李慧真
仙女を騙った女が忌み子を産み、8歳まで育てたが、子供を残して女は死んだ。遠縁にあたる李家が子供を引き取った。だから、西側の掘っ立て小屋には近づいてはいけないと母は言った。忌み子が暮らしているから、と。
言いつけ通り私は掘っ立て小屋には近づかなかったが、忌み子の方から出てきてしまってはどうしようもない。
弓の練習をしている時に視線を感じ、振り向くと草むらに何か動くものを見つけた。剣を手に近づいて草をかき分けるとしゃがんでいる人間が出てきた。その人間はのそりと立ち上がったが、その風体は異様で、私は声を出せなかった。
全体的な印象は黒い棒だった。つばの広い帽子には黒い布が張られており、それが忌み子の顔から膝のあたりまでを隠していた。背丈は私より高く、そのせいで余計に恐ろしかった。戸惑っているうちに手袋をした指が黒い布をかき分け、奥に顔が見えた。白い顔だった。男は口元だけ微笑んでみせた。
母は忌み子を異常に嫌っていた。使用人達の噂話を盗み聞けば仙女を騙った女は色街で春を売っていたそうだ。遠縁とは名ばかりで、実は父の隠し子なのではないかと母は疑っているのだろう。
忌み子、というのが具体的にどういった類いのものなのか私にはわかっていなかった。黒い布に包まれた青年が一体何をしでかすというのか。しかし、私は何故か剣を手放せないでいた。
「こんにちは、慧真様。」
青年の声は穏やかだった。布に隠れて影になった表情は柔らかく、静かなものだった。
「お前は…何者だ。」
青年は首を傾げた。
「さて、何者でしょうか。忌み子とも、アイツともソイツとも呼ばれますが。」
「名は?」
「私に名はありません。誰も呼ばなかったので。」
夏の日差しに帽子と黒い布はさぞ辛かろうに青年は汗ひとつ掻いていないかのように涼やかな顔つきをしていた。
「何をしていた。」
彼は目を細めた。そして慧真から視線を外して遠くを見つめた。
「貴方の弓が、美しかったので、つい。」
家の者が慧真を追って近づいてきて、青年を見つけて立ち止まった。
「お前!出てくるなと言われているだろう!」
長らく李家に勤めているその使用人が怒鳴ると、青年は素早く身を翻して駆け去った。
「慧真様、アレに近づいてはなりません。アレは化け物です。」
「あ、ああ…。」
白い顔は名前が無いと言った時にほんの少し眉毛が下がった。黒い布の奥の顔が何故か忘れられなくて、いつの間にか慧真の剣を握る手は汗で湿っていた。
「化け物とは?そもそも忌み子とはなんだ?」
尋ねると使用人は声を潜めた。
「私から聞いたと誰にも言わないでください。」
2人は屋敷に戻る道をゆっくりと進む。周りに人影は見えない。
「旦那様のお母様の従兄弟の息子の孫がアレです。お聞き及びとは思いますが、アレの母親は仙女を騙った悪女でね。女の実家は良い血筋だったようですが、娘が仙女を騙って人を騙して金を巻き上げたと知ると縁を切ったんです。そこから気が狂ったのか、元々狂っていたのか色街でたった銅3枚で体売るようになって、どんどん言うことも様子も支離滅裂になったとか。で、そのころに産まれたのがアレですよ。縁を切ったとはいえこっそり女の母が様子を見に行っていたらしいです。それで女が死んで、子供が死体に抱きついているのを見て仏心が産まれたのか哀れになって引き取ろうとしたのですが、家族の反対にあって、それで遠縁の旦那様に押し付けたんですな。」
何故父が引き取る流れになったのかまでは使用人も知らないそうだ。まさか母の邪推通りでは有るまいが。
「死体から引き剥がして小屋の外に出したら子供の姿が化け物に変化してね、暴れたんだそうです。ここに連れてこられた時に俺も見ましたよ。体中に腫れ物ができて、叫んで。ありゃ仙女の呪いですわ。女の悪行が腹の子に仇を成したんだと皆言っとりますわ。悪いことはするもんじゃあ無いですね。いつもは西の掘っ立て小屋に引っ込んでるんですが、どうしたわけか出てきちまって。」
「…そうか。」
使用人の話では、呪が体中に根を張っているから忌み子なのだと言う。陽の光に当たると化け物に変化するのだそうだ。
仙女の呪いなどと言うものが本当に存在するのだろうか。存在するとして、女を狂わせるだけでは飽き足らずなぜ子供にまで影響を与えたのか。
陽に当たらないように体を包んで暮らす青年がひとり、ずっと庭の隅に居たのだ、という事実が頭から離れなかった。
父の律詩は厳しく、無口な人物であまり何を考えているのかわからない。一人息子の慧真にも心の内を推し量ることはできなかった。だが、病みついてからはめっきり弱々しくなり、家を頼む、母の龍児を頼む、早く嫁を取れとそればかりになった。弱くなっている父になら忌み子のことを聞けるかと思ったが、顔色が予想以上に悪く、慧真の口は重くなった。
母に聞いてもまともな話は出てこないだろうと早々に諦め、慧真は最後の手段に出た。夜半に西の小屋を訪ねたのである。
青年は小屋の付近で佇んでいた。被り物はない。月の光で今度は顔がよく見えた。一重まぶたにつり目で、柔和に半円を描く眉毛、薄い唇、何処をどう見ても父には似ていない。白い顔は大して驚きもせずに慧真に向いた。
「こんばんは、慧真様。」
まるで昼間と同じ口調である。
「こんな時間に何をしている?」
自分から訪ねていったのに、黙っていられず慧真はそう聞いた。
「月の光は私を癒してくれます。被り物をせずに外に出られる唯一の時間ですから。」
青年は着物の袖からすうっと白い腕を出した。月に差し伸べているようだ。
「聞いたのでしょう?陽の光に当たると私は変化します。」
「どんな風に?」
「全身が焼かれるように熱くなります。そして、耐え難いのが痒みです。どんなに引っ掻いても治まってくれない、痒みが全身を覆います。」
思い出したように彼は眉を顰めて頬を爪で掻いた。
「痒みをなんとかして欲しくて、当たり構わず人に縋ったり体を掻きむしったので気狂いだと誤解されました。」
「君は狂っていないようだ。」
「それは貴方が私と言葉を交わしてくれたからです、慧真様。」
青年は慧真を見てそっと微笑んだ。慧真は視線に耐えられずに俯いた。彼はあまりに清らかだった。
「また会いに来ても良いか。」
彼はぱっと表情を明るくした。
「ぜひ、いらしてください。お待ちしております。」
やがて慧真は青年に名前を送った。文寧子、国を支えたかの賢人と同じ名前だった。青年の穏やかな空気に賢人の叡智が重なったからであった。




