子守歌と、ティアヒムの問いかけ
「……今日は体調は大丈夫なのか?」
旦那様の執務室にお菓子を届けに行った際に、心配されてしまう。
……湖から帰ってきた後、私は反動が起きるのにも関わらず紙に情報を纏めている。その結果、調子が良くない時が度々ある。
旦那様はなんだか以前より優しくなっている気がする。
……ちなみになのだけど、私が二か月で離縁したいと言ったのは体が悪いからではないかと勝手に勘違いされているようだ。そんなことは全くないのだけど、そういう風に勘違いされているのはまぁ、動きやすいからいいけれど。
「私は大丈夫ですわ」
そう口にして、そのまま旦那様の執務室を後にしようとする。このままずっとここに居たらもっと体調が悪い様子を旦那様に見せて余計な心配をされてしまうことになるもの。
そう思っていたのだけど、駄目だったわ。
「心配だから目の届く範囲にいるように」
良い笑顔でそんなことを言われて、私は執務室内に留まることになってしまったの。
その素敵な笑顔を見ていると、思わずときめいてしまった。いや、だってね、旦那様の顔って私は好みなの。そんな好みの顔の美形からそんな笑顔を向けられたら、挙動不審にもなるわ。
そのうち私はやっぱり具合が悪くなって、ソファに横になる。
いつの間にか私が横になりやすいようにクッションなども用意されていた。どうして皆、こう、甲斐甲斐しいのかしら。
仮にも公爵夫人という立場としてみると、私は駄目駄目なの。
ただただ屋敷内でいつもお菓子を作ったり、子供達と喋ったり――要するに遊んでいるだけなの。
公爵夫人としての公務なんて一切やっていなくて、旦那様の役になんて全く立てていない。それなのに……驚くほどに、クーリヴェン公爵家の人達は優しいの。
旦那様も子供達もそうだけど、使用人たちも……。私みたいな公爵夫人に仕える事に何かしら思うことがあるのではないかと思うのに、にこにこしてこちらを見ている人ばかりだわ。
旦那様はとても冷たい方だと噂されていた。それこそ人を人と思わないような人だと。敵対する者に容赦がなくて恐ろしい方だと。
そこに仕える人たちも、同じように冷たい様に違いない。だから嫁いだら苦労をすると散々言われた。
家族にも、親しくしていた人たちにも――私がこうしてクーリヴェン公爵家に嫁ぐことを心配されていた。実家の家族にも「……ウェリタ、家のためとはいえ無理しなくていいんだよ?」と何度も言われた。それでも家族が大切だから、渡りに船とばかりに政略結婚を受け入れたのは私だ。
でも全然、そんなことはない。
ぼーっとしながら旦那様を見ていると、目が合った。
あ、笑った。……口元を緩めて、小さく笑う。
その笑みが綺麗で、あまりにも優しくて驚いてしまう。
「寝られないのか?」
「……はい」
私が頷くと旦那様は、椅子から立ち上がり私に近づいてくる。
柔らかい笑みを浮かべていた旦那様は、私の手を取り、口を開いた。その口から紡がれているのは、子守歌なようなもので驚いた。
「……子守歌ですか?」
「ああ。昔、私が乳母から聞かされたものだ。歌いなれないから不恰好だが」
「全然、そんな風に思いません。寧ろ、旦那様が歌ってくれるならゆっくり眠れそうです。旦那様は本当に優しいですわ」
私がそう口にすると、旦那様は照れたような様子を見せた。こういう旦那様の一面を見ていると……何だか、このまま自分が死んでしまうのがもったいなく感じる。
……本当はね、死にたくなんかない。
前世の記憶を思い出したから、私は自分を客観的に見ていて。どこか現実逃避している。
自分事じゃないように捉えないと、私は耐えられなくて。こういう状況を受け入れた風に見えるのは、ずっと――そういう感覚だから。前世の記憶を思い出したから腹を括った。そうじゃなければこんな状況にも、紙に情報を記載することでの痛みにも、耐えられなかったはずだから。
「ウェリタ」
「……なんですか」
「君は二か月で去ると言っていたが、ずっといてもいい」
「……なんでそんなことを、言うんですか」
私は旦那様の言葉に、うつらうつらしながら問いかける。
どうしてこの人は、こんなに優しいんだろう。こんなにも、私によくしてくれるのだろう。
誰もが優しくて、クーリヴェン公爵家は本当に居心地が良さ過ぎる。
そのせいで心が揺らぎそうになる。決めたのに。旦那様を殺すぐらいなら、私が大人しく死のうって。
「君が居た方が子供たちが楽しそうだ。……それに私も君が居た方がいい」
そんな風に私に優しくしないでほしい。甘やかそうとしないでほしい。
……旦那様がもっと嫌な人だったら、こんな風にぶれずに済んだのにな。こんなにも居心地がよくて、ずっとこの場に居たいなと思う場所じゃなかったら……。もっと現実逃避が楽だったのになんて思う。
「そう言ってもらえて嬉しいですわ。……でも決めたことですから」
だって私は旦那様を殺すように密命を受けた存在だもの。いうなれば旦那様の命を狙う敵で。
だから、私みたいなのがあまりにも心地が良いからと長居しようとしない方がいい。……あとこの会話、バルダーシ公爵家の手の者に聞かれてないわよね? 聞かれていたら強硬手段に出られる可能性もあるかもと少し心配になった。
私は旦那様に答えた後、気づいたら眠っていた。
目を覚ました時には、旦那様の姿はなかった。ただ侍女たちが私の過保護なぐらい心配してくれた
。
少し休んだら大分、調子が良くなった。
バルダーシ公爵家がどんなふうに動くか分からないから早めに紙に情報を書き留めないと!
そう決意した私は自室へと向かう。
その最中に、「母上」と声を掛けられる。
「あら、ティアヒム。どうしたの?」
「……母上が具合が悪いと聞いたので。大丈夫ですか?」
そう言いながら、ティアヒムは私の手を取る。
……ティアヒムは最近、何か確認するように私の手を取ったりすることが多くなった気がする。
「……母上、何か悩みはないですか? あったら父上にすぐに言ってください」
部屋へと歩く中、ティアヒムからそんなことを問いかけられて私は一瞬ドキリッとした。
「悩みなどないわ」
当然、それに馬鹿正直に答えることなど出来ないので私はそう答える。
ティアヒムは本当に優しい子だと思う。たった一か月でこんなに心を許してくれるなんて誰かに騙されないかと心配になる。
「本当ですか? 嘘だったら嫌ですよ」
「嘘なんかじゃないわ」
どちらにしても最大の悩みに関しては子供に言うことでもなければ、誰かに言おうとしてもできないことだもの。だから仕方がないことだわ。
私の返答を聞いたティアヒムは、その後笑みを浮かべて「分かりました」と言った。その後は普段通り過ごせたのでごまかせたかなとほっとした。
私はその後、ティアヒムに部屋まで送り届けてもらった。
私が部屋の中に入っていくのを見て、「本当に母上は……他人のことばかりです」と何か決意したように呟いているティアヒムに私は気づいていなかった。




