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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

音も光も

 都市の喧騒は、月には遠い幻聴のようだった。彼女の世界は、音の粒子で構成されていた。アスファルトを滑る車のタイヤが奏でる微かな摩擦音、路地裏を吹き抜ける風の囁き、そして何よりも、隣を歩く兄、漠の声と、彼が放つ微かな体温。それらが月の五感を満たし、彼女に世界を教えていた。

 漠は、月の目だった。彼の耳は、幼い頃の事故で音を失っていた。だが、その代わりに、彼は視覚で世界の全てを把握していた。月の僅かな身体の揺れ、表情の動き、そして何よりも、彼の口から紡がれる言葉が、月の世界を形作っていた。彼らは互いの欠けた部分を埋め合い、この闇深い裏社会で「白蛇」と呼ばれ、恐れられる殺し屋として生きてきた。

 今夜の標的は、この街の裏を牛耳る「黒龍」傘下の末端組織の幹部、李だった。李は最近、黒龍の指示に背き、横流ししたドラッグの利益を独占していた。その裏切りを看過できない黒龍からの「始末しろ」という冷酷な命令が、漠と月に下ったのだ。

 狙撃ポイントの屋上。漠は研ぎ澄まされた視力で、標的を捕捉する。その横で、月は目を閉じ、研ぎ澄まされた聴覚で周囲の音を拾う。漠の口から、低い声が漏れた。

「二階の角部屋の窓際に李がいる。護衛が通路には二人、部屋の奥には一人いる」

 漠の声は、月の耳に直接届く。彼女はそれを瞬時に解析し、脳内で李の部屋の間取りと護衛たちの配置を構築していき、漠の目に手話で伝える。

「風、右から左、弱い、李、動かず。護衛、通路の一人、足を組み替えた、油断」

 月の正確な情報に、漠は小さな声で応答する。彼は呼吸を整え、引き金に指をかけた。月が手話で合図を送る。

「撃て」

 その瞬間、屋上から見える李の部屋の窓ガラスに、小さな穴が開いた。李は、グラスを傾けたまま、呆然と倒れ込む。護衛たちが騒ぎ出すが、すでに遅い。

 任務完了。

 漠は銃を分解し、静かにバッグにしまう。月は彼の腕に触れ、合図を送った。

「次へ、?」

 漠は小さく頷き、「ああ」と低い声で答えた。彼らは、街の闇へと溶け込んでいく。


 彼らがこの仕事を選んだのは、奇妙な巡り合わせだった。漠は幼い頃の事故で聴覚を失った。音のない世界で生きる彼は、常に周囲から孤立していた。言葉は壁となり、感情は読めない。そんな漠に手を差し伸べたのは、彼らの養父となった裏社会の老齢の武術家だった。老人は漠に、視覚で世界を捉える術を教え込んだ。

 月は、生まれつき目が見えなかった。彼女の世界は、常に暗闇だった。だが、その暗闇は、彼女の聴覚を研ぎ澄ませた。微かな音の反響、空気の振動、心臓の鼓動。それら全てが、彼女にとっての光だった。老人は月に、音と気配で敵の動きを予測し、空間を把握する術を叩き込んだ。

 彼らは、老人の元で出会った。互いの欠損が、互いの存在意義を補完した。漠は、自分の目に映る世界を、言葉にして月に伝えた。月は、自分の耳が拾う音の世界を、漠に伝えることで、彼の行動を導いた。彼らは独自の手話や、互いの体を使う様々な独自の合図で、コミュニケーションを築き上げた。老人が病に倒れた後、彼らはその医療費と、自分たちが生きるための金を稼ぐために、殺し屋として裏社会に足を踏み入れた。

 彼らは「白蛇」と呼ばれた。蛇のように静かに獲物に忍び寄り、獲物の音を聞き、その動きを予測し、決して外さない。その正確さと、決して感情を表に出さない冷徹さで、彼らは瞬く間に名を馳せた。

 漠は、常に妹の安否を最優先した。どんな危険な任務でも、まず妹が安全な位置にいられるかを確認し、その上で行動に移った。月もまた、兄の命を守るためなら、自分の命を投げ出すことも厭わなかった。彼らは単なる殺し屋ではなかった。互いが、互いの全てだった。音のない世界で、光のない世界で、唯一互いだけが、確かな存在だった。


 最近、この街の裏社会は、かつてないほど不穏な空気に包まれていた。「黒龍」の老獪な支配に対し、新たな勢力が台頭しようとしていたのだ。若く野心的なリーダーが率いる新興勢力は、黒龍の組織に次々と揺さぶりをかけ、抗争の火種をばら撒いていた。

 漠と月は、両者の抗争には極力関わらないようにしていた。彼らの目的は、金を得て静かに生きること。だが、裏社会の渦は、彼らを巻き込まずにはいなかった。ある夜、彼らは黒龍からの緊急の呼び出しを受けた。

「例の新興勢力の幹部を始末しろ。奴らは今夜、旧市街の廃工場で密会する。数は不明。用心しろ」

 黒龍の部下からの指示は、いつもより簡潔で、どこか焦りを帯びていた。旧市街の廃工場。そこは、この街でも有数の危険な場所だった。入り組んだ構造、視界の悪い暗闇、そして不意打ちの危険。いつもと違う、嫌な予感がした。

