化け物!いっそ、」
殺してしまったほうがと口に出さなかったのは曲がりなりにも文寧子が父の遠縁だからだろうか。
「そうではありません。一青年を閉じ込めてずっと小屋から出るなとは無理な話です。母屋に近付いただけであんな罰を与えなくとも良いのではないですか。」
母の手が優しく私の顔を撫で回す。執拗に、丹念に。
「かわいい息子よ、化け物に誑かされたのですね。アレは母親に似て不潔な淫売です。貴方だけはアレに近付かないで、どうか母のことを思うなら、どうか。」
狂っている、と母の目を見て確信した。