書籍化記念SS◆新たな命・後編
苦しいつわりの時期もやがて過ぎ、それから半年以上の月日が経った。
目覚めた時からお腹にかすかな痛みを感じた、その日。ついに新たな命を迎える瞬間が訪れた。
午後になると痛みの感覚は徐々に近くなり、やがて耐えがたいほどの大きな波となって押し寄せるようになった。ミハは片時も私のそばを離れず、しっかりとこの手を握ったまま懸命に私を励まし続けた。
「苦しゅうございますか? エリッサ様。どうぞお気を確かに。大丈夫ですよ、もうしばらくの辛抱ですからね。ああ……代わってさしあげたい……! エリッサ様……!」
涙を含んだ上擦った声で、ミハが私の名を呼び、そう励ましてくれる。
(ミハのこんな声初めて聞いたな……)
苦しみに喘ぎながらも、朦朧とする頭の片隅で私はそんなことを思っていた。彼女は私の額の汗をこまめに拭きながら、「陛下も扉の外でずっと祈っておられますよ」とか、「もう少しです! もう少しで、陛下に御子のお顔をお見せすることができますよ!」とか声をかけてくれ、意識が飛んでしまいそうになる私にクロード様の存在を思い出させてくれた。そのおかげで、私は最後まで耐え抜くことができた。
永遠に続くのではないかと思える痛みからは、最後の力を振り絞った瞬間、ようやく解放された。
部屋の中に、新しい生命のか細い産声が響き渡る。
それはまるで、天からの祝福の鐘のようで。
私の胸はこの上ない幸せに満たされたのだった。
「おめでとうございます、王妃陛下。男の子です。とても元気な男の御子でございますよ」
取り上げてくれた老女医が、私にそう声をかける。脱力し荒い呼吸を繰り返していた私は、その声で胸がいっぱいになった。
「……ミハ……」
私は無意識に、頼りになる大切な侍女の名を呼びながら、彼女の姿を探す。……ミハは私の枕元に立ち、両手で顔を覆って肩を震わせていた。私の呼びかけに気付き、慌てたように向こうを向いて顔を拭っている。
「……失礼いたしました、エリッサ様。ミハはここにおります。おめでとうございます……! お疲れ様でございました。よく頑張られましたね」
彼女はそう言って私のそばに屈み込み、手を握ってくれる。ミハのその目は真っ赤になり、潤んでいた。私まで感極まって涙が滲む。
「あ……ありがとうミハ。ずっとそばにいてくれて……」
「何をおっしゃいますか。当然でございましょう。……ほら、御子は綺麗に洗ってもらったようですよ。さ、エリッサ様……お抱きくださいませ」
手を握り合って涙ぐむ私たちのもとに、侍女の一人がにこにこしながら赤ん坊を連れてきてくれた。元気いっぱいに泣いている。ミハに支えられ、私は上体を起こした。真っ白な布に包まれているその子をおそるおそる受け取り、その小さな顔を覗き込む。
「……なんて可愛いのかしら……」
「……まことに……」
何がそんなに悲しいのかと問いたくなるほどに、顔中をしわくちゃにして小さな口を開け泣いている赤ん坊。その口の中には、くるんと丸まった可愛らしい舌が覗いている。産毛のような髪は黒。瞳の色は、まだ閉じているから分からない。
あまりの愛らしさに、私とミハはしばらくクスクスと笑いながら赤ん坊の顔を見つめていた。するとしばらくして、私の腕の中の赤ん坊が大人しくなった。
「……泣き止んだわ」
「ふふ。お母様に抱かれて気持ちが落ち着いたのでしょうか。そろそろお父様もお見えになりますよ」
ミハがそう言った途端、部屋の入り口の方からドタドタという乱暴な足音が聞こえてきた。
「──エリッサ!!」
驚くほどの勢いで開けられた天蓋の帳。大人しくなっていた赤ん坊が、また「ふぇぇ……」と声を上げる。
愛おしい人は私の顔を見た途端、見て取れるほどの安堵の表情を浮かべた。ミハが音もなく後ろへと下がる。
「……よかった……本当に……。無事なのだな? 私が分かるか?」
「ふふ。はい、もちろんですわ、クロード様。……生まれました。あなたの子です」
クロード様が私のそばにやって来た。彼は私の腕の中でひぇひぇとか弱い声を上げて泣く赤ん坊を、じっと見つめる。やがてその眦が、かすかに朱に染まった。
