10. 心臓の鼓動
私の姿を見て静かに立ち上がったクロード・セルウィン公爵閣下。その姿は、こちらが怯んでしまうほどに威圧感があった。
これまで近くで見たことのある他のどの殿方よりも、大きな体。驚くほど高い身長に、たくましい肩幅。元軍人と聞いていなくても、そういう仕事をしていた人だと一目で察せられる体躯とオーラだ。
漆黒の髪を後ろに撫でつけ、感情が分からないアイスブルーの切れ長の瞳で、私のことをジッと見据えている。……そしてその左頬には、くっきりとした傷跡が縦に大きく走っていた。
(……怖い)
それが私の、彼に対する第一印象だった。
彼は目を逸らすこともなく、氷のような印象の瞳で私を見つめている。笑顔もなければ、温かく柔らかい雰囲気もない。私の心臓は激しく脈打っていた。
「大変お待たせをいたしました、セルウィン公爵閣下。これが娘のエリッサでございます」
父の声にハッと我に返った私は、必死で気持ちを落ち着かせながら、この身にしっかりと刻み込まれた極めて優雅なカーテシーを披露した。
「お初にお目にかかります、セルウィン公爵閣下。ハートネル侯爵が長女、エリッサにございます。本日は遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
挨拶の出だしの声が、少し掠れてしまった。
公爵は少しの沈黙の後、低く静かな声で仰った。
「……初めまして。私があなたとの顔合わせを望んだから、急遽帰国してくださったとか。わざわざすまなかった。ありがとう」
(……っ、)
意外にも公爵閣下の声はとても穏やかで、そのバリトンはぞくりとするほど心地良く耳に響いた。顔を上げると彼のアイスブルーの瞳が、いまだ私を捕らえていた。見つめ返したその瞳は一見冷たく見えるけれど、その奥にある光は穏やかな気がする。
なぜだか体がじんわりと熱くなり、恐怖心もすうっと消えていった。……けれど、心臓の鼓動は治まる気配もない。
初対面の挨拶が終わると、セルウィン公爵が父と母の方を見て言った。
「少し、ご令嬢と二人でお話しする時間をいただけるだろうか」
「もちろんでございます、閣下。我々は少し外しますので、どうぞごゆっくりなさってくださいませ」
父は妙にへりくだった笑みを浮かべるとそう言いながら立ち上がり、母もまた、父と同じように愛想笑いを浮かべながら応接室を後にした。部屋に残ったメイドたちが両親のティーカップを下げ、公爵と私に新しいお茶を入れる準備を始めた。ミハは部屋の端で静かに待機している。公爵が再びソファーに腰を下ろしたので、私も内心ドギマギしながら向かいの席に腰かけた。
「こんなに年上の男から突然このように声をかけられ、驚いただろう」
(……やっぱりとても素敵なお声だわ)
包み込むように響くその低い声が、どうやら私は気に入ってしまったらしい。彼が声を発するたびに、心臓がパタパタと暴れる。
「滅相もございません。あまりに畏れ多く、身に余るお申し出でしたので、どなたかとお人違いをなさっておいでなのではないかと戸惑いはいたしましたが……」
……一体私は何を言っているのかしら。何をこんなに動揺しているの。馬鹿みたいにへりくだったことを言ってしまった。私らしくもない。
自分のみっともなさに頬を染めていると、目の前のセルウィン公爵がほんの少し、表情を和らげた……気がした。
「そんなに畏まらなくて結構。もうご両親も退室なさったのだから、腹を割って話をしよう」
(は、腹を割って……?)
初対面でそんなことを言われ、今度こそ私は本当に戸惑った。曲がりなりにも侯爵家の娘。初対面の男性と腹を割って話などしたことはない。
どう答えていいやら分からず、私は少し目を伏せ曖昧に微笑んだ。セルウィン公爵はそんな私に向かって、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「お聞き及びのことと思うが……父が公爵を引退するまで、私は軍人として国内を飛び回っていた。各地で砦を守り、野獣討伐から賊の撃退、時には同盟国の戦の助っ人まで。……先日、先代公爵である父が、母を連れ別邸に隠居した」
「……先代公爵様は、まださほどお年を召されてはおられなかったと記憶しております」
「五十五になるな。胸の病があまり良くなくて、めっきり弱ってしまってね。私が家督を継いだのだ」
「……さようでございますか」
前国王陛下も心臓を悪くされての急逝だった。ご兄弟ともに、元々その辺りがよろしくなかったのだろうか。
私の心を読んだかのように、セルウィン公爵が言った。
「父は今すぐ命に関わるというほどのものでもない。静養しつつ過ごせば、まだまだ余生を楽しめるだろう。私は至って健康だし、心配はいらない」
「そうなのですね。でしたら、ようございました」
少しホッとして私がそう答えると、公爵の表情がわずかに柔らかくなった。