 月は、漠の視覚を信じる。漠は、月の聴覚を信じる。彼らは合図を行い、装備を整え始めた。

 夜の廃工場は、沈黙に包まれていた。漠は先行し、月の手を引く。足元の小石が立てる微かな音、錆びた鉄骨が風に軋む音、遠くで犬が吠える声。それら全てが、月の研ぎ澄まされた聴覚に鮮明に届く。彼女は音の反響から、広大な空間と、その中に潜むであろう人間の気配を読み取っていた。

「前方、右方向に多数いる。武器は銃だ。」

 漠の声が、月に明確に伝わる。漠は腰に提げたナイフを抜き、静かに構えた。彼らは音もなく廃工場の中を進んでいく。突如、背後から複数の足音が近づくのを月が察知した。

「後ろ、二人、武器、金属音、」

 月の合図に、漠は即座に反応し、妹を庇うように振り向いた。次の瞬間、彼らの前に現れたのは、闇の中から飛び出してきた二人の屈強な男たちだった。男たちは、漠と月に容赦なく襲いかかる。

 漠は冷静にナイフを振るい、一人の男の腕を切り裂いた。男が苦悶の声を上げるが、漠の耳には届かない。もう一人の男が月に向かって突進した時、月は音の反響でその軌道を正確に捉え、身体を滑らせるようにかわした。彼女の指先から、音もなく鎖鎌が放たれる。鎖鎌は男の足元を絡め取り、バランスを崩させた。

「よし、もう一人!」

 漠が声を張り上げた、その時だった。闇の中から、新たな影が飛び出した。それは、先ほどの男たちとは比べ物にならない速さで、漠の懐に飛び込んだ。漠は反応が遅れた。閃光のような一瞬。ナイフが、漠の喉を切り裂いた。

「………っ」

 彼は、血を吐き出しながら、ゆっくりと地面に倒れ込む。月の耳から彼の声が消えた。しかし、彼女は兄の身体から、今まで感じたことのない、生命が尽きていくような微かな振動と、暖かさが急速に失われていく感覚を捉えた。

「何、負傷、正確な場所」

 月は合図を送った。しかし、漠からの返答はない。

 しかし、彼女の研ぎ澄まされた触覚は、兄の体から伝わる異常な熱と、急速に失われていく生命の鼓動を鮮明に捉えていた。同時に、廃工場に響く敵の足音と、金属が擦れる音が、彼女の耳を激しく叩く。月は混乱した。兄の異変と、迫りくる敵の存在が、彼女の世界を暗闇へと突き落とす。

「何、応答、迅速に」

 月は合図を送り続ける。彼女は、視界のない闇の中で、必死に兄を探す。だが、その手を掴む者はいない。唯一感じられるのは、血の鉄臭い匂いと、地面を這う冷たい血の感触だけだった。

 その時、背後から音が迫る。月は、握っていた鎖鎌を振り上げた。彼女は、敵がどこにいるのか、漠の「声」という指針がないため、正確には掴めない。だが、その音と、空気の振動から、音のする場所を特定する。兄を傷つけた敵への憎悪が、彼女の冷静さを奪う。

「離れて、斬撃、行う」

 月は合図を送り、音のする方に鎖鎌を振り下ろした。鎖鎌の先端が、鈍い音を立てて命中する。しかし、その後に続いたのは、敵の苦鳴ではなく、兄の体から伝わる、今までになくはっきりと感じ取れた、最後の生命の鼓動だった。

ドクン、ドクン、ドクン……そして、ピタリと止まる。

 月は、凍り付いたように立ち尽くした。脳裏に、漠の暖かな手の感触が蘇る。いつも彼女を導き、守ってくれた、あの手の感触。そして、今、鎖鎌の先から伝わってくる、もう二度と動かない、冷たくなっていく肉塊の感触。

「…あっ……」

 彼女の研ぎ澄まされた聴覚が、再び機能し始める。耳に届いたのは、敵の荒い息づかいだけであった。兄の鼓動は、完全に消えていた。

 自分が何を、誰を、殺してしまったのか。

視界のない闇の中で、月は全てを理解した。兄を守ろうと、敵だと思い込み、振り下ろした鎖鎌が、最愛の兄にとどめを刺したのだ。

「ああ……ああ……」

 言葉にならない嗚咽が、月の喉からこみ上げる。その場で膝から崩れ落ち、震える指先で地面を這う。彼女の指先が触れたのは、まだ温かい、しかし脈打たない漠の喉元だった。血の匂いが、彼女の鼻腔を焼く。


 漠は、彼女の全てだった。彼女の目であり、そして世界そのものだった。彼がいたからこそ、彼女は光のない暗闇の中で、生きる意味を見出すことができた。その漠を、自分の手で殺してしまった。彼女の心は、音を立てて崩れ落ちた。

 敵の足音が、近づいてくるのが聞こえる。月は、ゆっくりと鎖鎌を拾い上げた。その冷たい感触が、彼女の決意を固める。もう迷いはない。

「今、向かう」

 月は動かなくなった漠に触れ、合図を送った。それは、誰にも届かない、彼女の最後の合図だった。彼女は鎖鎌の鋭い刃先を、自身の喉元に当てた。そして、合図の通り、彼女は向かった。


音も光もない世界へ。


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