「どうぞ、クロード様。抱いてあげてくださいませ」
「……私の武骨な腕でこのような小さな赤ん坊を抱いても大丈夫だろうか。潰してしまいそうだ」
「まぁ、まさか。ふふ……。大丈夫ですわ」
冗談交じりにそんなことを言うクロード様の声は少し掠れていて、彼もまた感極まっているのだと分かった。
身を屈め、私の手からこわごわと赤ん坊を受け取ったクロード様。そのまま腕の中の赤ん坊を見つめながら、ゆっくりと立ち上がる。その姿を見上げた私の瞳から、ふいに涙がこぼれた。
愛する人が、私たちの赤ん坊を抱いている。
こんな幸せな瞬間を迎える日が来るだなんて、夢にも思わなかった。
「……お前に似ているな、エリッサ」
「……えっ? そ、そうですか?」
「ああ」
突然そんなことを言い出すクロード様に戸惑う。生まれたての赤ん坊なんて、どちらに似ているとか分かるものかしら……。
私の手が空いたのを見計らったかのように、ミハが私に果実水を持ってきてくれた。グラスを傾け喉を潤してから、それをミハに返し、再びクロード様の方を見る。
「私は特にそうは思いませんでしたが……髪の色もあなたと同じです。きっとクロード様に似ているのではないでしょうか」
「……そうか? だが、こんなにも愛らしいんだぞ。どう見てもお前だろう」
「まぁ。クロード様ったら……」
赤ん坊が愛らしいから私に似ているだなんて。なんだかくすぐったいし、そもそもクロード様似だったとしても、生まれた瞬間から強面なわけがない。
頭の中でそんなことを考え、一人で可笑しくなっていると、腕の中の赤ん坊を見つめていたクロード様がふと呟いた。
「……そうか。可愛らしくて愛おしいから、お前に似ているように感じるのかもしれんな。私がそんな風に感じた存在は、これまでお前一人だったが……。これからは、慈しみ守り抜くべき者が一人増えたわけだ。ますますしっかりせねばな」
「ク……クロード様……」
その言葉に喜びで胸がいっぱいになり、私の頬がじんわりと熱を帯びる。老女医が、「陛下、御子の状態を詳しく確認させていただきます」と言ってきたので、クロード様は赤ん坊を慎重な動きで彼女に手渡した。
天蓋の内側に二人きりになった。周囲では侍女や女医の助手たちが忙しなく動き回っている。クロード様はベッドサイドに腰を下ろすと、大きな腕で私の体を抱き寄せた。出産直後の自分の体が気になり、つい身じろぎしてしまう。
「あ、汗をかいておりますので……」
けれどクロード様は意に介すこともなく、私の髪やこめかみ、頬や耳に口づけを繰り返す。
「分かっている。このか細い体でこんなにも長い時間、私たちの子を産むために懸命に頑張っていたのだから。……お前が無事で、本当によかった」
「……クロード様……」
「ありがとう、エリッサ。この国の王としても、そしてお前の夫としても、心から礼を言う。……お前は私の誇りだ。そして誰よりも大切な、たった一人の妻だ」
「……っ」
かけられる言葉の一つ一つが嬉しくて、幸せで。
瞳に涙が溜まり、静かに頬を伝った。
クロード様はそれを指先で優しく拭い、そのまま私に唇を重ねる。
角度を変え、ゆっくりと何度も触れ合わせた後、クロード様は名残惜しげな顔をして私からそっと離れた。
「……ゆっくり休め。また後で様子を見に来る。……愛している、エリッサ」
「……私もです、クロード様」
そう答えると、彼は満ち足りたように微笑み、私の体をそっとベッドに横たえた。
アイスブルーの瞳を持つ私たちの赤ん坊は、ネイサンと名付けられた。“神の賜物”という意味を持つ。
やがてこのサリーヴ王国を背負って立つ赤ん坊は、王城の者や民たちから「ネイト王子」と呼ばれ、皆に愛されながら健やかに育つのだった────。
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今作を読んでくださった全ての方へ
心からの感謝を込めて……
ありがとうございました!!(*^^*)




